第二十三話「やっぱり私はダメなんです」
保健室のカーテン越しに聞こえるのは、時計の針の音と、遠くの授業のざわめきだけだった。
静かだ。
静かすぎて、逆に落ち着かない。
ベッドに横になっているメイベルは、さっきより呼吸が整っていた。
でも、それだけだ。
顔色はまだ白いし、目元も赤い。泣き止んだだけで、元気になったわけじゃない。
あたしはベッドの横の丸椅子に座ったまま、膝の上で手を組む。
澄鈴は少し離れた位置で腕を組み、何も言わずに様子を見ていた。
「……依夜さん」
小さな声。
「なに」
「……授業」
「今はいい」
「でも……」
「今はいいって言ってるでしょ」
少しだけ強く言ってしまって、メイベルがびくっとした。
しまった、と思う。
でも、今のこの子に“ちゃんとしなきゃ”を足したくなかった。
「……ごめん」
「い、いえ……」
「謝らなくていい」
「……はい」
その“はい”は、いつもよりさらに小さい。
あたしは息を吐いて、少しだけ視線を落とした。
さっきまでのことが、頭の中で何度も繰り返される。
廊下の人混み。
美良の声。
メイベルの揺れる目。
ぶつかって、固まって、呼吸が浅くなって。
あたしが手を伸ばした時には、もうギリギリだった。
止めるのが遅かった。
それが、ずっと胸の奥に引っかかっている。
「……依夜」
と、澄鈴が静かに言った。
「なに」
「私、先生に言ってくる」
「何を」
「メイベルさん、今日は早退した方がいいって」
「……」
「このまま戻すのは無理」
「……うん」
それが正しい。
わかってる。
でも、そう決めた瞬間。
ベッドの上のメイベルが、小さく息を呑んだのがわかった。
「……め、早退……」
「うん」
「……」
「今日はそれでいいよ」
「……でも」
「でも、じゃない」
「……」
メイベルの指先が、シーツをぎゅっと掴む。
来るな、と思った。
その顔はよく知っている。
“だめだった自分”を、これから自分で裁こうとする顔だ。
「……メイベル」
「……はい」
「まだ何も言わないで」
「……」
でも、止まらなかった。
「……やっぱり」
と、メイベルが小さく言う。
声が、すでに泣きそうだった。
「……わたし」
「……」
「やっぱり、ダメなんです」
その一言が、保健室の静けさの中でやけに重く響いた。
あたしはすぐには返せなかった。
だって、その言葉。
あまりにも、来ると思っていたから。
そして来てほしくなかったから。
「……何が」
ようやく、そう返す。
メイベルは天井を見たまま、ぽつりぽつりと続けた。
「学校も……」
「……」
「人が多いところも……」
「……」
「姉さまの前でも……」
「……」
「依夜さんの隣でも……」
そこで、ほんの少しだけ声が揺れた。
「……ちゃんと、できない」
あたしは黙る。
“ちゃんと”。
この子は、そこに囚われすぎている。
「朝は、大丈夫にしたかったんです」
「……うん」
「がんばりすぎない、って言われたのに」
「……」
「ちゃんとしなきゃって、思って」
「……」
「それで、また失敗して」
「……」
涙が、また目尻に溜まっていく。
「……依夜さんにも」
「……」
「すみれさんにも」
「……」
「迷惑かけて」
「……」
「姉さまには、やっぱりって思われて」
「……」
「北条さんにも、変なところ見られて」
最後の方は、もうほとんど息みたいな声だった。
「……もう」
「……」
「何をしても、ダメな方に戻る気がするんです」
そこまで聞いて、あたしはようやく理解する。
この子、今日の失敗を今日だけで終わらせていない。
学校も、人間のふりも、あたしの隣にいることまで、全部まとめて“向いてない”にしている。
それが一番危なかった。
「……メイベルさん」
澄鈴が、珍しく柔らかい声で言った。
メイベルが、少しだけそちらを見る。
「“今日うまくいかなかった”と“全部ダメ”は違う」
「……」
「今のあなたは、その二つを一緒にしてる」
「……」
「それは、事実の整理としては間違ってる」
言い方は澄鈴らしい。
優しい慰めではない。
でも、その真っ直ぐさは、こういう時に変に効く。
メイベルは少しだけ目を見開いて、それから弱々しく首を振った。
「……でも」
「でも、じゃない」
今度は澄鈴がぴしゃりと言った。
「あなたは今日、崩れた」
「……」
「それは事実」
「……はい」
「でも、崩れたから即“価値がない”にはならない」
「……」
メイベルが、息を止めたみたいに静かになる。
「そこを飛ばすのは、ただの自己否定」
「……」
「しかも雑」
「……」
あたし、さっきも似たようなこと言ったなと思う。
でも、多分。
同じことでも、違う人間から言われる意味はある。
澄鈴は一歩近づいて、ベッドの端を見る。
「私は、あなたが面倒だと思ってる」
「すみ――」
「最後まで聞いて」
メイベルの口が止まる。
「手がかかるし、泣くし、いちいち依夜を困らせるし」
「……」
「正直、見てて危なっかしい」
「……」
そこまで言われて、メイベルの目にまた涙が溜まる。
でも澄鈴は止まらなかった。
「でも」
「……」
「それと“ダメ”は別」
「……」
メイベルが、ゆっくりと澄鈴を見る。
「面倒で、危なっかしくて、手がかかる」
「……」
「でも、今日までのあなたを見てる限り」
「……」
「だから、今日崩れたからって全部が無駄になったわけじゃない」
保健室が静かになる。
あたしはその沈黙の中で、少しだけ息を吐いた。
澄鈴、強いな。
ほんとにこういう時、変に飾らない。
「……依夜」
と、澄鈴があたしを見る。
「なに」
「あなたも何か言ったら」
「丸投げ?」
「役割分担」
ほんとにこういう時だけ連携が雑だ。
でも、メイベルは今、あたしの言葉を待っている顔をしていた。
「……」
何を言えばいい。
大丈夫だよ?
違う。
そんな軽い言葉じゃない。
ダメじゃないよ?
それも違う。
今のこの子には、綺麗な否定は届かない。
少し考えて、あたしはベッドの横に手を置いた。
「……メイベル」
「……はい」
「あんたが今日、崩れたのは事実」
「……」
「無理だったのも事実」
「……」
「失敗したのも、まあ事実」
メイベルの目が少し伏せられる。
でも、ここで曖昧にしたくなかった。
「でも」
「……」
「だから“依夜さんの隣にいるの向いてない”は飛躍しすぎ」
「……!」
メイベルが、はっとした顔をした。
「そ、それは……」
「あんた、そこまで一気に行ったでしょ」
「……」
「わかるよ。顔に出てた」
「……」
図星だったらしい。
視線がふらふらと泳ぐ。
「今のあんた、しんどいことがあると」
「……」
「すぐ“全部ダメ”に繋げる」
「……」
「しかも最終的に、あたしのそばにいる資格ない、みたいな方向に飛ぶ」
「……っ」
メイベルの肩が揺れた。
泣く前のやつだ。
「……違いません」
「うん」
「だって」
「うん」
「依夜さんの隣にいるなら、ちゃんとしてたいんです……」
「……」
「ちゃんとしたくて」
「……」
「でも、できなくて……」
ぽろ、とまた涙が落ちる。
「それで、“やっぱりダメ”になるの」
「……はい」
あたしは少しだけ黙った。
それから、はっきり言う。
「それ、あたしが決めることじゃない?」
「……え」
メイベルが固まる。
「あんたが私の隣にいていいかどうか」
「……」
「それ、なんであんたが一人で不合格出してるの」
「……」
「あたし、一回も“もう無理”って言ってないけど」
メイベルが、息を止めたみたいに動かなくなる。
「……で、でも」
「でも?」
「迷惑を……」
「かけてるよ」
「……っ」
「普通にかけてる」
「……」
そこは否定しない。
だって事実だ。
「でも」
「……」
「迷惑かけたら即終わりって、誰が決めたの」
「……」
「少なくともあたしは決めてない」
「……」
メイベルの目から、また涙が落ちた。
でもさっきまでとは少し違う。
崩れる涙じゃない。
何かを必死に受け取ろうとしてる涙だ。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし……」
「うん」
「迷惑、です」
「うん」
「重いです」
「うん」
「すぐ泣きます」
「知ってる」
「……」
「でも」
「……」
「それでも今、あたしが“いなくなってほしい”って思ってるように見える?」
メイベルは、泣きながらふるふると首を振った。
「……見えません」
「なら、そこ勝手に決めないで」
「……はい」
「しんどいならしんどいで言って」
「……はい」
「壊れる前に」
「……はい」
返事は、もうほとんど泣き声だった。
でも、ちゃんと届いてる感じがした。
あたしは少しだけ力を抜いて、ベッドの端に肘をついた。
「……あんたが今日ダメだったのは」
「……」
「“今のやり方”がもうきついって話であって」
「……」
「“あんたそのものがダメ”って話じゃない」
「……」
メイベルが、ぎゅっとシーツを掴む。
「……わかる?」
「……少しだけ」
「うん、それで十分」
「……」
そこで、保健室のカーテンが少しだけ揺れた。
先生が戻ってきたらしい。
澄鈴が軽く会釈して、こちらを見る。
「早退の手続き、通った」
「ありがとう」
「保護者に連絡は?」
「兄にする」
「賢明」
澄鈴はいつもの調子で言って、それからメイベルを見た。
「今日は休む日」
「……」
「反省会じゃなくて、休息」
「……はい」
「よろしい」
その言い方に、私は少しだけ笑いそうになった。
メイベルも、泣いたまま少しだけ目を丸くしていた。
多分、澄鈴のこういう雑に優しい感じ、まだ慣れないんだろう。
「……依夜」
「なに」
「あなたも今日は反省しすぎないように」
「……見抜かれてる」
「当然」
そう言って、澄鈴は先に保健室を出ていった。
残されたあたしは、スマホを取り出して朝輝に連絡を入れる。
その間、メイベルは静かに天井を見ていた。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし……」
「うん」
「また、勝手に決めてました」
「うん」
「……ごめんなさい」
「それはまあ、今はいい」
メイベルが少しだけこちらを見る。
「……じゃあ」
「うん」
「次は、決める前に言います」
「うん」
「……“ダメかも”って思ったら」
「うん」
「依夜さんに、言います」
あたしは少しだけ目を細めた。
「それは大事」
「……はい」
「あと」
「……?」
「“やっぱり私はダメ”は、しばらく禁止」
「えっ」
「言いそうになったら、一回止まる」
「……」
「難しそうな顔しないで」
「む、むずかしいです……」
「知ってる」
「でも……」
「うん」
「がんばります」
「うん」
その返事は、まだ少し弱い。
でも、さっきみたいに“全部終わり”の音じゃなかった。
それだけで、今は十分だった。
朝輝からすぐに返信が来る。
《迎え行く。無理させんなよ》
短い。
でも、こういう時は助かる。
「兄さん、来るって」
「……お兄さま」
「うん」
「……大丈夫でしょうか」
「何が」
「わたし、今、あんまりちゃんとしてないので……」
あたしは思わず、少しだけ笑ってしまった。
「今さらだよ」
「えっ」
「もうあんたの“ちゃんとしてなさ”にはそこそこ慣れてる」
「そ、そうなんですか……?」
「多分ね」
「……」
メイベルは少し考えて、ほんの少しだけ困ったように笑った。
その顔を見て、あたしはようやく少しだけ肩の力を抜く。
今日は失敗した。
それは事実だ。
でも、その失敗から見えたこともある。
この子は、限界まで行くと“全部ダメ”に飛ぶ。
だったら、その前で止めなきゃいけない。
“頑張る”を増やすんじゃなくて。
“壊れない”を先に作らなきゃいけない。
あたしはベッドの横に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。
次は、もっと早く気づく。
もっと早く止める。
そう、思った。




