第二十五話「取り返しがつかなくなる前に」
「今は、依夜さんのやさしい言葉、信じられません」
その一言で、時間が止まったみたいだった。
目の前にいるのは、いつものメイベルだ。
泣き虫で、気弱で、すぐ不安になって、ちょっとしたことで顔に全部出る。
なのに今のその目だけは、見たことがないくらい遠かった。
「……」
何か言わなきゃ、と思う。
でも、すぐには言葉が出てこない。
だって、正しいからだ。
さっきのあたしは、やさしくなかった。
言い方を間違えたとか、余裕がなかったとか、そんな軽い話じゃない。
ちゃんと傷つけにいっていた。
相手の一番不安なところを知っているくせに、そこを踏み抜いた。
それを、今さら取り繕っても意味がない。
「……メイベル」
やっと出た声は、自分で思っていたより低かった。
「……今、離したら」
「……」
「たぶん後悔する」
情けない言い方だと思う。
もっとちゃんとした言葉があるだろうに、と自分でも思う。
でも、それが一番本音だった。
メイベルは少しだけ目を伏せた。
睫毛が震える。
泣きそうなのに、泣くことすら我慢している顔だった。
「……依夜さん」
「……」
「わたしも、後悔してます」
「……え」
「……さっきまで」
「……」
「“ここにいていいのかな”って思いながら」
「……」
「でも、やっぱりいたくて」
「……」
「それで、また迷惑かけて」
「……」
胸が、ぎゅっと縮む。
この子はきっと、ずっとそうだったんだろう。
居たいのに、居ていいのかわからなくて。
頼りたいのに、頼るたびに迷惑なんじゃないかと怯えて。
それでも離れたくなくて、余計にしがみついてしまう。
「……それで」
「……」
「ちゃんとしなきゃって、思って」
「……」
「でもできなくて」
「……」
「最後に、いらないって言われて」
違う、と反射的に言いかけて、止まった。
あたしは“いらない”なんて言ってない。
でも、それは言い訳にしかならない。
一緒にいるのがしんどい。
限界かもしれない。
そういう言葉を、あの言い方でぶつけたら、意味はほとんど同じだ。
逃げられない。
「……わたし」
「……」
「やっぱり、依夜さんのそばにいる資格、ないです」
その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
「……それ、誰が決めたの」
気づいたら、少し強めに言っていた。
メイベルがびくっと肩を揺らす。
「……え」
「それ」
「……」
「“資格ない”ってやつ」
「……」
「また勝手に決めてる」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
さっきまでの、“言いすぎた側”の声じゃない。
もう一度、引き戻そうとする側の声だった。
「……依夜さんが」
「うん」
「無理かもって」
「……言った」
「……」
「それは、撤回する」
即答だった。
考えるより先に出た言葉だった。
でも、だからこそ嘘じゃなかった。
「……え」
「さっきのは、あたしのミス」
「……」
「完全に言いすぎた」
「……」
メイベルの目が揺れる。
けれど、まだ信じてはいない目だった。
当然だと思う。
傷つけた直後に訂正したところで、簡単に埋まるわけがない。
「……しんどいって思ったのは本当」
「……」
「重いって感じたのも、本当」
「……」
そこから逃げるつもりはなかった。
ここで全部をなかったことにしたら、もっと駄目になる。
「でも」
「……」
「だから“いらない”とか“無理”にはならない」
「……」
メイベルの呼吸が、少しだけ浅くなる。
怖がっているのがわかる。
また傷つく言葉が来るんじゃないかと、身構えているのがわかる。
「……ほんとに?」
「ほんと」
「……」
「さっきのは」
「……」
「疲れて、余裕なくなって」
「……」
「一番言っちゃいけない言い方した」
ちゃんと届くように、ゆっくり言う。
誤魔化さず、でも突き放さず。
「……ごめん」
沈黙が落ちた。
風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
夕方の空気は少し冷えていて、なのに手のひらには変な汗をかいていた。
メイベルはすぐには何も言わなかった。
その沈黙が怖い。
でも、ここで急かしたら余計に壊れる。
「……」
数秒。
十秒。
そのあと、メイベルが小さく口を開いた。
「……じゃあ」
「……」
「さっきの“重い”は」
「……」
「どういう意味、ですか」
真正面から来た。
逃げられない質問だった。
たぶん、ここで曖昧にしたら、もう駄目になる。
あたしは一瞬だけ目を閉じて、それから答えた。
「……あんたそのものが悪い意味じゃない」
「……」
「ただ」
「……」
「一人で全部受け止めるのは、きついって意味」
メイベルが少しだけ眉を寄せる。
「……一人で」
「うん」
「あたしだけで、支えるの」
「……」
「それが、限界あるって話」
由斗に言われた言葉が頭をよぎる。
一人で守れる範囲なんて、思ってるよりずっと狭い。
抱え込める量にも、ちゃんと限界がある。
「……あんたが重いんじゃなくて」
「……」
「あたしが全部一人でやろうとしてる状況が重い」
ちゃんと伝えたくて、言葉を探す。
「あたし、あんたのこと放っておけないし、助けたいとも思ってる」
「……」
「でも、あたししかいない状態で、あんたの全部を受けるのは無理がある」
「……」
「その無理が、しんどかった」
メイベルは黙ったまま聞いていた。
泣きそうな顔のまま、でも逃げずに。
「……それ、違いますか」
少し間を置いて、そう聞く。
責めるためじゃなく、確認するために。
メイベルはしばらく考える顔をしたあと、小さく頷いた。
「……わたし」
「うん」
「依夜さんに、全部頼ってました」
「……」
「頼ってる自覚、ありました」
「……」
「でも」
「うん」
「それしか、できなくて」
弱い声だった。
でも、さっきよりちゃんと“考えてる声”だった。
「……それは別にいい」
「……え」
「頼るのはいい」
「……」
「でも」
「……」
「頼る先が一個しかないのが、問題」
メイベルが、はっとしたように目を上げる。
「……北条さん」
「うん」
「とか」
「……」
「澄鈴もいるし」
「……」
「兄さんもいる」
「……」
名前を出すたび、メイベルの表情が少しずつ変わる。
自分の世界が、あたしだけで閉じていたことに、ようやく輪郭がついていくみたいだった。
「……わたし」
「うん」
「そんなに、頼っていいんですか」
その質問が、少しだけずれていて。
でも、この子にとってはたぶん、そこが一番大事なんだろうと思った。
「いいよ」
「……」
「むしろ、頼って」
「……」
「一人に集中される方が困る」
ほんの少しだけ冗談めかして言うと、メイベルがかすかに息を吐いた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
「……依夜さん」
「なに」
「さっき」
「……」
「“しんどい”って言われて」
「……」
「すごく怖かったです」
正直な言葉だった。
「……うん」
「……」
「それは、そうだと思う」
あたしも、あれを言われた側なら同じだ。
むしろ、もっと駄目になっていたかもしれない。
「……でも」
と、メイベルが続ける。
「今の話は」
「……」
「さっきより、少しわかります」
その一言で、胸の奥に絡まっていたものが少しほどけた。
「……ほんとに少しだけ、ですけど」
「十分」
無理に全部わかってもらおうとは思わない。
今は、少しで十分だった。
メイベルは視線を落として、ためらうように指先を握る。
「……まだ」
「うん」
「ちょっと、こわいです」
「……」
「依夜さんが、また」
「……」
「同じこと言うかもって」
痛い。
でも、それも当然だ。
「……言うかもね」
「……え」
メイベルが驚いて顔を上げる。
「絶対言わない、とは言えない」
「……」
「疲れる時もあるし、余裕なくなる時もある」
「……」
「でもその時は、今みたいに止めて」
メイベルが固まる。
「……止める?」
「うん」
「“それ言われると無理です”って」
「……」
「言ってくれないと、こっちも気づけない」
ずっと守る側でいようとしていたけど、それだけじゃ駄目なのだと思う。
相手が我慢し続けたままでは、結局また壊れる。
メイベルはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……できるか、わからないです」
「うん」
「でも」
「……」
「やってみます」
その答えに、あたしは少しだけ笑った。
「それでいい」
「……」
風が少し強く吹く。
夕方の空気が、さっきより冷たく感じた。
「……戻る?」
「……」
「家」
「……はい」
メイベルが、小さく頷く。
でも、すぐには歩き出さなかった。
「……依夜さん」
「なに」
「ひとつだけ」
「うん」
「……さっきの」
「……」
「“一緒にいるの無理かも”は」
「……」
「本当に、違うんですよね」
あたしは迷わなかった。
「違う」
「……」
「完全に、違う」
はっきり言う。
今度は絶対に曖昧にしない。
「……」
「……」
「……よかった」
その一言で、メイベルの肩からやっと力が抜けた。
完全じゃない。
まだぎこちないし、傷もそのままだ。
でも、完全に切れていたものが、細くても確かに繋がり直した感じがした。
「……帰ろう」
「……はい」
今度は、ちゃんと一緒に歩き出す。
さっきより距離は少しだけ空いている。
でも、それは悪い距離じゃなかった。
無理にくっつくんじゃなくて。
どちらかがしがみつくんじゃなくて。
ちゃんと、自分の足で隣にいるための距離。
あたしはその歩幅に合わせながら、静かに思う。
取り返しがつかなくなる前で、よかった。
ギリギリだった。
本当に、ギリギリだった。
あと少し遅かったら、きっともっと深いところで壊していた。
でも、まだ戻せる位置にいる。
まだ、間に合う。
だから今度は。
同じ失敗を繰り返さないようにしないといけない。
やさしくするだけじゃなくて、ちゃんと線を引くこと。
抱え込むだけじゃなくて、他の手も借りること。
そして、相手が傷ついた時に、誤魔化さず向き合うこと。
隣を歩くメイベルはまだ少し固い。
それでも、離れてはいない。
その事実が、今はただありがたかった。




