第三十三話「愛か価値か、そんなの並べる方が間違ってる」
放課後のチャイムが鳴った時、思ったよりも心臓がうるさかった。
決めたのは自分だ。
真正面から立つって。
逃げないって。
ちゃんと話すって。
でも、決めたからって怖くなくなるわけじゃない。
むしろ、ちゃんと怖い。
怖いとわかった上で、それでも行くしかないだけだ。
「……依夜さん」
隣で、メイベルが小さくあたしの名前を呼ぶ。
「なに」
「……ほんとうに、行くんですか」
「行くよ」
「……」
「やめてほしい?」
メイベルはすぐには答えなかった。
机の端をぎゅっと掴んで、それから、ゆっくり首を振る。
「……やめてほしく、ないです」
「……」
「こわいですけど」
「うん」
「でも」
「うん」
「ちゃんと、してほしいです」
その“ちゃんと”は、前とは少し違う響きだった。
守ってほしい、じゃない。
代わりに戦ってほしい、でもない。
曖昧なまま逃げないでほしい。
そう言われている気がした。
あたしは小さく頷く。
「うん」
「……」
「今日は、そこやる」
少しだけ間を置いてから続ける。
「ただし」
「……はい」
「あんたは来なくていい」
「え」
「むしろ、いたらきついでしょ」
「……」
「澄鈴と一緒にいて」
メイベルは黙った。
少し長い沈黙。
それから、小さく頷く。
「……わかりました」
「うん」
「……でも」
「なに」
「終わったら、迎えにきてください」
「……」
少しだけ息が抜けた。
「行くよ」
「……はい」
◇ ◇ ◇
連れて行かれたのは、旧校舎側の談話スペースだった。
人の気配はほとんどない。
夕方の光も薄くて、妙に静かだった。
逃げ場がない。
そう感じた瞬間、少しだけ手に力が入る。
「で?」
美良が先に言う。
「何を話したいの?」
相変わらず、余裕のある顔。
でも今日は、それに乗らない。
「メイベルに、ああいう言い方するのやめて」
「どういう?」
「わかってて聞くのやめて」
美良は少しだけ笑う。
「確認は大事よ」
「そういうの」
「……」
「“向いてない”とか」
「……」
「“できないままならダメ”みたいなやつ」
「……」
少し間が空いた。
「で?」
「で、じゃない」
「私がやめたら、あの子は変わる?」
言葉が詰まる。
そこは、正直わからない。
美良が何も言わなくなったからって、メイベルが急に強くなるわけじゃない。
不安が消えるわけでもない。
でも。
「……それでも」
「……」
「壊しに来るのはやめて」
美良は小さく息を吐いた。
「壊してるつもりはないわ」
「結果がそう見える」
「結果、ね」
視線が少し鋭くなる。
「東さん」
「なに」
「あなた、まだ“守る”ことしか考えてない」
眉が動いた。
「違う」
「そう?」
「前はそうだったかもだけど」
「……」
「今は違う」
美良が、少しだけ興味を持った顔になる。
「へえ」
「囲って終わりにするつもりはない」
「……」
「でも」
「……」
「壊れる寸前まで追い込むやり方も、選ばない」
そこで一度、言葉を切る。
「……その間を取る」
自分でも、少し曖昧だと思った。
でも、それでいい。
綺麗に言い切るより、その方がずっと本音に近い。
美良はしばらく黙って、それから言った。
「綺麗ね」
「は?」
「理想が」
来ると思った。
「現実はそんなに都合よくいかないわよ」
「……」
「あなた、昨日失敗したんでしょう?」
「……」
「メイベルに」
胸の奥が少し痛む。
でも、目は逸らさない。
「うん」
「それでも、まだうまくやれると思う?」
「思ってない」
即答だった。
「……」
「全然思ってない」
美良の目が、ほんの少しだけ動く。
「また間違えると思う」
「……」
「たぶん、何回も」
静かに言う。
「でも」
「……」
「あたしがどうするかは、あたしが決める」
少し息を吸う。
「最初から傷つける方は、選ばない」
美良は何も言わない。
だから、続けた。
「……うまく言えないけど」
言葉を探す。
「役に立つから一緒にいる、とか」
「……」
「できるから選ぶ、とか」
「……」
「そういうの、嫌だ」
はっきり言う。
「メイベルを、そういう秤に乗せたくない」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、美良が口を開く。
「……甘い」
「知ってる」
「ぬるい」
「それも知ってる」
「それでどうするの?」
問いが落ちる。
逃げ場のない問い。
「……それでも選ぶ」
「……」
「理由がちゃんとしてなくても」
「……」
「間違えるかもしれなくても」
そこで、少しだけ息を吐く。
「それでも、あたしが選ぶ」
その言葉に、美良はしばらく黙った。
それから、ぽつりと。
「弱いまま愛されるなんて」
「……」
「そんな都合のいい話、長く続くと思う?」
静かな声だった。
でも、刺さる。
「……続くかどうかじゃない」
「……」
「それでもいいかどうか」
気づけば、そう言っていた。
自分でも少し驚く。
でも、引っ込めない。
「……あたしは、いいと思ってる」
美良は、じっとこちらを見る。
笑っていなかった。
初めてかもしれない。
こんな顔を見るのは。
「……だったら」
「なに」
「証明してみれば?」
低い声。
「メイベルが」
「……」
「価値とか関係なく、選ばれるってこと」
挑発。
でも、それだけじゃない。
「あなた、自分で言ったでしょう」
「……」
「選ぶって」
あたしは少しだけ眉をひそめる。
「言ったよ」
「じゃあ最後までやりなさいよ」
その言い方は、相変わらず気に食わない。
でも。
「……やるよ」
「……」
引かない。
「やる」
短く言う。
美良はそれを聞いて、少しだけ笑った。
いつもの余裕の笑いではなかった。
「……やっと、それっぽくなった」
美良は立ち上がる。
「一個だけ教えてあげる」
「いらない」
「聞きなさいよ」
面倒くさい。
「東さん」
「なに」
「あなた、たぶんまだ勘違いしてる」
嫌な予感がした。
「何を」
「愛と価値はね」
「……」
「そんなふうに、別々に置けるものじゃない」
「……意味わかんない」
即答する。
美良は少し笑った。
「でしょうね」
「説明して」
「嫌」
「ほんと性格悪い」
「知ってる」
そのまま、くるっと背を向ける。
「じゃあね」
止める気にはならなかった。
今はまだ、あの言葉の意味よりも――
自分が選んだことの方が大事だった。
美良の背中が見えなくなる。
静かな空間に、一人残る。
「……」
深く息を吐いた。
勝った気はしない。
たぶん、負けてもいない。
ただ。
逃げなかった。
それだけは、確かだった。
◇ ◇ ◇
談話スペースを出ると、廊下の空気が少し冷たかった。
階段を降りながら、さっきの言葉が頭の中を回る。
愛と価値は、別々に置けるものじゃない。
意味はわからない。
わからないけど、引っかかる。
美良――いや、ミラベルは、たぶんわざと説明しなかった。
こっちに考えさせるために。
ほんと、性格が悪い。
でも。
その言葉を今すぐ理解できなくても、決めたことは変わらない。
メイベルを、役に立つかどうかで見たくない。
できるかどうかで、隣にいる理由を決めたくない。
そこだけは、たぶん間違えたくない。
◇ ◇ ◇
教室に戻ると、澄鈴とメイベルが待っていた。
メイベルはあたしを見るなり、すぐ立ち上がる。
「……依夜さん」
「ただいま」
そう言うと、メイベルの表情が少しだけ緩んだ。
「……おかえりなさい」
その言葉が、妙に胸に染みた。
「大丈夫だった?」
「まあね」
「……怖く、なかったですか」
「怖かった」
正直に言う。
メイベルが少し目を見開く。
「でも」
「……」
「逃げなかった」
それだけ言う。
メイベルは、少しだけ息を吸った。
「……はい」
澄鈴が横から言う。
「話せた?」
「話した」
「勝った?」
「知らない」
「負けた?」
「たぶん違う」
「じゃあ十分」
あっさり言う。
そうかもしれない。
今日は、勝ち負けじゃない。
逃げないで、言うことを言った。
それだけで十分な日もある。
「……依夜さん」
「なに」
「迎えにきてくれて、ありがとうございます」
「約束したからね」
「……はい」
メイベルは、小さく笑った。
少し不安そうで、でも安心している笑い方。
その顔を見て、ようやく肩の力が抜けた。
――戻ってきた。
ちゃんと。
あたしは今日、メイベルのところへ戻ってきた。
選ぶって、たぶんこういうことの積み重ねなんだと思う。
大きな言葉だけじゃなくて。
怖くても行くこと。
言うことを言うこと。
そして、ちゃんと戻ること。
それを何度も続けること。
まだ意味のわからない言葉もある。
まだ間違えることもある。
それでも。
あたしは選んだ。
だから、続ける。
それだけは、もう迷わなくていい気がした。




