第二話「サキュバスなのに誘惑できないらしい
翌朝。
目が覚めて最初に思ったのは、
「……夢ならよかったのに」
だった。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んで、部屋の中をぼんやり白くしている。いつも通りの天井。いつも通りの机。いつも通りの、雑に脱ぎ捨てた制服のスカート。
そして。
ベッドの横の床で、丸くなって眠っている、赤紫の髪の女の子。
「現実かあ……」
夢じゃなかった。
昨夜、軽い気持ちで召喚術なんてやったせいで、うっかりサキュバスを呼び出してしまった。しかも出てきたのは、誘惑どころか人の顔を見るだけで泣きそうになる、ポンコツもいいところの泣き虫サキュバス。
メイベル。
名前を呼ぶとすぐ泣くし、ちょっと優しくするともっと泣く。情緒がどうなってるのかよくわからない。
昨夜はとりあえず落ち着かせるだけで精一杯で、結局「今日はここで寝て」と毛布を渡したら、なぜかまた泣かれた。
やさしい、らしい。
基準が低すぎて逆に怖い。
「……ん……」
床の毛布がもぞっと動いた。
メイベルがゆっくりと身じろぎして、長い睫毛を震わせる。
金色の瞳が開いて、私と目が合った。
数秒の沈黙。
「っ、ひゃ……!」
飛び起きた。
「お、おはようございますぅぅ……!」
「声がでかい」
「す、すみませんっ」
「謝るの早いなあ……」
反射で謝るタイプだ。
しかも謝罪のスピードが異様に速い。
多分、考えるより先に口から出てる。
あたしはベッドから降りて、髪をかき上げた。
「とりあえず、落ち着いて」
「は、はい……!」
言ったそばから背筋をぴんと伸ばして正座する。
姿勢だけは無駄にいい。
なんだろうこの、“怒られる前の犬”みたいな感じ。
「えっと……体調とか平気?」
「た、体調……?」
「気分悪いとか、お腹空いたとか」
「お腹……」
メイベルがきょとんとして、それからおそるおそる自分のお腹に手を当てた。
「そういえば、昨日から何も食べてません……」
「昨日から!?」
「は、はい……あ、でも大丈夫です、わたし役に立たないので食事とかそんな贅沢……」
「その発想やめて」
朝から胃に重い。
いや待って、昨日何か食べさせたっけ。
記憶をたどる。麦茶は出した。飲むだけで感動されて泣かれた。そこまでは覚えてる。
でもその後、疲れ果てたあたしが「もう寝よう」で強制終了した気がする。
「……ごめん、普通に忘れてた」
「い、いえっ! 忘れられて当然です!」
「だからそこ肯定しないで」
あたしは机の上のスマホを取って時間を確認した。
朝の六時半。兄が起きてくるにはまだ少し早い。
今のうちに何とかしたい。
いきなり朝の食卓にサキュバスを出したら、さすがに説明が面倒どころでは済まない。
「とりあえず、朝ごはん用意するから」
「えっ」
「えっ、じゃなくて」
「わ、わたしの分もですか……?」
「そりゃ同じ部屋にいる飢えた生き物を無視できないでしょ」
「生き物…」
「そこ引っかかる?」
また泣きそうな顔をする。
ほんと涙腺どうなってるんだろう。蛇口壊れてない?
私はため息をついて立ち上がった。
「顔洗ってきなよ」
「か、顔……」
「洗面所わかる?」
「わ、わかりません……」
「だよね」
そうだった、初日にうちの間取りなんて把握してるわけがない。
「じゃ、ついてきて」
「は、はいっ」
メイベルはあわあわしながら立ち上がったけど、その瞬間、毛布が足に絡まって盛大によろけた。
「きゃっ」
「危なっ」
反射的に腕を掴む。
細い、びっくりするくらい軽い。
ちゃんと食べてないせいなのか、元からこういう生き物なのか、妙に頼りない感触だった。
「だ、大丈夫?」
「す、すみませんすみませんすみません……!」
「だから謝る前に立て直して」
「は、はいぃ……」
朝からすでに疲れる。
でも、放っておくとそのうち階段とかから転げ落ちそうで怖い。
洗面所に連れていって、歯ブラシを新しいの出して、タオルの場所を教えて、顔の洗い方を見守る。
いや、なんで見守ってるんだあたしは。
保育園の先生か。
「……あの」
「なに」
「すごく、親切ですね……」
「普通」
「普段、こんなにやさしくしてもらったことあまり……」
「やめて、朝から重い」
朝から情緒にずしっと来るのやめてほしい。
でも、その“あまり”に、また少しだけ胸が引っかかる。
あたしは聞かなかったふりをして、キッチンへ向かった。
◇ ◇ ◇
朝食はトーストとスクランブルエッグ、それから昨日の残りのスープ。
我ながら雑だけど、まあ十分だと思う。
問題は、テーブルの向かいで座っているサキュバスが、料理を前にしたまま微動だにしないことだった。
「……食べないの?」
「えっ、い、いいんですか……?」
「出したの私なんだけど」
「そ、そうですけど……」
「じゃあ食べて」
「ほ、本当に……?」
「毒とか入ってないから」
「そ、そういう心配はしてませんっ」
「じゃあ何を心配してるの」
「こ、こんなにしてもらっていいのかなって……」
面倒くさい。
いや、語弊があるな。
性格が面倒くさいんじゃなくて、遠慮の方向が極端すぎて面倒くさい。
「冷めるから」
「は、はい……いただきます……」
メイベルは恐る恐るトーストを持ち上げて、ほんの少しかじった。
次の瞬間。
「……お、おいしいです……!」
目を潤ませた。
「そこで泣く!?」
「だ、だって……あったかくて……やわらかくて……っ」
「トーストにそこまで感動する?」
「こんなの初めてで……!」
「どんな人生送ってきたの……」
いやサキュバス生かもしれないけど。
メイベルはその後も一口食べるたびに「おいしいです……」「すごいです……」と感動していて、こちらの心が妙にざわつく。
別に凝ったものを作ったわけじゃない。パン焼いて卵をかき混ぜただけだ。褒められる要素なんてほぼない。
なのに、そんな顔で食べられると、こっちまで変に落ち着かなくなる。
「……依夜さんは、すごいです」
「は?」
「ごはんも作れて、落ち着いてて、ちゃんとしてて……」
「いや全然」
「わたしから見たら、すごいです」
まっすぐ言われて、言葉に詰まる。
ちゃんとしてる。
その評価、昨日も聞いた気がする。
でも私は、そんなふうに自分を見たことがない。
兄と比べれば、あたしは何もかも中途半端だ。
料理だって別に得意ではない。
ひとりで食べるなら、菓子パンで済ませる日もある。
なのにこの子は、私の“普通”を、すごいものみたいに言う。
……なんか、調子が狂う。
「……食べるのに集中して」
「は、はいっ」
素直だ。
素直すぎて逆に怖い。
でもまあ、少なくとも食欲はあるらしい。
そこは安心した。
トーストを二枚目まで食べ切ったところで、メイベルがちらちらこちらを見る。
「なに」
「あ、あの……」
「うん」
「サキュバスとして……その……」
「その?」
「何か、した方がいいでしょうか……?」
嫌な予感がした。
「何かって」
「さ、サキュバスなので……誘惑、とか……」
「朝っぱらから!?」
「だ、だって役に立たないと……!」
「そこに戻るのかあ……」
いやでも、たしかに。
サキュバスって、普通に考えたらそういう存在だ。
本人のスペックが追いついてないだけで。
メイベルはもじもじしながら、しかしなぜか必死な顔をしていた。
「わ、わたし、ちゃんとできるところ見せないと……」
「いや無理しなくていいって」
「でも、昨日から何もできてませんし……!」
「泣く才能は十分見せてもらったよ」
「そ、それはうれしくないですぅ……」
だろうね。
あたしはコップの水を飲みながら考える。
ここで変に期待させるのもよくない。
でも、このまま「あなたは何もしなくていいよ」と言ったら、それはそれでこの子の中の“役に立たない自分”を強化しそうだ。
面倒くさい。
本日二回目だ。
「……じゃあ」
「は、はいっ」
「試しにやってみる?」
「えっ」
メイベルが固まった。
「い、いいんですか……?」
「あんたが言い出したんでしょ」
「そ、そうですけど、でも、実践で、ですか……!?」
「実践って言い方やめて」
「す、すみません……!」
ほんとに息をするみたいに謝るなあ。
「別に大したことじゃなくていいから。サキュバスっぽいこと、何か一個」
「さ、サキュバスっぽいこと……」
メイベルは顔を真っ赤にしながら、視線を泳がせた。
耳まで赤い。そこまで恥ずかしがるなら向いてなさすぎる。
数十秒の葛藤の末、彼女はおそるおそる立ち上がった。
「あ、あの……依夜さん……」
「うん」
「こ、こっちを……向いてください……」
「向いてるけど」
「ち、近くに……」
「近く?」
仕方なく、少しだけ椅子を引いて距離を縮める。
メイベルは小さく息を呑んで、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「め、メイベル……がんばります……」
「うん」
「が、がんばって……えっと……」
声がどんどん小さくなる。
そして。
「…………す、好きです」
蚊の鳴くような声だった。
「聞こえない」
「ひゃっ」
「いやごめん、びっくりしなくていいから」
「うぅ……」
泣きそう。
「もう一回」
「も、もう一回ですか!?」
「練習なんでしょ?」
「そ、そうですけどぉ……!」
メイベルは目をぎゅっと閉じた。
それから意を決したように、一歩だけ踏み出す。
顔が近づく。
甘い匂いがした。花みたいな、よくわからないけど柔らかい匂い。
金色の瞳が、震えながら私を見る。
「い、依夜さんのこと……す、すき……です……」
今度は聞こえた。
聞こえたけど。
「……それで終わり?」
「えっ」
「誘惑ってそれだけ?」
「そ、それ以上は高度ですぅ……!」
「サキュバスの初期スキル低すぎない?」
あたしがそう言った瞬間、メイベルの目にみるみる涙が溜まった。
「や、やっぱりだめでしたぁ……!」
「いや泣くの早いって」
「わ、わたし、全然サキュバスっぽくないですし、魅力もないし、姉さまみたいに上手にできないし……!」
「姉さま?」
聞き返したけど、メイベルは完全に自己嫌悪モードに入ってしまっていた。
「ご、ごめんなさい……ご期待に添えなくて……!」
「いや、別に期待してたわけじゃ」
「で、でも依夜さんに役立つところを……」
「役立つかどうかだけで考えるの、ほんとやめよう?」
口にしてから、少しだけ驚いた。
その言葉は、たぶんメイベルだけに向けたものじゃなかった。
役に立たないなら価値がない。
その考え方に苦しんでるのは、この子だけじゃない。
だからこそ、目の前でそれを繰り返されると、なんだか自分まで責められているみたいな気がするのかもしれない。
「……依夜さん?」
「え」
「怒って、ませんか……?」
「怒ってないよ」
「ほんとに……?」
「ほんとに」
メイベルは不安そうにあたしを見て、それから小さくうつむいた。
「……よかったです」
「そんなに怯えなくていいのに」
「だって、嫌われたら終わりなので……」
「終わりって」
「捨てられるの、こわいです……」
まただ。
その言葉が、やけに重い。
あたしは深く息を吐いて、椅子から立ち上がった。
「はい、サキュバス訓練終了」
「しゅ、終了ですか……?」
「うん。今のメンタルで続けても事故るだけ」
「で、でも」
「でもじゃない。まずは普通に生活できるようになる方が先」
「普通に……」
「そう。食べて、寝て、泣く回数減らして」
「最後の難易度が高いです……」
「知ってる」
少しだけ笑うと、メイベルは目を丸くしたあと、ほっとしたみたいに表情を緩めた。
その顔を見て、思う。
この子は、多分、本当に何もできないわけじゃない。
ただ“できない自分”を信じ込みすぎて、最初から全部失敗すると思っているだけだ。
……それも、ちょっとわかる。
あたしが椅子を引くと、メイベルの肩がぴくっと揺れた。
置いていかれると思ったみたいに。
「……依夜さん」
「なに」
「その……」
メイベルが、少し迷うようにしてから、小さく言った。
「……もう少し、近くにいてもいいですか」
「は?」
「そのほうが……安心するので……」
距離が、ほんの少し縮まるり
触れてはいない。
でも、やけに近い。
「……別にいいけど」
「……ありがとうございます」
ほっとしたように、メイベルが息を吐いた。
その様子を見て、思う。
――ああ、これ。
完全に懐かれてる。
しかも、ちょっと重いやつ。
……まあ、今さらか。
でも、このときはまだ、わかってなかった。
この“少し近い距離”が、
あとでどれだけ面倒なことになるのか。
するとその時、廊下の方から物音がした。
誰かが起きてきた気配。
嫌な予感がする。
「……やば」
「え?」
「兄さん、起きたかも」
「お、お兄さま……!?」
メイベルがびしっと固まる。
それから数秒後、ぱにくったように立ち上がった。
「ど、どうしましょう!? わたし消えた方が!?」
「消えられるの!?」
「で、できません……!」
「だと思った!」
足音が近づく。
そして、キッチンのドアが開いた。
「おはよ――」
そこに立っていた兄、東朝輝は、私と、それから向かいに座る派手な髪色と服装の美少女を見て、ぴたりと動きを止めた。
沈黙。
数秒後。
「……依夜ちゃん」
「なに」
「朝からずいぶん面白いことしてるね?」
ああ、終わった。
あたしの平穏な朝は、完全に終わったらしい。




