第三十話「迎えに行く」
その日、美良は妙に静かだった。
静か、というか。
前みたいに、わざと揺さぶってくる感じが薄い。
だからといって安心できるわけじゃないのが、あの人の面倒なところだ。
静かなら静かなで、“次に何をしてくるかわからない”の方に神経を使う。
でも今日は、そこに全部引っ張られないようにした。
――選ぶ側になる。
朝、自分でそう決めたから。
「……メイベル」
「は、はい」
「今どれくらい」
「えっ」
「しんどさ」
「……あ」
「顔見ればまあまあ来てるのはわかるけど」
「……五、くらいです」
「十段階?」
「は、はい」
「まだ平気?」
「……少しだけ」
小声でそんな確認をしていると、澄鈴が前を向いたまま言った。
「数値化は賢い」
「ありがと」
「でも、五で“少しだけ”は過小評価の可能性ある」
「そこは同意」
「えっ」
「あんた、自分の限界を低く申告するタイプだし」
「……うぅ」
「否定しないんだ」
「できません……」
よし。
そういう会話ができてるだけ、昨日までよりずっといい。
美良はそのやり取りを後ろで聞いていたはずだけど、口を挟んでこなかった。
ただ、時々視線を感じる。
観察されてるな、とは思う。
でも、今はいい。
見られていても、こっちがやることを変えなければいい。
午前中は、そのまま大きな波もなく過ぎた。
メイベルは何度か顔色を悪くしたけど、そのたびに小さく「少しきついです」と言えた。
あたしも、無理そうなタイミングでは話を切った。
昨日までの“崩れるまで我慢”とは違う。
少しずつだけど、やれてる。
そう思っていた。
――昼休みまでは。
◇ ◇ ◇
「東さん」
美良が呼んだのは、昼休みの教室だった。
クラスの何人かは購買へ行っていて、何人かは席でお弁当を広げている。
ざわざわした普通の昼休み。
その中で、美良の声だけが妙にはっきり聞こえた。
「なに」
「あなたに、少しだけ用があるの」
「ここで?」
「できれば二人で」
あたしは即座に眉をひそめた。
「嫌」
「返事が早いわね」
「信用してないから」
「正直で結構」
美良は笑う。
腹立つくらい綺麗に。
隣で、メイベルの箸が止まった。
ああ、そうだよね。
“二人で”って言われれば不安にもなる。
「用件ここで言えば」
「言えることならそうしてる」
「じゃあ言わなくていい」
「……」
美良は一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ笑みを薄くする。
「メイベルのことよ」
「……」
空気が、少し変わった。
あたしだけじゃない。
メイベルの肩も、かすかに強張ったのがわかる。
「それでも?」
と、美良。
嫌な予感しかしない。
でも、メイベルの名前を出された以上、無視しきれないのも事実だった。
「……三分」
「短い」
「十分長い」
「ふふ。いいわ」
立ち上がる前に、あたしはメイベルを見た。
「今どれくらい」
「……六、です」
「上がってるじゃん」
「す、すみません……」
「謝るとこじゃない」
「……はい」
「澄鈴の近くにいて」
「はい」
「何かあったらすぐ言う」
「……はい」
メイベルは少し不安そうだったけど、ちゃんと頷いた。
澄鈴も小さく言う。
「任せて」
「お願い」
「三分過ぎたら回収する」
「助かる」
そこまで確認してから、あたしは美良について教室を出た。
◇ ◇ ◇
廊下の端、人の少ない窓際。
美良は立ち止まって、くるりとこちらを振り向いた。
「で」
「うん」
「メイベルがどうしたの」
「今日、危ないわよ」
「……」
あまりにも短く言われて、逆に腹が立った。
「何を根拠に」
「見てればわかるでしょう」
「説明になってない」
「午前中は持った」
「……」
「でも、あの子は“持ったあと”の方が危ない」
「……」
言い返そうとして、止まった。
わかってしまったからだ。
メイベルは、崩れている最中よりも。
“崩れずに済んだあと”の方が、妙に危うい時がある。
安心したはずなのに。
がんばれたはずなのに。
そのあとで、急に糸が切れるみたいになる。
「……だから何」
「別に」
「別に?」
「私は今日、何もしない」
「信用できない」
「でしょうね」
美良はあっさり認めた。
「でも、本当に今日は何もしないわ」
「……」
「だから、ちゃんと見ていなさい」
「……それだけ?」
「ええ。それだけ」
それだけ。
その言い方が、やっぱり気に食わなかった。
こっちは朝からずっと見ている。
しんどさも確認している。
メイベルが言えるように、澄鈴にも協力してもらっている。
なのに。
“ちゃんと見ていなさい”なんて、今さら言われる筋合いはない。
「……あんたに言われなくても見てる」
「そうね」
「なら」
「でも、東さん」
美良の声が、少しだけ低くなる。
「見るって、そばにいることだけじゃないわよ」
「……」
「本人が何も言わなかった時に、どうするか」
「……」
「そこまで見るの」
胸の奥が、少しだけ詰まった。
本人が何も言わなかった時。
今朝、メイベルと約束した。
しんどい時は言う。
嫌な時も言う。
全部受け身にはしない。
でも。
言えないくらい限界だったら?
“大丈夫”の形をした沈黙だったら?
「……ほんと嫌な言い方するね」
「性格が悪いの」
「知ってる」
「ふふ」
美良は笑った。
でも、その笑い方はいつもより少し薄かった。
「あなたが何を選ぶか、見てるわ」
「……」
「今度は、間に合うといいわね」
反射的に睨み返した。
けれど、何も言い返せなかった。
チャイムが鳴る。
昼休み終わり。
「三分過ぎてる」
「そうね」
「戻る」
「ええ」
あたしは美良を置いて、先に教室へ戻った。
◇ ◇ ◇
午後の授業。
あたしはずっと、メイベルを見ていた。
見すぎないように。
でも、見逃さないように。
その加減が難しい。
メイベルは、表面上は持っていた。
持っているように見えた。
先生に当てられた時も、少し声は小さかったけど答えた。
ノートも取っていた。
隣で息が詰まったようになった時も、あたしが小声で聞く前に、自分から「大丈夫です」と言った。
大丈夫。
その言葉が、今日はあまり信用できなかった。
「……ほんとに?」
「……はい」
「数字」
「……六、です」
「変わってない?」
「……はい」
「嘘ついてない?」
「つ、ついてないです」
「……そっか」
信じたい。
でも、全部は信じきれない。
疑いたいわけじゃない。
ただ、この子は自分の限界をよく間違える。
あたしも、何度も間違えた。
だから今は、言葉だけじゃなくて、顔と呼吸を見る。
メイベルの指先が、机の下で制服の裾を握っていた。
視線が、黒板とノートの間で何度か迷う。
返事の間が、朝より少し長い。
――危ない。
そう思った。
でも、止めるにはまだ早いのかもしれない。
全部あたしが切っていたら、メイベルはまた“自分で選ぶ”前に戻ってしまう。
止める時は止める。
任せる時は任せる。
朝、自分でそう決めた。
なのに、その境目がこんなに難しいなんて、思っていなかった。
◇ ◇ ◇
最後の授業が終わる。
教室の空気が、少しずつほどけていく。
椅子を引く音。
鞄を閉める音。
誰かの笑い声。
普通の放課後。
メイベルは席に座ったまま、少しぼんやりしていた。
「……メイベル」
「……はい」
「帰れそう?」
「……はい」
「数字は」
「……六、です」
「ほんとに?」
「……」
そこで、ほんの少しだけ間が空いた。
あたしはそれを見逃さなかった。
「メイベル」
「……七、かもしれないです」
「うん」
「でも」
「でも?」
「帰れます」
「……」
止めるべきか。
一回、別の場所で休ませるべきか。
それとも、本人が帰れると言っているなら信じるべきか。
迷った。
その迷いが、たぶん一瞬だけ顔に出た。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし、大丈夫です」
「……」
「ちゃんと、帰ります」
その言い方は、昨日までより少しだけ強かった。
だから。
あたしは、頷いた。
「……わかった」
「はい」
「でも、無理ならすぐ言って」
「はい」
その時だった。
「東、今日のプリント先生に出した?」
「え」
別のクラスメイトに声をかけられた。
「まだ出してないなら、急いだ方がいいよ。先生、職員室戻るって」
「あ、やば」
一瞬だけ、そっちに意識が向く。
プリント。
提出。
先生。
職員室。
本当に、ただそれだけの一瞬だった。
「メイベル、ちょっと待ってて」
「……はい」
返事は聞いた。
聞いたはずだった。
あたしは机の中からプリントを取り出して、鞄の横に置いていたファイルを探す。
数秒。
たぶん、十秒もなかった。
それなのに。
「……あれ?」
振り向いた時。
メイベルの席は、空だった。
心臓が、嫌な音を立てる。
「……メイベル?」
教室の中を見る。
廊下側。
窓際。
澄鈴の席。
いない。
「澄鈴」
「今、出た」
「どっち」
「廊下。たぶん、階段の方」
「……っ」
息が詰まる。
美良の声が、頭の奥で蘇る。
――本人が何も言わなかった時に、どうするか。
違う。
何も言わなかったんじゃない。
言っていた。
大丈夫です。
帰れます。
ちゃんと、帰ります。
でも、それは。
本当に助けを求める言葉じゃなかったのか。
あたしは一瞬だけ、美良の席を見た。
美良は、何も言わずにこちらを見ていた。
笑ってはいなかった。
それが、逆に腹立たしかった。
でも今は、怒ってる場合じゃない。
「依夜」
澄鈴が立ち上がる。
「行って」
「うん」
「荷物は見てる」
「お願い」
あたしは鞄もプリントもそのままに、教室を飛び出した。
廊下に出る。
人の流れ。
話し声。
足音。
その中に、メイベルの姿は見えない。
でも、考えるより先に足が動いていた。
昨日の夕方。
部屋を出ていこうとした背中。
帰らない方がいいかなって言った声。
今日も帰っていいですか、と聞いた顔。
全部が一気に頭の中に押し寄せる。
あの子は、限界の時ほど。
誰かの前で壊れるんじゃなくて。
壊れる前に、一人になろうとする。
それに気づくのが、また遅れた。
でも。
今度は、まだ間に合う。
そう思いたい。
そうじゃないと困る。
「……メイベル」
階段の方へ走る。
迎えに行かなきゃ。
今度こそ。
あたしが選んで。
あの子を、一人にしないために。




