第二十七話「半端でもいいって、言われると少しだけ息ができる」
次の日の朝、目が覚めた時、最初に思ったのは。
――静かだ。
だった。
静か、というか。
変に張りつめてない。
ベッドの上でぼんやり天井を見て、それから床の方に目を向ける。
毛布にくるまったメイベルが、まだ眠っていた。
寝顔は相変わらず無防備で、昨日あんなに泣きそうになっていたのが嘘みたいだ。
いや、嘘じゃないんだけど。
寝てる間だけ、一旦全部から解放されてる感じがする。
「……」
あたしは少しだけ息を吐いて、起き上がった。
昨日、完全に取り返しがつかなくなる一歩手前まで行った。
それは本当だ。
でも、戻ってきた。
ちゃんと、家に。
この部屋に。
だから多分、まだ間に合う。
そう思える朝だった。
「……ん」
毛布が少し動いて、メイベルがゆっくり目を開ける。
視線が合う。
数秒だけ、お互い何も言わない。
「……おはよう」
と、あたしが先に言った。
「……おはようございます」
メイベルが、小さく返す。
その声は少しだけ掠れてる。
でも、昨日みたいな“壊れそうな音”じゃなかった。
「……寝れた?」
「……少しだけ」
「ならまあいいか」
「依夜さんは……?」
「それなり」
メイベルが、少しだけ迷うような顔をしたあと、言う。
「……昨日」
「うん」
「ここにいさせてくれて、ありがとうございました」
「……」
「……帰る場所って言葉」
「……」
「まだ、ちょっとこわいですけど」
「うん」
「でも、うれしかったです」
あたしは少しだけ目を細める。
「そっか」
「はい」
会話としては短い。
でも、それで十分な気がした。
◇ ◇ ◇
学校へ向かう途中、メイベルはいつもより少しだけ静かだった。
ただ、前みたいな“沈んだ静けさ”じゃない。
考えながら歩いてる感じの静けさだ。
「……無理そうなら言ってね」
「……はい」
「今日は昨日の続きみたいなもんだから」
「……」
「がんばるより、崩れない方優先」
「……はい」
その返事はちゃんとしてる。
でも、やっぱりまだ緊張はしてる。
校門が見えたあたりで、メイベルが小さく息を吸った。
「……依夜さん」
「なに」
「今日、もし……」
「うん」
「また、だめになりそうだったら」
「うん」
「ちゃんと言います」
「……うん」
あたしは少しだけ笑った。
「それが一番えらい」
「……!」
「そこ褒められると嬉しそうだね」
「……うれしいです」
「知ってる」
そのやり取りができるくらいには、昨日の最悪からは戻ってきてる。
それが少しだけ救いだった。
◇ ◇ ◇
午前の授業は、思ったより平和だった。
美良はいた。
相変わらず空気を持っていくような顔で、何でもないみたいに座っていた。
でも今日は、昨日ほど露骨にメイベルへ触れてはこなかった。
ただ、触れないことが優しさかというと、全然そんなことはない。
時々こっちを見る。
それだけで、メイベルの肩が少し強張る。
嫌な静けさだった。
でも、昨日より違うこともある。
「……依夜さん」
授業の合間、小さな声。
「なに」
「ちょっとだけ、苦しいです」
「……どのくらい?」
「今は、まだ平気です」
「うん」
「でも、増えそうです」
ちゃんと言えた。
あたしは机の下で軽く拳を握る。
よし。
そこはちゃんと前進だ。
「じゃあ次の休み時間、外出よう」
「……はい」
小さく頷くメイベルの横顔は、まだ頼りない。
でも、“黙って崩れる”よりずっといい。
◇ ◇ ◇
三時間目のあと、あたしはメイベルを連れて校舎裏のベンチへ向かった。
この場所も、だいぶ見慣れてきたなと思う。
見慣れたくないけど。
「……大丈夫?」
「……少し、ましです」
「うん」
「でも」
「うん」
「姉さまが何もしてこない方が、逆にこわいです」
「……」
それは、わかる。
美良は“何もしない”を選べるタイプだ。
そしてその“何もしない”の中に、相手が勝手に意味を探すのを待てる。
そういう怖さがある。
「……メイベル、ちゃん?」
聞き慣れない声。
振り返ると、眠そうな顔のまま高身長が立っていた。
北条由斗。
「……また出た」
「ひどい」
「いや、タイミング」
「たまたま」
「絶対違うでしょ」
「半分、くらいは」
やっぱり兄の友達だな、と思う。
由斗はベンチの横で立ち止まって、メイベルを見た。
メイベルも少し緊張した顔で由斗を見る。
でも、美良に対する時みたいな硬さではない。
「調子、悪そう」
「……はい」
「正直、だね」
「うそつけないので……」
「それは、知ってる」
由斗は小さく笑って、それから私を見る。
「それで、依夜ちゃん、は?」
「何が」
「一人で、抱え込む、やめた?」
「まだ完全には」
「そうだと、思った」
即答だった。
腹立つけど事実だ。
「でも、昨日よりは少しだけ」
「うん」
「マシ」
「そっか」
由斗はその返事に満足したみたいに頷いた。
「なら、よかった」
「……何しに来たの」
「…見回り?」
「学校関係者でもないのに?」
「朝輝に、頼まれた」
「最悪」
でも、それを聞いて少しだけ肩の力が抜ける。
兄なりに気にしてるんだろう。
由斗はそのままベンチの背にもたれて、ぼんやり空を見上げた。
「メイベル、ちゃん」
「は、はい」
「昨日、結構、きつかった?」
「……」
「答えたく、なければ、いい」
メイベルは少し考えて、ぽつりと言った。
「……きつかったです」
「うん」
「わたし、何もできない気がして」
「うん」
「やっぱりだめなんだって……」
「うん」
「……でも」
「うん」
「依夜さんに、止められました」
「……」
由斗が少しだけこっちを見る。
「…止められ、たんだ」
「うん」
「珍しい」
「何が」
「依夜ちゃん、自分のことで、いっぱいいっぱい、なると、相手止める前に、自分責める方、行きそう」
「……」
「何その顔」
「言い返せない」
悔しい。
でも、由斗の言い方には悪意がない。
ただ見たままを言ってるだけだ。
それが兄と少し似ていて、でも由斗の方が静かでやりやすい。
「……北条さん」
と、メイベルが言う。
「…なに?」
「わたし」
「うん」
「やっぱり、中途半端です」
その言葉に、由斗は少しだけ目を細めた。
「何が」
「学校も、サキュバスも」
「うん」
「姉さまみたいにもなれなくて」
「うん」
「依夜さんの隣にも、ちゃんと立てなくて……」
あたしは思わず口を開きかけたけど、由斗が先に言った。
「半端で、いい」
あまりにも自然だったから、一瞬聞き逃しそうになった。
「……え」
「いや、だから」
「……」
「半端で、いい」
メイベルが、ぽかんとした顔をする。
私も少しだけ驚いていた。
由斗は眠そうな顔のまま、続ける。
「僕も、そう」
「……」
「人間でも、サキュバスでも、ない」
「……」
「朝弱くて、夜元気」
「それは体質の話では」
「半分」
「……」
メイベルは、まだ意味を掴みきれてない顔をしている。
「どっちかちゃんとしなきゃは、しんどい」
と、由斗。
「……」
「でも、現実は、真ん中なら」
「……」
「真ん中のまま、生きるしか、ない」
「……」
「負けでも、失敗でも、ない」
その言葉は、すごく静かだった。
でも、妙に強かった。
「……北条さんは」
メイベルが、かすれた声で聞く。
「苦しく、ないんですか」
「苦しい、よ」
「……」
「昔は、特に」
「……」
「でも、どっちにも、なれない、わかったから」
「……」
「逆に、楽」
「楽?」
「どっちかに、合格、しなくていい」
その発想は、あたしにはなかった。
合格しなくていい。
向いてるか向いてないかで裁かなくていい。
由斗は、それを当たり前みたいに言う。
「……依夜ちゃん、も」
「え、あたし?」
「半端、でしょ」
「急に刺してくるね」
「褒めてる」
「絶対違う」
「でも、朝輝ほど、器用、じゃない」
「……」
「メイベルちゃんほど、素直、じゃない」
「……」
「その間にいる感じ、ちょっと似てるよ」
やめてくれ。
その言い方は、妙に刺さる。
でも、否定もできない。
あたしは兄ほど何でもできるわけじゃない。
メイベルみたいに誰かに寄りかかるのも上手くない。
そういう意味では確かに“半端”なのかもしれない。
「……それって」
メイベルが、おそるおそる言う。
「だめじゃ、ないんですか」
「全然」
「……」
「むしろ、どっちか、決められない分、楽な時、ある」
「……」
「美良さん、みたいな、“できる側”」
「……」
「ずっとできる役、やらなきゃだから、面倒」
その一言に、あたしは少しだけ目を上げた。
メイベルも同じだった。
由斗は本気でそう言っていた。
美良を悪く言う感じじゃない。
ただ、“あっちも大変だよ”と事実みたいに言う。
それが少し意外で、でも、妙に納得もした。
「……」
しばらく、三人とも黙った。
風が吹いて、木の葉が揺れる。
昼休みの終わりが近いのか、遠くでチャイムの前のざわめきが聞こえる。
「……メイベル、ちゃん」
由斗が静かに言う。
「はい」
「今すぐ、自信持つ、できない」
「……はい」
「でも、“半端でも生きてていい”くらい、なら」
「……」
「今日から、思ってみても、いい」
メイベルはそれを聞いて、少しだけ俯いた。
それから、ほんの少し震える声で言った。
「……それなら」
「うん」
「少しだけ、できるかもです」
あたしはそこで、ようやく息を吐いた。
由斗の言葉は、綺麗な慰めじゃない。
でも、だからこそメイベルに届いた気がした。
完璧じゃなくていい。
ちゃんとしてなくてもいい。
半端なままでも、生きてていい。
それは、多分今のこの子に一番必要な言葉だった。
「……ありがとう」
と、あたしは由斗に言った。
「何、が」
「今の」
「うん」
「ちょっとだけ助かった」
「それは、よい」
由斗は相変わらず眠そうだった。
でも、その眠そうな顔の奥に、少しだけ優しさみたいなものが見えた気がした。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「半端でも、いいんですね」
「うん」
「今日だけじゃなくて?」
「今日だけじゃなくて」
「……」
メイベルの目に、少しだけ光が戻る。
泣きそうでもなく、崩れそうでもなく。
ただ、少しだけ“息がしやすくなった”みたいな顔だった。
あたしはその顔を見ながら思う。
守るとか、支えるとか、そういう言葉も大事だけど。
時々、本当に必要なのは、“それでもいい”って許す言葉なのかもしれない。




