第二十八話「気づくの、遅すぎ」
“半端でも生きてていい”。
北条由斗がそう言ってくれたあとのメイベルは、少しだけ呼吸の仕方が変わった。
劇的に元気になったわけじゃない。
姉への恐怖が消えたわけでもないし、学校が急に平気になるわけでもない。
でも、さっきまでみたいな“今にも全部だめ認定しそうな顔”ではなくなっていた。
それだけで、今日は十分な気がした。
「……戻る?」
と、あたしが聞く。
「……はい」
メイベルが頷く。
由斗は相変わらずベンチの横で眠そうな顔をしていた。
でも、その眠そうな人が一番要点だけ持っていった気がして、ちょっと悔しい。
「……北条さん」
「…なに?」
「助かった」
「うん」
「でも、もうちょい早く出てきてくれてもよかった」
「タイミング、難しい」
「便利な言い訳」
「本当」
「信じてない」
「ひどい」
全然ひどそうじゃない顔で言うな。
メイベルも、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「どういたしまして」
「……」
「でも、お礼言うのは、また今度」
「え?」
「今日、まだ、終わってない」
「……」
その一言で、メイベルの顔が少しだけ強張る。
たしかにその通りだ。
昼休みが終われば、また教室に戻る。
美良もいる。
現実はまだ続いている。
それでもあたしは、由斗のその言い方が嫌じゃなかった。
“今助けたから終わり”じゃない。
“まだ続くけど、それでも大丈夫かもね”っていう感じがあったから。
「……行こう」
「……はい」
メイベルと並んで歩き出す。
今度は、前より少しだけ自然に隣に来た。
それを見て、あたしは少しだけ安心した。
◇ ◇ ◇
教室に戻ると、美良は席で静かに本を読んでいた。
相変わらず絵になるな、と思う。
思うけど、今はその完成度の高さが少しだけ怖い。
メイベルの歩幅が、教室の入口で少しだけ鈍った。
あたしは立ち止まらずに、小さく言う。
「……横、いるから」
「……はい」
その一言だけで、メイベルがまた歩き出す。
席につく。
美良が本から目を上げた。
「おかえり」
「……ただいま、って言う場所じゃないでしょ」
「あら、冷たい」
「通常運転」
美良はふっと笑って、メイベルを見る。
「少し顔色戻った?」
「……は、はい」
「そう。よかった」
やっぱり。
こういう“普通に優しい言い方”が一番やりにくい。
でも、メイベルはさっきまでと少し違った。
「……ありがとうございます」
と、小さく返す。
声はまだ弱い。
でも、前みたいにそれだけで潰れそうではない。
美良はその反応に少しだけ目を細めた。
「……へえ」
「なに」
「別に?」
その“へえ”が不穏だなと思ったけど、今は構わない。
メイベルが自分で返したことの方が大きい。
授業が始まるまでの短い時間、あたしは机に肘をつきながらぼんやり考えていた。
半端でもいい。
帰る場所は、ちゃんとしてなくても戻ってきていい。
そういう言葉は、今のメイベルに必要だった。
でも同時に。
――あたしは何してたんだろう。
昨日、あんなふうに追い詰めた時の自分を思い出す。
しんどいのは本当だった。
重いと思ったのも本当だ。
でも、それをメイベル本人にぶつける形でしか処理できなかった。
あれは完全に失敗だ。
しかも、保健室で“次はもっと早く止める”って思った直後に、だ。
気づくの、遅すぎ。
自分に対して、そう思う。
◇ ◇ ◇
放課後。
今日は特に何も起きなかった。
起きなかった、というか、大きな波は立たなかった。
美良は何度かメイベルを見ていたけど、直接何か言うことはなかったし、メイベルもそのたびに少し強張りながらも、なんとか一日を終えた。
崩れなかった。
それだけで、今日は十分だった。
「……帰ろう」
「……はい」
荷物をまとめて、教室を出る。
廊下を歩きながら、メイベルがぽつりと言う。
「……依夜さん」
「なに」
「今日、わたし」
「うん」
「昨日よりは、ましでした」
「うん」
「……たぶん」
その言い方に、あたしは少しだけ笑う。
「たぶんでも十分」
「……」
「崩れなかったし」
「……はい」
「途中で苦しいって言えたし」
「……はい」
「あと、姉に返事した」
「……」
「えらい」
「……!」
メイベルが、ちょっとだけ目を丸くした。
それから、少しだけ照れたみたいに俯く。
「……えらい、ですか」
「うん」
「……」
「何その顔」
「……うれしいです」
「知ってる」
ほんとにわかりやすい。
でも、そのわかりやすさに少し救われる。
今日一日、あたしはずっと、昨日の自分の言葉を引きずっていたから。
「……メイベル」
「はい」
「昨日のことなんだけど」
「……」
その一言で、メイベルの肩が少しだけ揺れた。
やっぱり、まだ残ってる。
「……うん」
「今さらだけど」
「……」
「ほんとに、言い方最悪だった」
「……」
「ごめん」
立ち止まって、ちゃんと言う。
メイベルは、しばらく私を見ていた。
それから、小さく首を振る。
「……依夜さんだけじゃないです」
「……」
「わたしも、ずっと」
「……」
「依夜さんに、見てもらえば大丈夫って思ってたので」
「……」
そこで胸が少し痛くなる。
「それが、よくなかったのかもって」
「……」
「今日、少し思いました」
由斗の言葉が効いてるんだろう。
一人に全部乗せるのは違う。
半端でもいい。
そのへんの感覚が、少しだけ入ってきてる。
「……でも」
と、メイベルが続ける。
「それでも」
「……」
「昨日、すごく怖かったです」
「……うん」
「今も、少しだけ」
「……うん」
「だから」
「……」
「すぐに全部、元通りにはできないです」
その言葉は、正直で、すごくありがたかった。
“もう平気です”って言われる方が、今は怖い。
ちゃんと怖かったって言ってくれる方が、よほど信じられる。
「……元通りじゃなくていい」
「……」
「前と同じは、たぶん無理だし」
「……」
「その代わり、もう少しマシにすればいい」
「……」
メイベルが、ゆっくり頷いた。
「……はい」
その返事は、今日は何度も聞いた“はい”の中で、一番ちゃんとしていた。
◇ ◇ ◇
帰り道の途中、公園の前を通る。
小さい子どもたちが遊んでいて、夕方の光が少し柔らかかった。
あたしはその風景を見ながら、ふと兄のことを思い出す。
朝輝は、私がしんどい時でも、全部見抜いた顔をする。
それが嫌で、比べられるのも嫌で、勝手にしんどくなって。
そのくせ、あたしはメイベルに対して“見る側”に回っていた。
守るつもりで。
支えるつもりで。
でも、その“見る”の中に、知らないうちに上からの目線が混じってたんじゃないか。
わかったつもりになってたんじゃないか。
そう考えると、胃の奥が少し重くなる。
――気づくの、遅すぎ。
本当にそうだ。
「……依夜さん」
「なに」
「さっきから、考えごとしてます」
「そう?」
「してます」
「顔に出てた?」
「出てます」
兄の友達じゃなくてもわかるらしい。
「……ちょっとね」
「……」
「昨日のこと、いろいろ」
「……はい」
メイベルは少しだけ迷って、それからおそるおそる聞いてきた。
「……わたしのこと、ですか」
「それもある」
「……」
そこで変に否定しないのが、今は大事な気がした。
「でも」
「……」
「あたしのことも」
「……」
メイベルが少しだけ首をかしげる。
「……依夜さんの?」
「うん」
「……」
「あたし、わかったつもりになるの、あんまり良くないなって」
「……」
メイベルはしばらく黙って、それから小さく言う。
「……でも」
「うん」
「依夜さんが、わたしのこと見てくれるの」
「……」
「いやじゃないです」
その言い方が、妙にまっすぐで。
あたしは一瞬だけ言葉に詰まる。
「……そう」
「はい」
「でも、見方はちょっと考え直す」
「……」
「勝手に“これくらいなら大丈夫”って決めるの、危ない」
「……はい」
メイベルが、ゆっくり頷く。
「じゃあ」
「うん」
「わたしも、もっと言います」
「……」
「大丈夫じゃない時」
「うん」
「ちゃんと」
「うん」
そのやり取りが、なんだか少しだけ嬉しかった。
全部、きれいにはいかない。
でも、昨日の最悪を通ったあとだからこそ、こういう確認が前より少しだけちゃんとできる。
それは多分、悪いことじゃない。
公園を通り過ぎる頃、メイベルがふと立ち止まった。
「……どうした」
「……あの」
「うん」
「昨日、帰る場所って言ってもらえて」
「……」
「今日も、帰っていいですか」
その聞き方に、私は少しだけ笑ってしまった。
「何その確認」
「だ、だって……」
「いいよ」
「……!」
「今日も、ね」
「……はい」
ほっとしたように、メイベルが笑う。
その顔を見ながら、私は心の中で思う。
気づくのは遅かった。
でも、遅かったからって終わりじゃない。
間違えたあとで、どう立て直すか。
多分、大事なのはそっちなんだろう。
そう思えるくらいには、あたしは昨日より少しだけ冷静になっていた。




