第二十四話「それ、重いよ」
朝輝の迎えで家に戻ったその日は、妙に静かだった。
メイベルは車――ではなく、兄の自転車の後ろに乗るのも無理そうだったので、結局三人で歩いて帰った。
朝輝はいつもより口数が少なくて、メイベルもほとんど喋らなくて、私はその真ん中で何を言えばいいのかわからなかった。
ただ、帰り道の途中で一回だけ、朝輝が私に言った。
「依夜ちゃん」
「なに」
「無理させたの、自分だけだと思わない方がいいよ」
「……」
「でも、自分だけの責任じゃないからって、しんどさを軽く見てもだめ」
その言い方が、妙に兄らしくて腹が立った。
腹が立ったけど、言い返す元気もなかった。
家に着いてから、メイベルはすぐにあたしの部屋へ行って、毛布を抱えたまま座り込んだ。
いつもなら何かしら「ありがとうございます」とか「すみません」とか言うのに、その日は本当に静かだった。
「……水」
とあたしが言って、コップを渡す。
「……ありがとうございます」
「うん」
声が細い。
ちゃんと戻ってきてはいる。でも、だいぶ削れてる。
あたしは机の横に立ったまま、しばらく何も言えなかった。
励ましたいわけじゃない。
でも放っておくのも違う。
その間で、ずっと足踏みしてる感じがした。
「……依夜さん」
先に口を開いたのはメイベルだった。
「なに」
「……わたし」
「うん」
「もう少し、ちゃんとしたいです」
その言葉に、胸の奥が嫌な感じにざわついた。
――また、それか。
「ちゃんと、って」
「……」
「今日みたいに、途中で崩れないとか?」
「……はい」
「学校でも、普通にできるようになるとか?」
「……はい」
「あたしに迷惑かけないように、とか?」
「……」
メイベルが少しだけ目を伏せる。
答えなくてもわかった。
「……そういうの」
「……」
「今日の今、考えなくてよくない?」
自分でも少し刺のある言い方だと思った。
でも止められなかった。
今日、この子は崩れた。
限界まで行って、やっと止まった。
その直後にまた“ちゃんとしたい”を言われると、なんだか全部が振り出しに戻る気がしてしまう。
「で、でも……」
「でも?」
「このままだと……」
「このままだと?」
「また、同じことに……」
「……」
正しい。
多分、正しい。
でも今の私は、その正しさに付き合える余裕がなかった。
保健室で泣きかけてた顔。
“やっぱり私はダメなんです”って言った声。
それを何とか受け止めたばかりなのに、またすぐ“ちゃんとしなきゃ”に戻ろうとする。
見ていて、疲れた。
「……メイベル」
「は、はい」
「あんたさ」
「……」
「なんで毎回、そうやってすぐ全部背負い直すの」
少しずつ、声が冷たくなっていくのが自分でもわかった。
「壊れかけたばっかでしょ」
「……はい」
「普通はそこで少し休むでしょ」
「……」
「なのにまた“ちゃんとしたい”“頑張りたい”って」
「……」
「それ、結局また同じことの繰り返しじゃない」
メイベルの顔が、少しずつ白くなる。
でも、止まれなかった。
たぶん私は。
今日一日で、思っていた以上に消耗していた。
美良への苛立ち。
由斗の言葉。
自分だけじゃ無理だっていう感覚。
それをちゃんと整理する前に、また目の前で“崩れて、立て直して、また崩れそうになるもの”を見せられて。
しんどかった。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし、ただ……」
「うん」
「依夜さんの隣にいるなら、ちゃんと……」
「だからそれ」
「……っ」
「それが重いって言ってるの」
言った瞬間、空気が止まった。
メイベルの目が、大きく開く。
あたしも一瞬だけ息を止めた。
でも、もう遅かった。
「……重い」
メイベルが、かすれた声で繰り返す。
「……」
「……わたしが?」
「……」
「……依夜さんに、とって」
そこで、やめればよかった。
やめて、落ち着いて、違う言い方を探せばよかった。
でも、その時の私は、もうちゃんと考えるより先に、吐き出す方に傾いていた。
「……そうだよ」
言ってしまった。
「重い」
「……」
「心配して、見て、崩れそうになったら支えて」
「……」
「毎回毎回、全部こっちに預けるみたいに来るの」
「……」
「正直、しんどい」
メイベルの顔から、表情が消える。
あたしはそのまま続けた。
止まれなかった。
「あんた、自分で“ちゃんとしたい”って言うくせに」
「……」
「苦しくなったら全部私の方見るじゃん」
「……」
「でも根本は、自分で変わるしかないのに」
「……」
「それをずっと、あたしがどうにかできると思われても困る」
言いながら、どこかでわかっていた。
これは、言いすぎだ。
今のメイベルにぶつける言葉じゃない。
でも、口が止まらない時ってある。
最低だなと思いながら、止められない時が。
「……わたし」
メイベルの声は、ほとんど消えそうだった。
「……そんなふうに」
「……」
「思わせて、ましたか」
そこでようやく、あたしは現実に引き戻される。
目の前にいるのは、美良じゃない。
兄でも、自分でもない。
メイベルだ。
泣きもしないで、ただ真っ白な顔で、あたしを見ている。
「……」
何か言わなきゃ、と思った。
違うとか。
今のは言い方が悪かったとか。
そういう何かを。
でも、先に出てきたのは、もっとひどい言葉だった。
「……あたし、このままじゃ」
「……」
「一緒にいるの、無理かもしれない」
終わった、と思ったのは、言ったあとだった。
メイベルの瞳が、目に見えて揺れる。
「……え」
「……」
「……依夜、さん」
「……」
やめろ。
その声で呼ぶな。
今さらそんなふうに揺れるくらいなら、最初から言うなよ、って。
自分に対して思う。
でも、もう遅い。
「……ごめん」
やっと出たのは、そんな情けない言葉だった。
でも、メイベルは首を振った。
「……いえ」
「……」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「……」
メイベルは立ち上がった。
動きが、妙に静かだった。
「……今日は」
「……」
「少し、ひとりでいます」
その言い方が、逆に怖かった。
「メイベル」
「……大丈夫です」
大丈夫じゃない。
そんなの、見ればわかる。
でも、今のあたしには、それを止める資格があるのか、一瞬わからなくなった。
メイベルはあたしを見ないまま、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
音は小さかったのに、やけに響いた。
◇ ◇ ◇
五秒。
十秒。
二十秒。
あたしはその場に立ち尽くしていた。
何してるんだろう、と思う。
追いかければいいじゃん。
止めればいいじゃん。
でも足が動かなかった。
今のあたしが行って、何を言う。
“ごめん”?
“本当は違う”?
いや、違わない部分もあった。
しんどいと思ったのも、重いと感じたのも、全部嘘じゃない。
だから余計に最悪だ。
扉の向こうで、かすかに足音がして。
それがだんだん遠ざかる。
そこでやっと、あたしははっとした。
「……メイベル!」
廊下に飛び出す。
でも、もう姿はなかった。
階段の方を見る。
洗面所、リビング、玄関。
どこも空。
「……っ」
嫌な汗が出る。
今のメイベルを、一人にしたらだめだ。
そんなこと、最初からわかってたはずなのに。
階下から声がした。
「依夜ちゃん?どうしたの?」
朝輝だ。
「メイベル見た!?」
「え?」
「今、部屋出て――」
「玄関なら」
「……!」
そこまで聞いて、あたしは駆け出した。
靴もろくに履かずに玄関を飛び出す。
外はもう夕方で、空気が少し冷えていた。
門の先。
少しだけ離れた道の向こうに、赤紫の髪が見える。
「メイベル!」
呼ぶ。
でも、メイベルは振り返らなかった。
そのまま歩いていく。
「待って!」
追いかける。
すぐ捕まえられる距離のはずなのに、妙に遠く感じる。
そしてやっと、その腕を掴んだ。
「……待って」
「……」
「メイベル」
「……」
振り向いた顔を見て、息が止まりそうになった。
泣いていない。
でも、泣いてない方がまずい顔だった。
「……ごめん」
反射で言う。
でも、メイベルはゆっくり首を振った。
「……依夜さん」
「……」
「ほんとうに」
「……」
「……いらないんですね」
違う。
そう言いたかった。
でも、さっき自分で言った言葉が、喉に詰まる。
“このままじゃ一緒にいるの無理かもしれない”
それを聞いた相手が、どう受け取るかなんて。
考えればわかったはずなのに。
「……違」
「違わないです」
初めてだった。
メイベルが、あたしの言葉を遮ったのは。
「……依夜さん」
「……」
「さっき」
「……」
「ちゃんと言いました」
その声は、静かで。
静かすぎて、逆に痛かった。
「……重いって」
「……」
「しんどいって」
「……」
「無理かもしれないって」
ひとつずつ、確認するみたいに言う。
「……だから」
「……」
「今日は、もう」
「……」
「追いかけないで、ください」
その言葉に、指先の力が抜けそうになる。
でも、離したらだめだとも思う。
「……ひとりに、ならないで」
「……」
「今のあんた、危ない」
「……依夜さんが」
「……」
「危なくしたんです」
それを言われる資格が、自分にあるのか。
ないのか。
そんなこと考える前に、胸の奥がぐちゃっとなった。
あたしは最低だ。
知ってる。
でも、だからって今離していい理由にはならない。
「……ごめん」
「……」
「ほんとに、ごめん」
「……」
メイベルはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「……今は」
「……」
「依夜さんのやさしい言葉、信じられません」
その一言が、今日いちばん痛かった。
当然だ。
当然すぎる。
あたしはそこで、ようやく本当に何をしたのかを理解した。
この子が一番怖がってる言葉を。
一番近い場所から、私が言ったんだ。




