第三話「とりあえず面倒を見ることになりました」
「……依夜ちゃん」
朝からずいぶん面白いものを見た、みたいな顔で、兄――東朝輝はキッチンの入口に立っていた。
終わった。
いや、比喩じゃなくて、本気でそう思った。
あたしの平穏とか、言い訳とか、説明のしやすさとか、そのへん全部が音を立てて崩れた気がする。
向かいではメイベルが完全に石になっていた。
座った姿勢のまま硬直している。
目だけがかろうじて泳いでいるから、生きてはいるらしい。
「……おはよう、朝輝」
「うん、おはよう。で?」
「で、とは」
「僕の知らない間に、依夜が美少女を連れ込んで朝食を食べてる理由かな」
「言い方に悪意がある」
「事実しか言ってないよ?」
にこっと笑うな。
その爽やかさで人を追い詰めるの、やめてほしい。
兄は普段からそうだ。
別に空気が読めないわけじゃない。むしろ逆。
読みすぎるくらい読めるくせに、面白そうだと思うと平然と踏み込んでくる。
人間観察が趣味です、みたいな顔をして、本当に趣味なんだから質が悪い。
「依夜ちゃん?」
「……えっと」
「“えっと”で済む案件ではない気がするけど」
その通りすぎてつらい。
メイベルが、ついに限界を迎えたみたいに小さく震えだした。
「あ、あのっ、えっと、その、わ、わたし……!」
「うん」
「ご、ごめんなさいぃ……!」
「え、なんで謝られたの僕」
朝輝がちょっとだけ目を丸くする。
そりゃそうだ。
まだ何もしてないのに、初対面の相手にいきなり謝罪されたら困るだろう。
いや、この子の場合、何もなくても謝るんだけど。
「メイベル、落ち着いて」
「で、でもっ」
「大丈夫だから、ちょっと黙ってて」
「は、はいぃ……」
返事だけはいい。
返事だけは。
あたしは頭を抱えたくなるのをこらえながら、兄に向き直った。
「……友達」
「へえ」
「…それ、コスプレ」
「朝から?」
詰んだ。
いや、自分でも思ったよ。朝から家でフルコスプレしてトースト食べてる友達って何。
設定が無理あるとかいう次元じゃない。
兄は少しだけ視線を細めて、メイベルを見る。
メイベルはびくっと肩を跳ねさせた。
ああもう、完全に挙動不審だ。
「ふーん」
その“ふーん”やめて。
絶対何か見抜いてる時のやつだから。
「依夜ちゃん」
「なに」
「その設定、自分でも苦しいと思ってるでしょ」
「思ってる」
「正直だね」
「今さら取り繕っても無駄な気がしてきたから」
「うん、まあ、そうだね」
兄はあっさり頷いた。
そして、信じられないくらい普通の調子でキッチンに入ってきて、冷蔵庫を開けた。
「コーヒー淹れるけど、二人も飲む?」
「……は?」
「え、なにその顔」
いや、なにその反応。
もっとこう、「誰?」「警察呼ぶ?」くらいの騒ぎになるかと思ったんだけど。
「聞かないの?」
「聞くよ?」
「じゃあなんで先にコーヒー」
「朝だから」
意味がわからない。
でもたしかに朝だった。
朝輝はマグカップを三つ出しながら、ちらっとこっちを見た。
「依夜ちゃんが本気で嫌がってるなら、今ここにこの子はいないでしょ」
「……」
「それに、泣いてるし」
「泣いてるのはデフォルト」
「なおさら放っておけないんだろうなって」
ぐうの音も出ない。
兄はそういうところがある。
なんでも軽そうに見えて、妙なところだけ鋭い。こっちが言葉にしたくないところを、何でもない顔で拾っていく。
「とりあえず、自己紹介しようか」
コーヒーの香りが立ちのぼる中、朝輝はにっこり笑った。
「僕は東朝輝。依夜の兄です」
「ひゃ、ひゃいっ……!」
メイベルが立ち上がりそうな勢いで返事をした。
いや、緊張しすぎ。
「め、メイベル=ウエストパラスト、です……!」
「へえ、外国風の名前だね」
「が、外国……あ、はい、そうです……!」
「へえ」
「その“へえ”やめて」
絶対面白がってる。
朝輝はコーヒーを一口飲んで、それから改めてメイベルを見た。
「メイベルちゃんは、依夜ちゃんの何?」
「えっ」
「何って」
「……」
そこ聞く?
メイベルは固まった。
顔が真っ赤になっていく。なぜ。変なことを聞かれたわけではない。はずだ。多分。
「えっと、その……」
「うん」
「しょ、召……」
「召?」
「しょ、しょ、しょうか――」
「ストップ!」
危なかった。
反射で大声が出た。
二人の視線が私に集まる。
死にたい。
「依夜?」
「……その子、今ちょっと緊張してるから」
「みたいだね」
「だから、変に質問攻めしないで」
「質問攻めってほどでもないと思うけど」
「あたし基準では十分」
朝輝は少しだけ考えるような顔をして、それから肩をすくめた。
「まあ、いいや。依夜ちゃんが自分から話すまで待つ」
「……あっさり引くね」
「無理やり聞くと嫌われそうだし」
「その判断だけは賢い」
本当にそれだけは。
メイベルがこっそりあたしを見上げてきた。
完全に“助かりました……”みたいな顔だ。
うん、まあ、助かったのは私もだけど。
朝輝はトーストを追加で焼きながら、何気ない調子で言った。
「で、メイベルちゃんはどこに泊まってるの?」
「依夜さんの部屋です…」
「ちょっと」
「事実確認だよ」
「確認しなくていい」
「へえ」
その“へえ”三回目だよ。
「別に変な意味じゃないよ?」
「兄さんが言うと全部変な意味に聞こえる」
「心外だなあ」
「日頃の行い」
「反論できない」
できないんだ。
その後も兄は妙に自然に話を回して、気づけばメイベルはおずおずながらも、いくつか返事をするようになっていた。
すごいな、この人。
初対面の相手との距離を詰める速度が速すぎる。
あたしはそれを見ながら、胸の奥が少しだけざわつくのを感じていた。
――ああ、これだ。
昔から、兄はこうだった。
誰とでもすぐ仲良くなれる。
気さくで、明るくて、相手の警戒心をほどくのがうまい。
あたしさそういうのが苦手だ。
だから余計に、見ていると妙に疲れる。
しかも、今は相手がメイベルだ。
昨日会ったばかりの、泣き虫でポンコツで放っておけないサキュバス。
別にあたしのものじゃないし、そういう言い方は変だってわかってる。
でも、なぜか、少しだけ。
……少しだけ、落ち着かない。
「依夜ちゃん、顔こわい」
「は?」
「ちょっと拗ねてるみたい」
「拗ねてないけど」
「へえ」
「その“へえ”禁止」
「依夜さん……?」
メイベルまで不安そうな顔をするな。
「なんでもない」
「ほんとに?」
「ほんと」
「ならいいけど」
朝輝はにやっとした。うざい。
何かを察した顔をしているのが、なおさらうざい。
◇ ◇ ◇
朝食が終わったあと、問題は一気に現実味を帯びた。
「で、このあとどうするの?」
朝輝のその一言である。
そうなのだ。
朝ごはんを食べて、場がなんとなく落ち着いたところで見ないふりしていたけど、最大の問題はまったく解決していない。
メイベルをどうするのか。
私は高校生だ。家は実家。
勝手に謎の美少女を保護し続けていい立場ではない。
いや、立場以前に、説明が無理だ。
「……」
「依夜ちゃん?」
「考え中」
「考えてなかったの?」
「昨日はそれどころじゃなかったから」
メイベルはソファの端で小さくなっていた。
さっきから会話のたびにびくびくしている。
兄に怯えているというより、“今後の自分の処遇”に怯えてるんだろうな、あれは。
「メイベルちゃん」
「ひゃ、ひゃいっ」
「緊張しすぎじゃない?」
「す、すみません……」
「ほらまた謝る」
朝輝は苦笑してから、意外なほどやわらかい声で続けた。
「安心して。少なくとも、依夜ちゃんは君をすぐ追い出したりしないよ」
「っ……」
「僕も、困ってる子を外に出す趣味はない」
「兄さん」
「なに」
「その言い方はちょっとずるい」
「そう?」
「……まあ、間違ってはないけど」
メイベルが、ほっとしたように目を潤ませる。
だからすぐ泣くなって。
「とりあえずさ」
朝輝は腕を組んで、軽い調子で言った。
「今すぐどうこうは無理なんだから、数日は様子見でいいんじゃない?」
「数日」
「うん。その間に、依夜ちゃんがちゃんと説明できる理由を考える」
「ちゃんと説明できる理由って、この状況に存在すると思う?」
「ないかも」
「ないんだ」
「でも作るしかないよね」
それはそう。
あたしはソファに座りなおして、深く息を吐いた。
「……メイベル」
「は、はいっ」
「しばらく、うちにいる?」
「え」
メイベルが目を見開いた。
「い、いいんですか……?」
「良くないことだらけだけど、他に選択肢がない」
「そ、それは……」
「ただし条件つき」
「じょ、条件……!?」
なんでそんな死刑宣告みたいな顔するの。
「まず、家の中で勝手にうろうろしない」
「は、はい」
「人前で“召喚”とか“サキュバス”とか言わない」
「は、はいっ」
「泣く回数を減らす努力をする」
「そ、それは……が、がんばります……」
「一番自信なさそう」
でもまあ、返事はした。
進歩だと思おう。
「それから」
「は、はい」
「生活能力をつける」
「せいかつ……?」
「ずっと何もできないままだと困るから。顔洗うとか、着替えるとか、食べるとか、そういう基本的なことから」
「……依夜さん」
「なに」
「やさしいです……」
「だからその感動のハードル低いのやめて」
また泣きそうになってるし。
ほんと忙しいな、この子の感情。
朝輝が笑いをこらえるように口元に手をやった。
「依夜ちゃん、完全に保護者だね」
「うるさい」
「でも似合うよ」
「褒めてないよねそれ」
「褒めてる褒めてる」
「信用ならない」
朝輝は楽しそうに笑ったあと、ふっと目を細めた。
「でも、依夜ちゃんがそうやって誰かの面倒見るの、久しぶりに見たかも」
「……そう?」
「うん」
少しだけ、言葉に詰まる。
自分ではよくわからない。
ただ、放っておけないだけだ。多分。
この子を見てると、昔の自分の嫌な部分を突きつけられるみたいで落ち着かない。それなのに目を離せない。
変な感じだ。
「じゃあ決まりかな」
朝輝がまとめるみたいに手を叩いた。
「メイベルちゃんは、しばらく依夜ちゃんの監督下で生活」
「監督下って言い方」
「いいじゃん、わかりやすくて」
「全然かわいくない」
「かわいさ必要?」
「ないけど」
メイベルが、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……」
「うん?」
「ほんとうに、ここにいても……」
「いいよ」
答えたのは、あたしだった。
「ちゃんと条件守るなら」
「……はい」
「あと、困ったことあったら勝手に抱え込まないで言って」
「え」
「言わないで泣かれるのが一番困る」
「う、うぅ……」
「なんで今泣くの」
「うれしくて……」
「だからハードル」
けれど、口ではそう言いながらも、少しだけ肩の力が抜けた。
行き先不明だったものに、とりあえず仮の置き場ができた。
多分それだけで、だいぶ違う。
メイベルは目元をこすりながら、何度も何度も頭を下げた。
「よろしくお願いします……! が、がんばります……!」
「うん」
「ご迷惑は……なるべく……!」
「すでに十分迷惑寄りだけど」
「ひぅっ」
「冗談」
「じょ、冗談でも心臓に悪いですぅ……」
「ごめんごめん」
ほんの少しだけ笑うと、メイベルは安堵したように小さく息を吐いた。
――とりあえず。
本当にとりあえずだけど。
この泣き虫でポンコツなサキュバスは、しばらくあたしの部屋で、私の監督下で暮らすことになったらしい。
問題は山積みだ。
兄にどこまで説明するのか。学校はどうするのか。
メイベルの服とか生活とか、そもそもサキュバスって何を食べて何をして生きてるのかもわからない。
わからないことだらけだ。
でも。
昨日よりは少しだけ、先が見えた気がした。
「じゃ、僕そろそろ大学行くね」
立ち上がった朝輝が、バッグを肩にかけながら振り返る。
「依夜ちゃん」
「なに」
「頑張りすぎて倒れないように」
「誰のせいで仕事増えたと思ってるの」
「それはメイベルちゃんのせいでは?」
「その通りすぎて反論できない」
朝輝は満足そうに笑って、それからメイベルにも手を振った。
「またね、メイベルちゃん」
「は、はいっ……!」
玄関のドアが閉まる音がして、家の中が少しだけ静かになる。
あたしはその静けさの中で、改めてメイベルを見た。
メイベルも、おそるおそるこっちを見る。
「……なに」
「い、いえ……その……」
「うん」
「ほんとに、よろしくお願いします……」
「だからそれはさっき聞いた」
「で、でも、大事なことなので……」
そう言って、メイベルは小さく笑った。
昨日より少しだけ自然な笑い方だった。
……ずるいな、と思う。
泣いてばかりなのに、たまにそうやって笑われると、強くは突き放せなくなる。
「じゃあ、まずは」
「は、はいっ」
「生活指導から始めるよ」
「生活指導……!」
「その反応やめて。別に怒らないから」
「す、すみません……」
「謝らない」
「は、はい……!」
直後に言い直せた。
よし、ほんの少し進歩。
だけど、その時。
ぴんぽーん。
インターホンが鳴った。
あたしとメイベルは同時に固まる。
「……誰」
「だ、誰でしょう……」
「それを今から確認するんだけど」
嫌な予感しかしない。
そして、その予感は大体当たる。
玄関の方へ向かいながら、あたしの心の中でため息をついた。
――平穏な日常って、こんなに遠かったっけ。




