表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/24

第二十三話「やっぱり私はダメなんです」


挿絵(By みてみん)


 保健室のカーテン越しに聞こえるのは、時計の針の音と、遠くの授業のざわめきだけだった。


 静かだ。


 静かすぎて、逆に落ち着かない。


 ベッドに横になっているメイベルは、さっきより呼吸が整っていた。

 でも、それだけだ。

 顔色はまだ白いし、目元も赤い。泣き止んだだけで、元気になったわけじゃない。


 あたしはベッドの横の丸椅子に座ったまま、膝の上で手を組む。

 澄鈴は少し離れた位置で腕を組み、何も言わずに様子を見ていた。


「……依夜さん」


 小さな声。


「なに」

「……授業」

「今はいい」

「でも……」

「今はいいって言ってるでしょ」


 少しだけ強く言ってしまって、メイベルがびくっとした。


 しまった、と思う。

 でも、今のこの子に“ちゃんとしなきゃ”を足したくなかった。


「……ごめん」

「い、いえ……」

「謝らなくていい」

「……はい」


 その“はい”は、いつもよりさらに小さい。


 あたしは息を吐いて、少しだけ視線を落とした。


 さっきまでのことが、頭の中で何度も繰り返される。

 廊下の人混み。

 美良の声。

 メイベルの揺れる目。

 ぶつかって、固まって、呼吸が浅くなって。


 あたしが手を伸ばした時には、もうギリギリだった。


 止めるのが遅かった。


 それが、ずっと胸の奥に引っかかっている。


「……依夜」

 と、澄鈴が静かに言った。


「なに」

「私、先生に言ってくる」

「何を」

「メイベルさん、今日は早退した方がいいって」

「……」

「このまま戻すのは無理」

「……うん」


 それが正しい。

 わかってる。


 でも、そう決めた瞬間。

 ベッドの上のメイベルが、小さく息を呑んだのがわかった。


「……め、早退……」

「うん」

「……」

「今日はそれでいいよ」

「……でも」

「でも、じゃない」

「……」


 メイベルの指先が、シーツをぎゅっと掴む。


 来るな、と思った。

 その顔はよく知っている。

 “だめだった自分”を、これから自分で裁こうとする顔だ。


「……メイベル」

「……はい」

「まだ何も言わないで」

「……」


 でも、止まらなかった。


「……やっぱり」

 と、メイベルが小さく言う。


 声が、すでに泣きそうだった。


「……わたし」

「……」

「やっぱり、ダメなんです」


 その一言が、保健室の静けさの中でやけに重く響いた。


 あたしはすぐには返せなかった。


 だって、その言葉。

 あまりにも、来ると思っていたから。


 そして来てほしくなかったから。


「……何が」

 ようやく、そう返す。


 メイベルは天井を見たまま、ぽつりぽつりと続けた。


「学校も……」

「……」

「人が多いところも……」

「……」

「姉さまの前でも……」

「……」

「依夜さんの隣でも……」


 そこで、ほんの少しだけ声が揺れた。


「……ちゃんと、できない」

 

 あたしは黙る。


 “ちゃんと”。


 この子は、そこに囚われすぎている。


「朝は、大丈夫にしたかったんです」

「……うん」

「がんばりすぎない、って言われたのに」

「……」

「ちゃんとしなきゃって、思って」

「……」

「それで、また失敗して」

「……」


 涙が、また目尻に溜まっていく。


「……依夜さんにも」

「……」

「すみれさんにも」

「……」

「迷惑かけて」

「……」

「姉さまには、やっぱりって思われて」

「……」

「北条さんにも、変なところ見られて」


 最後の方は、もうほとんど息みたいな声だった。


「……もう」

「……」

「何をしても、ダメな方に戻る気がするんです」


 そこまで聞いて、あたしはようやく理解する。


 この子、今日の失敗を今日だけで終わらせていない。

学校も、人間のふりも、あたしの隣にいることまで、全部まとめて“向いてない”にしている。

それが一番危なかった。


「……メイベルさん」

 澄鈴が、珍しく柔らかい声で言った。


 メイベルが、少しだけそちらを見る。


「“今日うまくいかなかった”と“全部ダメ”は違う」

「……」

「今のあなたは、その二つを一緒にしてる」

「……」

「それは、事実の整理としては間違ってる」


 言い方は澄鈴らしい。

 優しい慰めではない。

 でも、その真っ直ぐさは、こういう時に変に効く。


 メイベルは少しだけ目を見開いて、それから弱々しく首を振った。


「……でも」

「でも、じゃない」

 今度は澄鈴がぴしゃりと言った。


「あなたは今日、崩れた」

「……」

「それは事実」

「……はい」

「でも、崩れたから即“価値がない”にはならない」

「……」


 メイベルが、息を止めたみたいに静かになる。


「そこを飛ばすのは、ただの自己否定」

「……」

「しかも雑」

「……」


 あたし、さっきも似たようなこと言ったなと思う。

 でも、多分。

 同じことでも、違う人間から言われる意味はある。


 澄鈴は一歩近づいて、ベッドの端を見る。


「私は、あなたが面倒だと思ってる」

「すみ――」

「最後まで聞いて」


 メイベルの口が止まる。


「手がかかるし、泣くし、いちいち依夜を困らせるし」

「……」

「正直、見てて危なっかしい」

「……」


 そこまで言われて、メイベルの目にまた涙が溜まる。


 でも澄鈴は止まらなかった。


「でも」

「……」

「それと“ダメ”は別」

「……」


 メイベルが、ゆっくりと澄鈴を見る。


「面倒で、危なっかしくて、手がかかる」

「……」

「でも、今日までのあなたを見てる限り」

「……」

「だから、今日崩れたからって全部が無駄になったわけじゃない」


 保健室が静かになる。


 あたしはその沈黙の中で、少しだけ息を吐いた。

 澄鈴、強いな。

 ほんとにこういう時、変に飾らない。


「……依夜」

 と、澄鈴があたしを見る。


「なに」

「あなたも何か言ったら」

「丸投げ?」

「役割分担」


 ほんとにこういう時だけ連携が雑だ。


 でも、メイベルは今、あたしの言葉を待っている顔をしていた。


「……」


 何を言えばいい。


 大丈夫だよ?

 違う。

 そんな軽い言葉じゃない。


 ダメじゃないよ?

 それも違う。

 今のこの子には、綺麗な否定は届かない。


 少し考えて、あたしはベッドの横に手を置いた。


「……メイベル」

「……はい」

「あんたが今日、崩れたのは事実」

「……」

「無理だったのも事実」

「……」

「失敗したのも、まあ事実」


 メイベルの目が少し伏せられる。


 でも、ここで曖昧にしたくなかった。


「でも」

「……」

「だから“依夜さんの隣にいるの向いてない”は飛躍しすぎ」

「……!」


 メイベルが、はっとした顔をした。


「そ、それは……」

「あんた、そこまで一気に行ったでしょ」

「……」

「わかるよ。顔に出てた」

「……」


 図星だったらしい。

 視線がふらふらと泳ぐ。


「今のあんた、しんどいことがあると」

「……」

「すぐ“全部ダメ”に繋げる」

「……」

「しかも最終的に、あたしのそばにいる資格ない、みたいな方向に飛ぶ」

「……っ」


 メイベルの肩が揺れた。


 泣く前のやつだ。


「……違いません」

「うん」

「だって」

「うん」

「依夜さんの隣にいるなら、ちゃんとしてたいんです……」

「……」

「ちゃんとしたくて」

「……」

「でも、できなくて……」


 ぽろ、とまた涙が落ちる。


「それで、“やっぱりダメ”になるの」

「……はい」


 あたしは少しだけ黙った。

 それから、はっきり言う。


「それ、あたしが決めることじゃない?」


「……え」


 メイベルが固まる。


「あんたが私の隣にいていいかどうか」

「……」

「それ、なんであんたが一人で不合格出してるの」

「……」

「あたし、一回も“もう無理”って言ってないけど」


 メイベルが、息を止めたみたいに動かなくなる。


「……で、でも」

「でも?」

「迷惑を……」

「かけてるよ」

「……っ」

「普通にかけてる」

「……」


 そこは否定しない。

 だって事実だ。


「でも」

「……」

「迷惑かけたら即終わりって、誰が決めたの」

「……」

「少なくともあたしは決めてない」

「……」


 メイベルの目から、また涙が落ちた。

 でもさっきまでとは少し違う。

 崩れる涙じゃない。

 何かを必死に受け取ろうとしてる涙だ。


「……依夜さん」

「なに」

「わたし……」

「うん」

「迷惑、です」

「うん」

「重いです」

「うん」

「すぐ泣きます」

「知ってる」

「……」

「でも」

「……」

「それでも今、あたしが“いなくなってほしい”って思ってるように見える?」


 メイベルは、泣きながらふるふると首を振った。


「……見えません」

「なら、そこ勝手に決めないで」

「……はい」

「しんどいならしんどいで言って」

「……はい」

「壊れる前に」

「……はい」


 返事は、もうほとんど泣き声だった。


 でも、ちゃんと届いてる感じがした。


 あたしは少しだけ力を抜いて、ベッドの端に肘をついた。


「……あんたが今日ダメだったのは」

「……」

「“今のやり方”がもうきついって話であって」

「……」

「“あんたそのものがダメ”って話じゃない」

「……」


 メイベルが、ぎゅっとシーツを掴む。


「……わかる?」

「……少しだけ」

「うん、それで十分」

「……」


 そこで、保健室のカーテンが少しだけ揺れた。

 先生が戻ってきたらしい。

 澄鈴が軽く会釈して、こちらを見る。


「早退の手続き、通った」

「ありがとう」

「保護者に連絡は?」

「兄にする」

「賢明」


 澄鈴はいつもの調子で言って、それからメイベルを見た。


「今日は休む日」

「……」

「反省会じゃなくて、休息」

「……はい」

「よろしい」


 その言い方に、私は少しだけ笑いそうになった。


 メイベルも、泣いたまま少しだけ目を丸くしていた。

 多分、澄鈴のこういう雑に優しい感じ、まだ慣れないんだろう。


「……依夜」

「なに」

「あなたも今日は反省しすぎないように」

「……見抜かれてる」

「当然」


 そう言って、澄鈴は先に保健室を出ていった。


 残されたあたしは、スマホを取り出して朝輝に連絡を入れる。


 その間、メイベルは静かに天井を見ていた。


「……依夜さん」

「なに」

「わたし……」

「うん」

「また、勝手に決めてました」

「うん」

「……ごめんなさい」

「それはまあ、今はいい」


 メイベルが少しだけこちらを見る。


「……じゃあ」

「うん」

「次は、決める前に言います」

「うん」

「……“ダメかも”って思ったら」

「うん」

「依夜さんに、言います」


 あたしは少しだけ目を細めた。


「それは大事」

「……はい」

「あと」

「……?」

「“やっぱり私はダメ”は、しばらく禁止」

「えっ」

「言いそうになったら、一回止まる」

「……」

「難しそうな顔しないで」

「む、むずかしいです……」

「知ってる」

「でも……」

「うん」

「がんばります」

「うん」


 その返事は、まだ少し弱い。

 でも、さっきみたいに“全部終わり”の音じゃなかった。


 それだけで、今は十分だった。


 朝輝からすぐに返信が来る。


《迎え行く。無理させんなよ》


 短い。

 でも、こういう時は助かる。


「兄さん、来るって」

「……お兄さま」

「うん」

「……大丈夫でしょうか」

「何が」

「わたし、今、あんまりちゃんとしてないので……」


 あたしは思わず、少しだけ笑ってしまった。


「今さらだよ」

「えっ」

「もうあんたの“ちゃんとしてなさ”にはそこそこ慣れてる」

「そ、そうなんですか……?」

「多分ね」

「……」


 メイベルは少し考えて、ほんの少しだけ困ったように笑った。


 その顔を見て、あたしはようやく少しだけ肩の力を抜く。


 今日は失敗した。

 それは事実だ。


 でも、その失敗から見えたこともある。


 この子は、限界まで行くと“全部ダメ”に飛ぶ。

 だったら、その前で止めなきゃいけない。


 “頑張る”を増やすんじゃなくて。

 “壊れない”を先に作らなきゃいけない。


 あたしはベッドの横に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。


 次は、もっと早く気づく。

 もっと早く止める。


 そう、思った。

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん) 挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ