第二十六話「帰る場所」
家までの帰り道は、思っていたより静かだった。
さっきまで、あんなに取り返しがつかない気がしていたのに。
今はただ、夕方の空気が少し冷たくて、歩幅を合わせることだけを考えている。
隣のメイベルは、まだ少しぎこちない。
でも、完全に閉じた感じではなかった。
それだけで、今は十分だと思った。
「……寒くない?」
「えっ」
「ぼんやりしてるから」
「だ、大丈夫です……」
「そう」
「……」
「……」
会話が続かない。
でも、無理に続けようとはしなかった。
さっきまであんな話をしていたんだから、気まずくない方がおかしい。
それに、今のこの子に必要なのは、うまい言葉じゃない気がした。
ただ、途中で離れないこと。
ちゃんと一緒に家まで帰ること。
多分、それだけでいい。
家の前まで来た時、メイベルがほんの少し足を止めた。
「……どうした」
「……」
「入りたくない?」
「……いえ」
「じゃあ何」
「……少しだけ」
「うん」
「こわいです」
その言葉が、胸の奥にじんと来た。
そりゃそうだ。
さっきあたしは、この家の中で、一番言っちゃいけないことを言った。
今その場所に戻るのが怖いのは当然だ。
「……うん」
「……」
「それは、そうだと思う」
「……」
メイベルが、少しだけ目を伏せる。
「でも」
「……」
「今日は、あたしも一緒に入る」
「……」
当たり前のことを言ったつもりだった。
でも、メイベルはその一言で少しだけ表情を緩めた。
「……はい」
玄関を開ける。
中は静かだった。
「ただいま」
とあたしが言うと、
「おかえり」
と、リビングから朝輝の声がした。
ああ、いるのかと思う。
少しだけ身構えたけど、今はその明るさがむしろ助かる気もした。
リビングを覗くと、朝輝がソファに座っていた。
こっちを見て、すぐに何か察した顔になる。
「……あー」
「何」
「いや、空気」
「便利だね、その感覚」
「褒められた」
「違う」
でも朝輝はそれ以上軽口を叩かなかった。
メイベルを見て、それからあたしを見て、少しだけやわらかい声になる。
「メイベルちゃん、平気?」
「……は、はい」
「嘘っぽいなあ」
「朝輝」
「ごめんごめん」
ほんとにごめんと思ってる顔ではないけど、引き際は知っている。
「紅茶淹れるけど、飲む?」
「……」
「……飲みます」
と、メイベルが小さく言った。
「了解」
朝輝が立ち上がる。
その背中を見ながら、あたしは少しだけ息を吐いた。
家って、本来こういうものなんだろうかと思う。
完全に安心できるわけじゃない。
気まずさもあるし、めんどくさいこともある。
でも、外よりは、ちょっとだけ息がしやすい場所。
――帰る場所。
その言葉が頭に浮かんで、妙に引っかかった。
メイベルにとって、今のここはそうなれているんだろうか。
それとも、さっきあたしが壊したせいで、まだ“怖い場所”のままなんだろうか。
◇ ◇ ◇
紅茶を淹れてもらって、メイベルは両手でカップを持っていた。
その持ち方が、少しだけ前よりぎこちない。
落ち着こうとしてるんだろう。
朝輝は向かいに座っている。
でも、いつもみたいにぐいぐい話しかけたりはしない。
静かに様子を見てる。
こういうところは、本当にありがたい。
「……依夜ちゃん」
「なに」
「後でちょっと話せる?」
「うん」
「今じゃなくていい」
短いやり取り。
でも、それで十分だった。
メイベルがそっと口を開く。
「……お兄さま」
「うん?」
「今日……」
「うん」
「ごめんなさい」
「それは何に対して?」
「……いろいろ、です」
「便利だなあ、その“いろいろ”」
朝輝は苦笑して、それから首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「……」
「依夜ちゃんとなんかあったんだろうなってのは見ればわかるし」
「……」
「でも、ここに戻ってきたなら、それでいい」
メイベルが少しだけ目を見開く。
「……それで、いいんですか」
「うん」
「……」
「帰ってきたんでしょ?」
「……はい」
「なら十分」
その言い方が、妙に自然だった。
帰ってきたなら十分。
それは、とても簡単な言葉なのに、メイベルにはちゃんと届いたみたいだった。
目元が、少しだけ潤む。
「なんで泣きそうになるの」
とあたしが言うと、
「うれしくて……」
とメイベルはいつもの答えを返した。
それに、少しだけ笑いそうになる。
全部は元通りじゃない。
でも、完全に壊れたわけでもない。
その感覚が、少しずつ戻ってくる。
◇ ◇ ◇
夜。
朝輝と少しだけ話したあと、あたしは自室に戻った。
その後ろを、メイベルもついてくる。
扉が閉まる。
沈黙。
また少し気まずい。
でも、さっきの道端の気まずさとは違う。
ちゃんと戻ってきたあとの気まずさだ。
「……座れば?」
「……はい」
メイベルがベッドの端に腰かける。
あたしは机の前の椅子に座った。
向かい合う形になる。
逃げにくいなと思う。
「……」
「……」
どっちから言うか迷っていたら、先にメイベルが口を開いた。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「帰ってきて、よかったです」
その一言に、少しだけ息が詰まる。
「……そっか」
「はい」
「……」
「帰らない方がいいかなって、少し思いました」
「……」
やめてほしい。
そういうの、さらっと言うの。
「でも」
「……」
「帰るところ、ここしかないって思って」
「……」
胸の奥がじんと熱くなる。
ここしかない。
それは、重い。
正直、すごく重い。
でも同時に。
今のあたしは、その重さを捨てたくないとも思ってしまう。
「……メイベル」
「はい」
「それ、ちょっと重い」
「……っ」
「でも」
「……」
「嫌って意味じゃない」
「……」
メイベルが、じっとあたしを見る。
「今は」
「……」
「あんたの“帰るところ”がここでもいい」
「……!」
目が揺れた。
泣きそうな顔だ。
「ただし」
「……はい」
「それ、あたし一人に全部乗せるのはダメ」
「……」
「ここ、っていうのは」
「……」
「あたしだけじゃなくて」
「……」
「澄鈴も、兄さんも、場合によっては北条さんも入る」
メイベルは少しだけ考えてから、小さく頷いた。
「……はい」
「できそう?」
「……すぐには、難しいです」
「うん」
「でも」
「……」
「やってみます」
「うん」
その返事に、今度はちゃんと力があった。
よかった、と思う。
少しずつでも、戻ってきている。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「“帰る場所”って」
「……」
「もっと、ちゃんとしてる人が持つものだと思ってました」
その言葉に、思わず眉をひそめる。
「何それ」
「……」
「どういう基準」
「役に立って」
「……」
「迷惑かけなくて」
「……」
「一人で立てて……」
ああ、だめだ。
この子の中の“帰っていい条件”、まだそんなに厳しいのか。
「……それ」
「……」
「誰に言われたの」
「……」
「姉?」
「……姉さまも、ですけど」
「……」
「わたしも、そう思ってました」
結局そこか、と思う。
言われたこともあるんだろう。
でも、最終的には自分の中に根を張ってる。
「……帰る場所ってさ」
「……はい」
「そんなに立派なもんじゃないと思う」
「……え」
「迷惑かけても帰るし」
「……」
「ちゃんとしてなくても、とりあえず帰るし」
「……」
「一人で立てない日でも帰るでしょ、普通」
「……」
メイベルが、ぽかんとした顔をする。
「……そう、なんですか」
「少なくともあたしはそう思ってる」
「……」
「“ちゃんとした人だけが帰っていい場所”とか」
「……」
「そんなの息苦しいだけ」
言ってから、少しだけ自分に刺さる。
あたしもきっと、どこかで家をそういうふうに見ていた部分があるから。
兄がすごくて。
自分は普通で。
だから居心地が悪くなる時がある。
でもそれでも、ここは家だ。
完全に楽じゃなくても、戻ってくる場所ではある。
「……依夜さん」
「なに」
「それ、すごくいいです」
「何が」
「息苦しいだけ、ってところ」
「……」
「わたし、ずっと」
「帰る場所って、試験みたいなものだと思ってました」
それは、あまりにもきつい考え方だった。
「……じゃあ」
「……」
「今日のあんたは、帰ってきた」
「……はい」
「ってことは?」
「……」
メイベルは少しだけ考えて、それから、おそるおそる言う。
「……落ちて、ないです」
「うん」
「……」
「少なくとも今日はね」
そこで、メイベルがやっと笑った。
まだ少し弱いけど、ちゃんと力の抜けた笑い方だった。
「……よかったです」
「うん」
「すごく」
「知ってる」
その返事に、自分でも少し笑ってしまう。
◇ ◇ ◇
寝る前。
メイベルはいつもより少しだけ遠慮がちに毛布を抱えていた。
でも、部屋を出ていこうとはしなかった。
「……なに」
「えっ」
「なんか言いたそう」
「……」
「……」
「……今日」
「うん」
「ここにいても、いいですか」
その聞き方が、少し前までと違っていた。
依存っぽく縋る感じじゃない。
ちゃんと確認して、許可をもらおうとしている感じ。
――ああ、少し変わったな、と思う。
「いいよ」
「……!」
「今日はね」
「……はい」
メイベルが、ほっとしたように毛布を抱きしめる。
「……おやすみ、依夜さん」
「おやすみ」
電気を消す。
部屋が暗くなる。
静かな中で、私は目を閉じながら考える。
帰る場所。
それって、多分“完璧じゃなくても戻ってきていい場所”なんだろう。
メイベルにとって、ここが少しでもそうなれるなら。
あたしは今日、ひとつ間違えたあとでも、まだやり直せる位置にいるのかもしれない。
そのことに、ほんの少しだけ救われながら。
あたしはようやく、ゆっくり息を吐いた。




