第一話「サキュバスを召喚したら、泣かれたんだけど」
普通って、一番いらない評価じゃない?
兄は完璧で 、あたしはその妹。
それだけで、勝手に期待されて、勝手にがっかりされる。
東依夜。どこにでもいる普通の女子高生。
――だから、少しくらい。
普通じゃないことをしてみたくなった。
このときのあたしはまだ知らなかった。
その日の放課後、軽い気持ちでやった召喚術で、
サキュバスを呼び出して、
なぜか泣かれて、
しかも土下座されて、
本気で意味がわからなくなるなんて。
昼休みの教室は、今日もにぎやかだ。笑い声と机を引く音と、お菓子の袋を開ける音が混ざって、いかにも平和な高校生っぽい空気を作っている。あたしもその中にいる。いるけど、なんというか、ちゃんと“背景”としてなじんでいるだけだ。
「東くんほんとすごいよねー」
「この前、駅前で見たよ。背高いし、顔ちっちゃいし、オーラやばかった」
「モデルやってるって聞いたんだけど、マジ?」
「マジらしいよ。しかも頭もいいんでしょ? 意味わかんない」
――はいはい、知ってる。
その東くんこと東朝輝は、あたしの兄だ。
顔がよくて、頭がよくて、無駄に人当たりもよくて、妙に気が利く。気が利くくせに、たまにわざと空気を読まない。
多分、読めるけど読まないタイプ。
そういうところも含めて、妙に人を惹きつける。
完璧人間。
歩く理不尽。
神様の盛りすぎ事故。
で、その妹があたし。
東依夜。普通の女子高生。趣味は占い。
……うん、最後だけちょっと怪しいけど、全体としてはすごく普通だと思う。
「依夜って、東くんの妹なんだよね?」
前の席の女子が、くるりと振り向いた。悪気はない、というか、むしろ好意的な顔だ。
「うん、まあ」
「いいなあ、あんなお兄ちゃんいて」
「そう?」
「だって全部できそうじゃん。依夜もそういう感じなんでしょ?」
――違うけど。
口まで出かかった言葉を飲み込んで、私は曖昧に笑った。
「いやいや、全然普通だよ」
「えー、もったいない」
もったいないって何。
勝手に期待して、勝手にがっかりして、その落差をこっちに押しつけないでほしい。
というか、兄の妹だからって何かのおまけみたいに性能を期待されても困る。家電じゃないんだから、上位モデルの姉妹機能みたいな扱いをされても。
でも、いちいちそんなことを言うのも面倒で、あたしはまた笑ってごまかした。
こういうの、慣れてる。
兄が褒められるついでに、なんとなく比較される感じ。
兄を見たあとだと、私は全部“普通”で片づく感じ。
別に努力していないわけじゃない。
勉強もそれなりにやってるし、友達関係も普通。特別に優れてるわけじゃないけど、困るほどダメでもない。
でも“それなり”って、結局一番印象に残らない。
兄と並べられた瞬間、全部“それ以下”になる。
「……落差えぐ」
思わず漏れた本音に、自分でちょっと笑ってしまった。
いや、笑うしかないでしょ。
◇ ◇ ◇
「で、その死んだ魚みたいな目はどうしたの?」
放課後。昇降口を出たところで、隣を歩く南澄鈴がじっとこっちを見てきた。
「どの目」
「今の目」
「雑すぎない?」
「依夜に関しては大体それで通じるから」
ひどい親友である。
南澄鈴は、真面目という言葉に制服を着せたらこうなる、みたいな女だ。
成績優秀、品行方正、実際にクラス委員長。
風紀とか規律とかを本気で愛している節がある。
なのに、変なところでズレていて、たまに天然の破壊力を発揮するから油断できない。
「何かあった?」
「別に」
「その“別に”は大体ある時のやつ」
「じゃあある」
「素直すぎる」
少しだけ黙ってから、あたしは肩をすくめた。
「なんかさ。ちょっとくらい、変なことしたくなる時ってない?」
「ない」
「即答やめて」
「変なことの内容による」
「占い」
「微妙」
「召喚」
「却下」
スマホの画面を見せた瞬間、澄鈴は眉ひとつ動かさず切り捨てた。
「“誰でもできる簡単召喚術”って、怪しさしかないんだけど」
「でしょ」
「でしょ、じゃない」
「いや、怪しいからこそ面白いかなって」
「面白さで悪魔を呼ぼうとしないで」
「呼べるわけないじゃん」
「なら余計にやる意味ある?」
「あるよ」
あたしはスマホを引っ込めて、少しだけ空を見た。
夕方の空は中途半端な色をしていた。青が抜けきらないまま、ゆっくり夜に移ろうとしている。
「どうせ何も変わらないならさ」
「うん」
「ちょっとくらい、バカなことしたくなるじゃん」
澄鈴は一瞬だけ黙って、それから小さく息を吐いた。
「それで本当に悪魔でも出たらどうするの」
「その時は全力で謝る」
「最悪」
「大丈夫大丈夫。出ないって」
「その自信はどこから」
「人生経験」
「依夜の人生経験、信用ならないんだけど」
ひどい。二回目だ。
でもまあ、その通りではある。
どうせ何も起きない。だからやる。
成功しない無駄なことって、時々妙に安心するのだ。期待しなくていいし、失敗しても傷つかない。
最初から意味がないってわかっているから。
あたしはそういう“絶対に現実が変わらない遊び”が、結構好きだった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、兄はまだいなかった。
靴を脱ぎながら、少しだけ肩の力が抜ける。
別に嫌いではない。
嫌いじゃないけど、いるとどうしても調子が狂う。
あの人、存在感が無駄に強いから。
家の中にまで太陽を持ち込まれる感じ。
こっちは月明かりくらいで十分なんだけど。
自室に入って、鞄を放り出す。
ベッドに転がってから、スマホを見て、例の召喚術のページを開いた。
「……ほんとにやるの?」
いつの間にか部屋までついてきていた澄鈴が、ドアのところで呆れた声を出す。
「見届け人がいると成功率上がりそう」
「失敗率じゃなくて?」
「細かいことはいいの」
机の上にノートを広げて、ペンでそれっぽい円を描く。
六芒星っぽいものも描いてみる。
細部はよくわからないから、雰囲気重視だ。
「雑」
「雰囲気大事」
「絶対違う」
「ろうそくは?」
「ない」
「……」
「スマホのライトで代用」
「適当にもほどがあるでしょ」
まあ、そうなんだけど。
でも、こういうのって大体雰囲気だ。多分。
あと、どうせ失敗するし。
あたしは机の前に座り直して、ページに書かれた文面を見た。
召喚対象は“夜に属するもの”。条件は“呼び出す者の願い”。
怪しすぎて逆に清々しい。
「依夜」
「なに」
「今ならまだ引き返せるよ」
「その言い方だと、私が今から崖に車で突っ込むみたいなんだけど」
「精神的には近い」
「否定できないの嫌だな」
深呼吸をひとつする。
本気で何かを期待しているわけじゃない。
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ、このままの自分じゃない何かになれたらいいのに、とは思う。
「……なんか変わればいいのに」
小さく呟いて、私は記された“呪文”を読み上げた。
その瞬間。
空気が、変わった。
「……え?」
部屋の温度が、すっと下がる。
エアコンなんてつけていないのに、肌に触れる空気だけが急に夜みたいに冷えた。
「依夜……?」
澄鈴の声が少しだけ強張る。
ぞわ、と背中が粟立った。
机の下。床に落ちた私の影が、ありえない動き方で揺れている。
「なに、これ……」
影が、床から剥がれるみたいに浮かび上がった。
黒い靄が、ゆっくりと人の輪郭を作っていく。
輪郭が濃くなり、髪が揺れ、白い肌が現れて、細い手足が形を持つ。
そこに“完成した”のは、ひとりの少女だった。
ロングヘアのツーサイドアップ。
赤紫の髪色。
白い肌。
金色の瞳。
それから、布生地のピッタリとした服。
「……服、ド派手過ぎない?」
思わず最初に出た感想がそれだった。
いや、だってしょうがないでしょ。
どう見ても普通じゃないし、かといって幽霊みたいに怖いわけでもなく、むしろ妙に完成度が高い。
変な言い方だけど、ファンタジーのキャラがそのまま現実に落ちてきた感じだ。
「サキュバス……?」
ぽつりと呟いた瞬間。
少女が、ゆっくり目を開けた。
金色の瞳が私を捉える。
数秒、沈黙。
次の瞬間。
「ひっ……!」
――泣いた。
「ご、ごめんなさいぃぃぃぃ!!」
「えっ、なんで!?」
いきなり土下座だった。
いや待って。
情報の渋滞がすごい。
「サキュバスだよね!?」
「は、はいぃ……!」
「なんで泣いてるの!?」
「こ、こわくてぇ……!」
「サキュバスが!?」
設定が崩壊している。
サキュバスって、もっとこう、妖艶とか小悪魔とか、そういう方向じゃないの。なんで開口一番で謝罪会見みたいなテンションなの。
「え、誘惑とかしないの?」
「む、むりですぅ……!」
「即答!?」
「ひ、人見知りなので……」
「致命的だよ!」
横で澄鈴が一歩下がっていた。
「依夜」
「なに」
「責任取って」
「なんで他人事みたいに言うの」
「私は最初から止めた」
「正論やめて」
目の前の少女は、床に額をこすりつけそうな勢いで震えていた。
肩も声も小刻みに揺れていて、本気で怯えているのがわかる。
「……あの」
「うん?」
「わ、わたし……ほんとに何もできなくて……」
「うん」
「だから……」
少女は、ぎゅっと自分の服の裾を握りしめた。
「……いらなかったら、捨ててください……」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
役に立たないなら、価値がない。
それ、知ってる。
テストでそこそこの点しか取れなかった時も。
兄と比べられた時も。
何かができるわけでもなく、かといって取り柄もない自分を見た時も。
あたしはずっと、心のどこかで思っていた。
普通で、代わりが利いて、特別じゃない自分は、何のためにここにいるんだろうって。
だから。
その言葉を、まるで自分のことみたいに怯えながら言われるのは、思っていたよりきつい。
「……」
正直、面倒だ。
すごく面倒な気がする。
関わらない方が絶対楽だし、厄介ごとにしか見えない。
でも。
「……はぁ」
ため息をついて、私はしゃがみ込んだ。
「名前」
「……え?」
「あるでしょ、名前」
「……メイベル、です」
か細い声だった。
「そっか。じゃあメイベル」
「は、はい」
「とりあえず、泣くのやめて」
「……え?」
「話進まないから」
「っ」
ぽかんとした顔。
次の瞬間、また泣いた。
「なんで!?」
「や、やさしいぃぃぃ……!」
「ハードル低すぎない!?」
サキュバス界の基準どうなってるの。
メイベルは涙をぼろぼろこぼしながら、それでも少しだけ安心したみたいに顔を上げた。
赤い目元が完全に子犬だ。
いや子犬に失礼かもしれないけど、少なくとも“男を惑わす夢魔”ではない。
どっちかというと“保護対象”である。
澄鈴が頭を押さえた。
「依夜、どうするの」
「どうするって」
「それ、家に置く気?」
「“それ”って言い方やめて」
「じゃあ“サキュバスさん”」
「急に丁寧」
「扱いに困ってるの」
それは私も困ってる。
でも、泣きながら「捨ててください」なんて言うやつを、そのままはいさようなら、できるほど私は性格がよくない代わりに、悪くもなりきれない。
「……とりあえず」
「はい……っ」
「今日は家から追い出さないから」
「えっ」
「えっ、じゃない。外に放り出すわけにもいかないでしょ」
「…………」
「なんでまた泣くの」
「す、捨てられないんですね……?」
「今のところは」
「ありがとうございますぅぅ……!」
「重い重い重い」
いやほんとに。
なんでこうなった。
普通に学校から帰ってきて、暇つぶしで怪しい召喚術をやってみただけなのに。
気づけば、泣き虫で、ポンコツで、サキュバスなのに誘惑もできない女の子を保護する流れになっている。
どう考えても面倒事だ。
というか、面倒事以外の何物でもない。
でも。
ほんの少しだけ。
この子の「役に立たないなら捨ててください」が、自分の中のどこかとつながってしまった時点で、もう見捨てる選択肢は消えていたのかもしれない。
「……まあ、いっか」
小さく呟くと、メイベルがぱっと顔を上げる。
「よ、よろしくお願いします……!」
「まだ何も始まってないから」
「で、でも……!」
「とりあえず立って。あと泣き止んで」
「が、がんばります……!」
「今の返事、絶対がんばれてないやつ」
泣きながら笑うサキュバスと、頭痛を覚え始めた普通の私。
どう考えても面倒事だ。
というか、面倒事以外の何物でもない。
でも。
「……いらなかったら、捨ててください」
さっきの言葉が、頭から離れない。
――ああ、だめだ。
これ、もう無理だ。
放っておけるわけがない。
ため息をつきながら、私はぽつりと呟いた。
「……ちゃんと面倒見るから」
「っ……!」
その瞬間。
メイベルの表情が、変わった。
さっきまでの怯えた顔じゃない。
安心とも違う。
もっと――
ぞくっとするくらい、重たい何か。
「……ほんとに?」
小さな声。
なのに、やけに耳に残る。
「捨てませんか……?」
「……今はね」
軽く返したつもりだった。
なのに。
「よかった……」
メイベルは、泣きながら笑った。
その顔を見て。
――あ、と思った。
これ、多分。
思ってるより、重いやつだ。
私の“普通”は。
もう、戻らないかもしれない。




