第三十一話「あたしは、あの子を選ぶ」
メイベルの席が、空だった。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
「……っ」
呼吸だけが先に浅くなる。
でも、立ち止まってる暇はなかった。
教室を飛び出す。
廊下を左右に見る。
いない。
階段。
渡り廊下。
女子トイレの前。
どこにもいない。
「……メイベル!」
名前を呼ぶ。
でも返事はない。
放課後の校舎は、帰る生徒と部活へ向かう生徒でまだ少しざわついている。
その中で、あの子みたいに目立つ子が走っていたら誰か気づきそうなのに、妙に気配が薄い。
――やばい。
昨日みたいに、また一人で消えようとしてる。
あたしは階段を一気に上がった。
二階、三階。
途中で何人かの生徒とすれ違うけど、そんなの気にしていられない。
屋上に近い階段。
美良が言っていた場所が頭をよぎる。
そこまで来たところで、ようやく見つけた。
踊り場の窓の前。
壁に背を預けて、小さくしゃがみこんでいる金色の髪。
「……メイベル」
声をかける。
ぴくっと肩が震えた。
でも、こっちを見ない。
あたしはゆっくり近づいた。
急いで近づくと、今のメイベルはもっと固まる気がしたから。
「……迎えに来た」
と、できるだけ静かに言う。
その瞬間、メイベルの肩がもう一度揺れた。
「……」
「……」
「……依夜さん」
やっと、かすれた声。
「うん」
「……なんで」
「何が」
「……来たんですか」
その質問に、私は迷わなかった。
「決まってるでしょ」
「……」
「いなくなったから」
メイベルが、少しだけ顔を上げる。
目元が赤い。
でも、まだ泣いてはいない。
泣く一歩手前で止めてる感じだ。
「……」
「……」
あたしは少しだけ屈んで、目線を合わせる。
「しんどかった?」
「……」
「言えなかった?」
「……」
返事の代わりに、メイベルの唇が少しだけ震えた。
「……はい」
小さい。
でも、ちゃんと届いた。
「……授業中から、もうだめだったんです」
「うん」
「でも」
「うん」
「今日、少しましだったから」
「……」
「これくらいなら、大丈夫って……」
「……」
「思いたくて」
ああ、やっぱり。
そうだと思った。
少しましだった。
だから無理してでも“今日はいける”の方に寄せたかった。
それで限界を見誤った。
「……で」
「……」
「気づいたら、息が苦しくなって」
「……」
「教室にいたら、そのまま崩れる気がして」
「……」
「だから、逃げました」
逃げた、じゃなくて。
ちゃんと避難したんだよ、と言いたかった。
でも、今はそれより先に言うべきことがある。
「……でも、ちゃんと見つかった」
「……」
「迎えに来たし」
「……」
メイベルの目が、少しだけ揺れる。
「……依夜さん」
「なに」
「昨日、あんなこと言ったのに」
「……うん」
「それでも、来るんですか」
「来るよ」
即答だった。
「……」
「……」
「それは、来る」
迷いなく言ったら、メイベルがほんの少しだけ息を止めた。
「……どうして」
その問いは、今までで一番弱かった。
どうして。
それを、ずっと自分の中で考えていた気がする。
放っておけないから。
心配だから。
帰る場所でいたいから。
どれも本当だ。
でも、今この場で一番しっくり来る言葉は、たぶんそれじゃなかった。
「……あたしが」
「……」
「あんたを、一人で消える方に行かせたくないから」
言ってから、自分で少しだけ息が詰まる。
でも、嘘じゃない。
「……」
「……」
「昨日、間違えた」
「……」
「すごく」
「……」
「でも、そのままにしたくない」
メイベルの目に、少しずつ涙が溜まっていく。
「……依夜さん」
「うん」
「わたし」
「うん」
「教室から、いなくなった方が」
「……」
「誰にも迷惑かけないかなって」
「……」
その一言で、背中が冷える。
冗談じゃない。
本気で。
ほんの少しでも、その方向に傾いたんだ。
「でも」
「……」
「昨日、帰る場所って言ってもらったこと」
「……」
「今日、迎えに来てくれたこと」
「……」
「それ、思い出して」
「……」
ぽろ、と涙が落ちた。
「……ちょっとだけ」
「……」
「まだ、いていいのかなって思って」
あたしはその言葉を聞いて、ようやく深く息を吐いた。
ぎりぎりだ。
本当にぎりぎりだった。
でも、まだ間に合う場所にいる。
「……いていいよ」
「……」
「さっきも言ったけど」
「……」
「それ、あたしが決める」
「……」
メイベルが、泣きながらこっちを見る。
「……じゃあ」
「うん」
「依夜さんは……」
「……」
「わたしを、選びますか」
その問いに、あたしは動けなくなった。
今まで、流れで一緒にいた。
放っておけなくて世話をして、なんとなく隣にいて、なし崩しみたいにここまで来た。
でも、今聞かれているのは、そういうことじゃない。
状況じゃなくて。
義務感でもなくて。
面倒だからでも、放っておけないからでもなくて。
“選ぶかどうか”。
あたしはその問いの重さを、ちゃんと受け取った。
そして、受け取った上で。
「……選ぶよ」
そう答えた。
メイベルの目が大きく見開かれる。
「……今、ちゃんと言う」
「……」
「流れじゃなくて」
「……」
「なんとなくでもなくて」
「……」
「あたしは、あんたを選ぶ」
自分の声が、思ったよりはっきりしていた。
「……」
「あんたが重い時もある」
「……」
「面倒な時もある」
「……」
「泣きすぎだし、すぐ無理するし、放っておくと危なっかしい」
「……」
メイベルが、涙の中で少しだけしょんぼりした。
そこは反応するんだなと思う。
「でも」
「……」
「それ込みで」
「……」
「あたしは、あんたがいなくなる方を選びたくない」
言い切る。
「だから」
「……」
「帰っておいで」
その一言で、メイベルの涙が一気に零れた。
「……っ」
「泣くなとは言わないけど」
「……むり、です……」
「知ってる」
泣きながら、メイベルが小さく首を振る。
「……依夜さん」
「うん」
「ほんとに……?」
「うん」
「今だけじゃなくて……?」
「今だけじゃなくて」
少しだけ考えてから、私は付け足した。
「少なくとも」
「……」
「“しんどいから捨てる”は、もう選ばない」
「……」
その言葉に、メイベルが息を呑む。
多分それは、この子が一番聞きたかったことだ。
「……でも」
とあたしは続ける。
「その代わり」
「……」
「あんたも、消える方を勝手に選ばないで」
「……」
「しんどいなら言う」
「……」
「逃げたくなっても、一回私を探す」
「……」
「一人で“いない方がいい”まで行かない」
メイベルは、泣きながら何度も頷いた。
「……はい」
「ほんとに?」
「……はい」
「約束ね」
「……はい」
その返事を聞いて、あたしはようやく肩の力を抜いた。
「……立てる?」
「……少しだけ」
「じゃあ、少しだけでいい」
手を差し出す。
メイベルはそれを見て、ほんの少しだけためらったあと、そっと手を重ねてきた。
冷たい手だった。
でも、昨日みたいに遠い感じはしない。
引き上げる。
軽い。
相変わらずびっくりするくらい軽い。
立ち上がったメイベルは、まだ少しふらついていたけど、自分の足で立っていた。
「……帰ろう」
「……はい」
歩き出す。
階段を下りる途中、メイベルが小さく言う。
「……依夜さん」
「なに」
「さっきの」
「うん」
「“選ぶ”って……」
「……」
「すごく、うれしかったです」
その言葉に、少しだけ頬が熱くなる。
でも、今さら取り繕わない。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ忘れないで」
「……!」
「あたしは言ったから」
「……はい」
「あんたを選ぶって」
「……はい」
その“はい”は、今日聞いた返事の中で一番ちゃんとしていた。
階段を下り切る頃には、もう廊下に残っている生徒も少なかった。
遠くの窓際に、美良がいた。
壁に寄りかかって、こっちを見ている。
最初からそこにいたみたいな顔で。
あたしはその視線に気づいたけど、立ち止まらなかった。
メイベルも、今日はこっちを見たあと、ちゃんと前を向いた。
すれ違う直前、美良が小さく言った。
「……迎えに行けたのね」
あたしは歩みを止めずに返す。
「行ったよ」
「……」
「選んだから」
美良が、少しだけ目を細めた。
笑っているのか、試しているのか、やっぱりよくわからない顔だった。
「へえ」
「……」
「やっと、自分で言ったのね」
その言い方は少し気に食わなかったけど、今はどうでもよかった。
だってあたしは、さっきちゃんと選んだ。
流れじゃなくて。
なんとなくでもなくて。
自分の意志で。
メイベルの手が、少しだけあたしの袖に触れる。
掴むんじゃなくて、触れるだけ。
それが前より少しだけ控えめで、でもちゃんと“ここにいます”って感じがして、あたしは小さく息を吐いた。
――迎えに行けてよかった。
今は、それだけで十分だった。




