第二十一話「このままじゃ壊れる」
「一人で守れる範囲、狭いから」
北条由斗がそう言った時、あたしはすぐに返事ができなかった。
正しいんだと思う。
たぶん、すごく。
でも、正しいことって大体、気持ちよく受け入れられる形では来ない。
「……考える」
そう返すのが精一杯だった。
由斗はそれ以上何も言わなかった。
眠そうな顔のまま、小さく頷くだけ。
「じゃ、今日は、これで」
「え、帰るの」
「うん、長居すると、怒られそう」
「誰に」
「いろいろ」
そこでふわっと笑うの、ずるいなと思う。
兄とは違う方向で、この人も話を濁すのがうまい。
由斗は立ち上がって、ポケットに手を入れたままあたし達を見る。
「メイベルちゃん」
「は、はい……」
「母さんの名前、知ってるなら、多分、そのうち、会うよ」
「……!」
「怖がらなくて、いい」
「……はい」
由斗はそれだけ言って、気だるげに手を振った。
「依夜ちゃんも」
「何」
「無理すると、顔に出る」
「……」
「今、だいぶ出てる」
「あんたも兄の友達だなって感じ」
「よく、言われる」
全然うれしくなさそうな顔をしながら、由斗はそのまま校舎の方へ戻っていった。
残された私は、隣のメイベルを見る。
メイベルも、困ったみたいに私を見ていた。
「……どうするんですか」
「何が」
「北条さんのこと……」
「……」
「信じても、いいんでしょうか……」
難しい質問だなと思う。
だってあたしも、まだ由斗を信用しきれてるわけじゃない。
でも、あの場でメイベルの正体を暴くでもなく、追い詰めるでもなく、ただ“知ってるよ”とだけ言って引いたのは事実だ。
「……全部はまだ無理」
「……はい」
「でも、敵ではなさそう」
「……」
「今はそれでいいんじゃない」
メイベルは少しだけ考えて、それから、こくりと頷いた。
「……はい」
その返事が、いつもより少し重い。
多分、由斗が出てきたことで、メイベルの中でも“隠し続けるのが難しくなってきた”感覚が強くなったんだろう。
それはあたしも同じだった。
◇ ◇ ◇
教室に戻る途中、メイベルはずっと静かだった。
廊下を歩く足音が、いつもより小さい。
あたしの半歩後ろをついてきてはいるけど、その距離感にも迷いがある。
「……メイベル」
「は、はい」
「近く来れば?」
「……え」
「さっきから微妙に遠い」
「そ、それは……」
「なに」
「依夜さん、考えごとしてるみたいだったので……」
「……」
そういうとこなんだよな、と思う。
この子、普段は依存気味で重いくせに、こういう時だけ妙に遠慮する。
多分、空気を読めないんじゃなくて、“嫌われるかも”の方向に読みすぎるんだ。
「来ていいよ」
「……!」
「ぶつからない程度に」
「は、はい……!」
その一言だけで、メイベルが少しだけ寄ってくる。
ほんとに少しだけ。
でも、その慎重さが今は逆に心配だった。
教室の前まで戻ると、ちょうどチャイムが鳴った。
次の授業が始まる。
ドアを開けた瞬間。
「……」
背中が、ぞくっとした。
美良が、こっちを見ていた。
席についたまま。
頬杖をついて。
何も言わずに、ただ見ていた。
その視線が、まず由斗を追っていて、それからあたしとメイベルに戻る。
――まずい。
何がまずいのかはうまく言えない。
でも、美良が今の“何か”を察したのはわかった。
「依夜さん……」
小さく、メイベル。
「うん」
「姉さま……」
「見ないでいい」
「……はい」
メイベルは俯いて席についた。
でも、その肩がもうだいぶ固い。
このままじゃ、ほんとにまずい。
◇ ◇ ◇
授業中、美良は何もしなかった。
何もしないくせに、いるだけで空気が悪い。
いや、悪いというか、メイベルの呼吸を浅くする。
先生の声が響くたびに、メイベルはびくっとする。
ノートを取ろうとしても手が止まる。
あたしがちらっと見ると、無理に“平気です”みたいな顔を作ろうとする。
それが一番よくない。
「……」
あたしは何度目かのため息を飲み込んだ。
助けたい。
でも、授業中にできることなんて限られてる。
せいぜいシャーペン貸すとか、小声で大丈夫って言うとか、そのくらいだ。
根本が解決してない。
このまま、美良が少しずつ揺さぶっていって。
メイベルがそのたびに“向いてない”“できない”“だめだ”に戻っていく。
それを想像しただけで、胃が重くなった。
――このままじゃ壊れる。
その感覚だけが、授業のあいだずっと頭から離れなかった。
◇ ◇ ◇
放課後。
珍しく、美良の方からは何も言ってこなかった。
でも、その静けさが逆に不気味だった。
「……帰ろう」
とあたしが言うと、
「は、はい……」
とメイベルは小さく頷いた。
でも立ち上がる動きが、明らかに鈍い。
疲れてる。
というか、多分、精神的にかなり削られてる。
鞄を持って教室を出る。
廊下に出て少し歩いたところで、あたしは足を止めた。
「メイベル」
「は、はい」
「無理してる?」
「……」
返事がない。
それだけで答えはわかる。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るの」
「だ、だって……」
「無理してること?」
「……はい」
「それは謝ることじゃない」
メイベルの顔を見る。
もう、今にも泣きそうだった。
「……座る?」
「え」
「とりあえず、あっち」
廊下の端、使われていないベンチが見える。
そこまで連れていくと、メイベルは座った瞬間、糸が切れたみたいに肩を落とした。
「……」
「……」
数秒。
それだけで、メイベルの目に涙が溜まっていく。
「泣いていいよ」
と言った瞬間。
「……っ」
ぼろ、と落ちた。
「……ご、ごめんなさい……」
「だから謝らなくていいって」
「で、でも……」
「うん」
「ちゃんと、したかったのに……」
その言葉がきつかった。
「今日、わたし……」
「うん」
「ぜんぜん、できなくて……」
「そんなこと」
「あります……!」
珍しく、少しだけ強く返ってきた。
「朝、ちょっとだけ頑張れたのに……」
「……」
「北条さんが来て」
「……」
「姉さまも見てて」
「……」
「何も考えられなくなって……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
ああ、そうか。
今日は“何か大きなこと”があったわけじゃない。
でも、小さい揺さぶりが多すぎたんだ。
由斗の存在。
美良の視線。
姉と、母の知り合いと、人間側の世界と魔の側の世界が、一気に同じ場所に入ってきた。
メイベルには、それだけで十分オーバーフローだったんだろう。
「……メイベル」
「はい……」
「今日、あんたがだめだったんじゃなくて」
「……」
「今日の状況が、だいぶ無茶だっただけ」
「……でも」
「あんた、いま処理能力オーバーしてる」
「しょり……」
「いっぱいいっぱいってこと」
「……」
メイベルは泣きながら、少しだけ息を整えようとした。
でも、整わない。
呼吸が浅い。
あたしはとっさに、その背中を軽くさすった。
「……ゆっくり」
「……っ」
「吸って」
「……はい」
「吐いて」
何度か繰り返す。
最初はうまくいかなかったけど、三回目くらいで、ようやく少しだけマシになった。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし……」
「うん」
「ほんとに、だめかもしれないです……」
その言い方が、ひどく弱かった。
「学校も」
「……」
「姉さまのことも」
「……」
「人間のふりも」
「……」
「依夜さんのそばにいるのも、向いてないのかも……」
そこで、頭に血が上った。
「それは違う」
「……!」
「今の全部まとめて“向いてない”にするの、雑すぎる」
「で、でも……」
「でもじゃない」
「……」
メイベルがびくっとする。
強く言いすぎたかと思ったけど、止められなかった。
「あんた、疲れるとすぐ全部まとめるよね」
「……」
「今日うまくいかなかったことと」
「……」
「ずっと向いてないことは、同じじゃない」
「……」
私は少し息を吐いて、声を落とした。
「今のあんた、疲れてるだけ」
「……」
「それを人生の結論みたいに言わないで」
「……はい」
小さい返事。
でも、その返事のあとで、メイベルの涙がまた増えた。
「な、なんで今増えるの」
「だ、だって……」
「うん」
「依夜さん、怒ってくれるので……」
「そこ喜ぶところじゃない」
「でも……」
「……」
「一人だったら、わたし、さっきのまま、ずっと“だめ”って考えてました……」
その一言で、また胸が痛くなる。
やっぱり。
この子、一人で落ちる時は本当に底まで行くんだ。
「……じゃあ、なおさら一人にできないじゃん」
「……!」
「困る」
「……困る、ですか」
「困るよ」
「……」
「あんたが勝手に全部ダメ認定して壊れるの」
メイベルが、泣いたまま目を見開く。
それから、少しだけ信じられないみたいな顔をした。
「……依夜さん」
「なに」
「それって……」
「うん」
「心配、してくれてるんですか……?」
「今さら?」
「……」
その問いに、自分で少し笑ってしまう。
「してるでしょ、どう見ても」
「……!」
メイベルの顔が、泣いてるのに少しだけ明るくなる。
忙しいな、本当に。
「……でも」
あたしは続けた。
「多分、あたしだけじゃ足りない」
「……え」
「今日それ、よくわかった」
「……」
「あんたが壊れかけるたびに、私一人で全部受け止めるの、限界ある」
「……ご、ごめん」
「謝るなってば」
言ってから、少しだけ考える。
由斗の言葉。
一人で守れる範囲は狭い。
悔しいけど、たぶんその通りだ。
「……ねえ、メイベル」
「は、はい」
「由斗のこと」
「……」
「少しだけ頼るの、ありだと思う?」
「……」
メイベルは涙を拭って、少し考えた。
「……北条さんは」
「うん」
「怖く、なかったです」
「……」
「びっくりはしましたけど」
「うん」
「姉さまとは、違いました」
「そっか」
なら、やっぱり。
「……今すぐ全部じゃなくていい」
「……はい」
「でも、私だけで抱えるのは、たぶん違う」
「それであんたが壊れたら、意味ないし」
メイベルはしばらく黙って、それから小さく頷いた。
「……依夜さんが、そう思うなら」
「うん」
「わたしも……考えます」
「うん」
それでいい。
今はそれで十分だ。
少し落ち着いたメイベルを見ながら、私はベンチに背を預けた。
夕方の廊下は静かで、遠くから部活の声だけが聞こえる。
このままじゃ壊れる。
それはもう、かなりはっきりわかった。
だから次は、“守る”だけじゃ足りない。
支えを増やさないといけない。
そこまで考えて、あたしは小さく息を吐く。
……面倒だなあ、ほんと。
でも、それでも。
「帰れる?」
「……はい」
「ほんとに?」
「……依夜さんが、隣なら」
「重い」
「うぅ……」
「でもまあ、今日はそれでいい」
そう言って立ち上がると、メイベルも少し遅れて立ち上がった。
まだ完全じゃない。
でも、さっきよりは顔色がマシだ。
あたしはそのことに少しだけ安心しながら、改めて思う。
このままじゃ壊れる。
だから、次は。
もう少しちゃんと、手を打たないとだめだ。




