第二十二話「失敗」
朝から、嫌な感じがしていた。
何がどう、とは言えない。
ただ、空気がずっと薄いみたいな、そんな感じだ。
隣を歩くメイベルも静かだった。
昨日、廊下のベンチで少し落ち着いたとはいえ、完全に元通りなわけじゃない。
顔色は昨日よりはいい。歩けてもいる。
でも、緊張が抜けていないのは見ればわかる。
「……大丈夫?」
登校中、何度目かわからない問いを投げる。
「は、はい……」
「その“はい”信用度低いんだよね」
「うぅ……」
「でも歩けてるならまだマシか」
「……がんばります」
「今日は“がんばりすぎない”の方で」
そう言うと、メイベルは少しだけ考えてから、小さく頷いた。
「……はい」
返事の勢いがない。
でも、無理に元気そうにされるよりはましだった。
校門が見える。
その瞬間、メイベルの肩がほんの少しだけ強張ったのがわかった。
「……まだ怖い?」
「……少しだけ」
「そっか」
「でも、昨日よりは……」
「うん」
「……だいじょうぶに、したいです」
その言い方が、ちょっとだけ危ういと思った。
大丈夫でいたい。
頑張りたい。
ちゃんとしたい。
メイベルは、弱ってる時ほどそういう方向に無理をする。
それがわかってるから、私は小さく息を吐いた。
「……“したい”のはいいけど」
「はい」
「無理だと思ったら、ちゃんと言って」
「……」
「黙って崩れるのが一番困る」
「……はい」
その返事は、少しだけ重かった。
⸻
教室に入ると、今日は珍しく美良がもう来ていた。
席に座って、頬杖をついて、窓の外を見ている。
それだけで絵になるのが腹立つ。
そして、あたしたちが入ってきた気配に気づくと、ゆっくり視線を向けてきた。
「おはよう」
いつも通りの、きれいな声。
「……おはよう」
「お、おはようございます……」
メイベルの声が少しだけ上ずる。
美良はそれに気づいているくせに、何も言わずにふっと笑っただけだった。
それが逆に嫌だった。
「依夜」
「なに」
「今日も顔が険しい」
「朝から楽しい材料がないので」
「後ろ、見ない方がいいよ」
「見てるの君じゃん」
「観察は大事」
澄鈴が真顔で言う。
いつも通りだ。
いつも通りのはずなのに、あたしの中ではずっと警報が鳴っている。
何かが起きそうだ。
しかも、あまりよくない形で。
⸻
一時間目、二時間目は、表面上は何も起きなかった。
美良は静かだった。
静かに授業を受けて、静かに答えて、静かに笑う。
昨日までみたいに直接メイベルへ何か言うこともない。
でも、メイベルは明らかに消耗していた。
何もされないことに、逆に怯えてる感じだ。
先生が問題を出すたびに肩が揺れる。
後ろからノートをめくる音がしただけで、びくっとする。
シャーペンを持つ手も少し強張っていて、文字が普段よりさらに丸くて弱い。
「……メイベル」
小声で呼ぶ。
「は、はい」
「肩、力入りすぎ」
「……っ」
「少し抜いて」
「……はい」
言われた通りに力を抜こうとして、でも、うまく抜けない。
そのぎこちなさが見ていてしんどい。
あたしは前を向きながら、自分の机の端を軽く指で叩いた。
一定のリズムで、二回、少し間を空けて、もう一回。
意味はない。
ただのリズムだ。
でもメイベルは、それをちらっと見て、ほんの少しだけ呼吸を整えた。
ああ、こういうのももう、癖になってるんだなと思う。
あたしが大丈夫って言う代わりの、小さい合図。
それが効いてしまうくらいには、この子はもう私に寄ってきている。
……重い。
けど、今はそれでいいとも思う。
⸻
三時間目は移動教室だった。
理科室。
教室から少し離れた、渡り廊下の先。
その移動の時点で、あたしはちょっと嫌な予感がしていた。
こういう普段と違う動線になる時って、メイベルみたいな子は一気に不安定になる。
「メイベル」
「は、はい」
「あたしの後ろ歩いて」
「……はい」
素直に頷く。
でもその声は緊張で少し細い。
廊下にクラスの人が流れ出す。
ざわざわした声、足音、誰かが笑う声。
その中でメイベルは、ちゃんとあたしの後ろについてきていた。
途中までは。
「依夜さん」
後ろから小さな声。
「なに」
「……」
返事がない。
振り返る。
メイベルが少し立ち止まっていた。
「どうした」
「……人、近いです」
「……ああ」
廊下が少し狭くなっている。
前のクラスと動線が重なって、人が詰まり気味だ。
「大丈夫、抜けたら広くなる」
「……はい」
そう言って、また歩き出す。
でも、少しだけ足取りが危うい。
その時。
「メイベル、こっち」
後ろから、美良の声。
心臓が嫌な跳ね方をした。
振り返ると、美良が人波の向こうから手を伸ばしていた。
笑っている。
でも、その笑顔が今はやけに遠く見える。
「人に酔うなら、無理しちゃだめよ」
「……」
「前だけ見てると、余計苦しくなるわ」
その言い方は、表面だけ聞けば優しい。
でも今のメイベルには、選択肢が増えること自体が負荷だ。
「美良、今――」
「依夜さん……」
遮ったのはメイベルだった。
顔が白い。
呼吸が浅い。
でも、その目は、あたしと美良の間で揺れている。
まずい。
どっちに従えばいいかわからなくなってる。
「メイベル、あたしの方来て」
「っ……」
あたしは即座に手を伸ばした。
でも、その瞬間。
後ろから別の生徒が流れ込んできて、人波が少し崩れる。
誰かの肩がメイベルにぶつかった。
「きゃっ」
軽い悲鳴。
メイベルの体がよろける。
そのまま廊下の端に置かれていた掃除用具入れに背中をぶつけた。
がたん、と大きな音。
廊下の空気が一瞬止まる。
「メイベル!」
駆け寄る。
でも、メイベルはぶつかった衝撃より、その“注目が集まったこと”の方にやられていた。
「……っ、あ」
「大丈夫?」
「……あ、あ……」
目の焦点が合っていない。
まずい、これ。
パニックの入り口だ。
「メイベル、こっち見て」
「……」
「メイベル」
「ご、ごめんなさい……!」
大きい声だった。
廊下がざわつく。
「え、どうしたの」
「転校生?」
「大丈夫?」
人が見る。
声が飛ぶ。
それがさらにメイベルを追い詰める。
「ちょっとどいて」
と、澄鈴の声。
いつの間にか来ていたらしい。
さっと人の視線を遮る位置に立ってくれる。
「見世物じゃないから」
「え、あ……」
「先に行って」
澄鈴の低い声は、こういう時に妙に効く。
何人かの生徒が気まずそうに散っていく。
でも、メイベルの呼吸は戻らない。
「……っ、む、むり……」
「大丈夫、深呼吸」
「……でき、な……」
「できなくてもいい、吐いて」
「……っ」
あたしが声をかけても、うまく届いていない。
目が泳いで、肩が震えて、もう完全に“いっぱいいっぱい”を超えてる。
その時。
「そこまで」
美良が来た。
あたしは反射で顔を上げる。
「今来る?」
「今だからよ」
そう言って、美良はメイベルの前にしゃがみ込んだ。
あたしは止めようとして、一瞬だけ迷う。
美良のやり方は嫌いだ。
でも、今は一刻を争う。
「メイベル」
美良の声は低く、静かだった。
「こっち見なさい」
ぴたり、と。
メイベルの視線が止まる。
「吸って」
「……っ」
「吐いて」
「……っ」
美良は淡々と、それだけを言う。
「呼吸を合わせなさい」
「……」
「できるでしょ」
「……っ」
数秒後。
メイベルの息が、少しだけ戻った。
あたしその様子を見ながら、胸の中がひどく複雑だった。
助かった。
でも、手放しで感謝したくない。
でも今助かったのは事実で、だから余計に気持ち悪い。
「……落ち着いた?」
とあたしが聞く。
メイベルは小さく頷いた。
でも、その目の端にはもう涙が溜まっている。
「保健室行こう」
「……はい」
あたしが手を貸すと、メイベルは素直にその手を取った。
手が冷たい。
立ち上がる時、美良が静かに言った。
「無理させすぎ」
その一言で、頭に血が上った。
「……は?」
「あなた」
「今それ言う?」
「今だから言うのよ」
「君が揺さぶったんでしょ」
「それだけで壊れるなら、どっちにしろ限界だった」
言い返したい。
でも、言い返せない部分があるのが最悪だった。
確かに、今日のメイベルはもう朝からかなり危なかった。
美良だけが原因じゃない。
あたしが“大丈夫そうだから”と学校に連れてきたのも事実だ。
その間に、メイベルが小さく言った。
「……やめて」
あたしと美良、両方が黙る。
メイベルは、泣きそうな顔のまま、それでも言った。
「今、けんか……やめてください……」
声は弱い。
でも、はっきりしていた。
あたしは奥歯を噛んで、視線を逸らした。
「……行くよ」
「……はい」
メイベルを支えながら歩き出す。
澄鈴も無言でついてくる。
その背中に、美良の視線が刺さっていた。
でも、振り返らなかった。
⸻
保健室でベッドを借りると、メイベルは横になった途端に、糸が切れたみたいに静かになった。
眠ったわけじゃない。
でも、もう喋る力も少ないんだろう。
カーテン越しに、あたしは椅子に座ったまま息を吐く。
「……このままじゃだめだね」
と、澄鈴が言った。
「うん」
「見ててわかるくらい限界近い」
「……うん」
認めたくないけど、その通りだ。
学校に来るだけで削られる。
美良がいるだけで揺れる。
そこに由斗の存在や周りの視線があれば、壊れかけるのは当然かもしれない。
あたしは膝の上で手を握る。
「……私、失敗したかも」
「何が」
「大丈夫じゃないのに、大丈夫な方に引っ張ろうとした」
「……」
澄鈴は少しだけ黙った。
「失敗はしたかも」
「容赦ないね」
「でも、全部間違いでもない」
「……」
「学校に来たから見えたこともある」
「……」
「メイベルさんが、何で崩れるのか」
「うん」
「どこが限界なのか」
「……うん」
正しい。
正しいけど、気休めにはならない。
だって、今ここでメイベルは実際に崩れたんだから。
「……依夜さん」
カーテンの向こうから、小さな声。
私は立ち上がって、そっと中を覗く。
「起きてた?」
「……はい」
「しんどい?」
「……はい」
「そっか」
メイベルは目元を少し赤くしたまま、私を見た。
「……ごめんなさい」
「謝らない」
「でも……」
「謝らなくていい」
「……」
メイベルはしばらく黙って、それから、かすれた声で言った。
「……失敗、しました」
「……」
「ちゃんとしようとしたのに」
「……」
「できませんでした」
その言葉に、胸が痛くなる。
あたしはベッドの横に座って、少しだけ考えてから言った。
「……うん、失敗はした」
「……」
「でも」
「……」
「君だけの失敗じゃない」
メイベルが、ゆっくり瞬きをする。
「あたしも失敗した」
「……え」
「大丈夫じゃないのに、行けるかもって思った」
「……」
「ごめん」
言いながら、自分でも少し驚いた。
でも、これは言わないとだめだと思った。
メイベルはしばらくあたしを見て、それから、ほんの少しだけ首を振った。
「……依夜さんだけじゃ、ないです」
「……」
「わたしも、だいじょうぶって言いました」
「……うん」
「だから……」
「……」
「次は、もう少し早く言います」
その“次は”が、少しだけ救いだった。
壊れかけたまま全部を投げるんじゃなくて。
次を考えられるなら、まだ間に合う。
「……うん」
「……」
「じゃあ次は」
「……はい」
「あたしも、もっと早く止める」
メイベルが小さく頷く。
その顔はまだ弱っているけど、完全に折れた顔ではなかった。
だからこそ、余計にはっきり思う。
このままじゃ壊れる。
でも、壊れる前にできることは、まだある。
守るだけじゃなくて、抱え込まない形を作らないといけない。
もう、あたし一人の問題じゃない。




