第三十二話「真正面から立つの、こんなに怖いのに」
次の日の朝は、妙に静かだった。
昨日、あたしはメイベルに「選ぶ」と言った。
なんとなく流れで出た言葉でも、その場の勢いで口走った言葉でもない。
ちゃんと、自分の意志で選ぶと言った。
その重さが、一晩経ってもまだ胸の奥に残っている。
軽い約束じゃない。
撤回できるような、都合のいい宣言でもない。
だからこそ、思う。
――じゃあ、これからどうするんだ。
選ぶと言っただけで、何かが全部きれいに片付くわけじゃない。
美良はいる。
メイベルの不安も、全部なくなったわけじゃない。
あたし自身だって、完全に腹が据わっているわけじゃない。
それでも、昨日までとは確実に違う。
もうあたしは、“流されてここにいる”んじゃない。
自分でここに立つと決めた。
だったら、多分次に必要なのは――逃げないことだ。
「……」
視線を落とすと、床に敷いた毛布の上で、メイベルが静かに眠っている。
その寝顔は、ここ数日では一番穏やかだった。
昨日、帰り道で何度もあたしの袖に触れてきた。
でも前みたいに、縋りつくような必死さではなかった。
不安そうではあったけれど、それでも自分の足で隣にいようとしている感じがあった。
あれが、少し嬉しかった。
「……依夜さん」
小さな声がして、目が合う。
寝起きで少し潤んだ赤い目が、ぼんやりと私を映していた。
「起きた?」
「……はい」
「おはよう」
「おはようございます……」
メイベルはゆっくり上半身を起こして、少しだけ目をこする。
それから、何か言いたそうに視線を揺らした。
「……なに」
「えっ」
「なんか言いたそう」
「……」
「……」
「……昨日のこと」
「うん」
「まだ、夢じゃないですか」
その一言に、私は少しだけ笑ってしまった。
「夢であんな重い告白みたいなことしない」
「こ、告白……」
「そこに反応するんだ」
「だ、だって……」
みるみる顔が赤くなる。
相変わらず、わかりやすい。
「……夢じゃないよ」
「……」
「ちゃんと覚えてる」
「……はい」
メイベルは、ほっとしたように小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄れていく。
「……依夜さん」
「なに」
「今日」
「うん」
「姉さまと、また会いますよね」
「会うね」
「……」
やっぱり、そこは怖いらしい。
さっきまで少しやわらかかった表情が、また固くなる。
「……うん」
あたしは頷く。
「会う」
「……」
「避けられない」
「……はい」
メイベルの指先が、毛布の端をぎゅっと掴む。
「でも」
「……」
「今日は、昨日のあたしじゃないから」
その言葉に、メイベルが少しだけ目を見開いた。
「……それって」
「うん」
「どういう意味ですか」
あたしはベッドから降りて、カーテンを開けた。
朝の光が部屋に差し込む。
少し眩しくて、でもその明るさがちょうどよかった。
「逃げないってこと」
「……」
「あんたのことも」
「……」
「美良のことも」
「……」
「もう、“来たら考える”じゃなくて」
「……」
「ちゃんと向き合う」
言葉にしてみると、自分の中でも少しずつ輪郭がはっきりしていく。
そうだ。
あたしは今まで、美良に対してずっと“反応する”だけだった。
向こうから来た言葉に腹を立てて、刺されたところに反応して、メイベルが揺れたら慌てて支えて。
その場その場で凌ぐので精一杯だった。
でも、それだけじゃもう足りない。
あたしが、真正面から立たないといけない。
「……こわいです」
と、メイベルがぽつりと言った。
「うん」
「姉さまと向き合うの」
「うん」
「依夜さんが、わたしのことで姉さまと話すのも」
「……」
「こわいです」
その正直さに、あたしは少しだけ息を吐いた。
「そっか」
「……はい」
「でも」
「……」
「あたしも怖い」
「……え」
メイベルがきょとんとする。
「いや普通に」
「……」
「あんたの姉、だいぶやりにくいでしょ」
「……」
「人の痛いところ見つけるのうまいし」
「……」
「こっちが曖昧だと、そのまま刺してくるし」
「……」
「だから怖いよ」
そこまで言うと、メイベルは少しだけ驚いた顔をして、それからほんの少し肩の力を抜いた。
「……依夜さんでも」
「うん」
「こわいんですね」
「うん」
「……」
「だから、一緒」
その言葉に、メイベルは視線を落とした。
何かを確かめるように、指先をそっと握る。
「……じゃあ」
「うん」
「一緒に、こわがってもいいですか」
「なにそれ」
「だ、だめですか……?」
「いや」
「……」
「むしろその方がちゃんとしてる」
「……ちゃんと」
「強がって平気なふりするより」
「……」
「怖いなら怖いって言いながら立つ方が、ずっとまとも」
メイベルはしばらく考えて、それから小さく頷いた。
「……はい」
「うん」
その返事は、弱いけど逃げていなかった。
◇ ◇ ◇
登校中、今日はいつもより会話が少なかった。
でも、それは気まずい沈黙じゃない。
お互いに、ちゃんと今日のことを考えている静けさだった。
校門が近づいたところで、メイベルがそっとあたしの袖の端に触れた。
「……なに」
「……少しだけ」
「うん」
「確認です」
「何の」
「……まだ、選ばれてますか」
朝から重い。
重いけど、今さらそこを隠そうとしないあたりが、少しだけ昨日までと違う気もした。
「朝から重いなあ」
「うぅ……」
「でも」
あたしは少しだけ笑って言う。
「選んでるよ」
「……!」
「今日も」
「……はい」
その一言だけで、メイベルの歩幅が少し安定する。
本当に単純だ。
でも、今はその単純さがありがたかった。
教室の前で、澄鈴と合流した。
「おはよう」
「おはよう」
「お、おはようございます……!」
澄鈴がまずメイベルの顔を見て、それからあたしを見る。
「今日、ちょっと違う」
「どっちが」
「両方」
「便利な観察眼だね」
「事実」
淡々とした口調のまま、さらに言う。
「でも、少しマシ」
「ありがと」
「褒めてない」
「知ってる」
そのやり取りだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
いつも通りの会話ができることが、妙にありがたい。
教室に入る。
美良はもう来ていた。
席に座って、本を読んでいる。
その姿は相変わらず完成されていて、まるで何も起きていないみたいな顔をしている。
でも今日は、こっちも何の準備もなくここに立っているわけじゃない。
「おはよう」
と、美良が本から目を上げる。
「おはよう」
「……お、おはようございます」
メイベルも返す。
少し揺れたけれど、ちゃんと声になっていた。
美良はその反応を見て、わずかに口元を緩める。
「へえ」
「なに」
と、あたしは先に返した。
「今日は、ちゃんと立ってるのね」
「……」
「二人とも」
その言い方に、少しだけ背中が冷える。
試すみたいな、見定めるみたいな響きだった。
でも、もう逸らさない。
「立つよ」
「……」
「昨日の続きみたいな顔で見られても困るし」
「ふふ」
「あと」
「なに?」
「放課後、少し時間ある?」
美良の眉が、ほんの少しだけ動く。
「私に?」
「うん」
「珍しいわね」
「話したいことあるから」
一瞬だけ、教室の空気が変わった気がした。
美良は本を閉じる。
「へえ」
「何」
「真正面から来るんだ、って思って」
「……」
「昨日までのあなたなら、もう少し逃げるかと思ってた」
「うるさい」
でも、その通りだった。
昨日までのあたしは、ここで自分から“話したい”なんて言えなかった。
向こうが来た時に、その場で返すので精一杯だったから。
「いいわ」
と、美良が言う。
「放課後」
「うん」
「ちゃんと時間取ってあげる」
「上からだなあ」
「事実でしょ?」
相変わらずだ。
でも、今はその相変わらずさに押されない。
あたしが自分から話すと決めた。
それだけで、少しだけ景色が違って見える。
隣で、メイベルが不安そうに私を見た。
あたしは小さく頷く。
大丈夫、とは言わない。
簡単に言えることじゃないから。
でも、“一人じゃない”は伝えたい。
それが伝わったのか、メイベルもほんの少しだけ頷き返した。
真正面から立つのは、怖い。
本当に、怖い。
怖いのに、足がすくみそうなのに、それでももう前みたいには戻れない。
ここでまた曖昧にしたら、結局誰かの言葉に振り回されるだけになる。
だから、今日は逃げない。
放課後。
ちゃんと、自分から立つ。
怖いままでも、言葉を選んで、目を逸らさずに。
そう決めたまま、あたしは一時間目のチャイムを聞いた。




