第二十話「眠そうな人は、大体こっちが知らないことを知っている」
「できない方ですけど、前よりはちょっとだけ違うかもしれません」
帰り道でそう言ったメイベルの顔が、夜になってもなんとなく頭に残っていた。
別に、大げさな出来事じゃない。
でも、あの子が自分でそう思えたのは、結構大きい。
できないままでも、少しずつ前に進める。
その感覚を、一回でも自分のものにできたなら、多分もう前と同じではいられない。
「……」
ベッドの上で寝転がりながら、あたしは天井を見る。
美良のことは、相変わらず腹が立つ。
あの“刺し方のうまさ”は本当に嫌いだ。
でも、それ以上に気になるのは。
「……あの人、なんであんなに慣れてるんだろ」
自分の弱さを知っていて、相手の弱さも見抜いて、そこをどう揺らせば効くかまで知ってる。
あれは、ただ性格が悪いだけじゃない。
ずっとそういう距離感で人と関わってきた人のやり方だ。
その時。
コンコン、とドアが鳴った。
「依夜ちゃん―、起きてる?」
朝輝の声。
「……起きてる」
「入っていい?」
「どうぞ」
ドアが開く。
あたしの兄は、相変わらず気軽な顔で部屋に入ってきた。
でも前みたいな“全部見えてます”みたいな軽さは、今日は少し控えめだった。
「昨日ぶり」
「そうだね」
「機嫌悪くなさそうでよかったなって」
「それ言われるとまた悪くなるかも」
「ごめんごめん」
軽く手を上げて降参する。
その反応が、ちょっとだけずるい。
あたしは起き上がって、ベッドの端に座った。
「……この前は、ごめん」
「うん」
「普通に八つ当たりした」
「うん」
「そこは否定してくれてもいいのに」
「でも本当だったし」
「……」
そういうところ。
そういうところが、ほんとにやりづらい。
でも今日は、前みたいに腹が立つだけではなかった。
「依夜ちゃん」
「なに」
「その子――メイベルちゃんだっけ」
「うん」
「だいぶ依夜ちゃんに懐いてるよね」
「……まあ」
「うん」
朝輝は少しだけ考えるような顔をした。
「この前さ」
「うん」
「僕見て、隠れたじゃん」
「……ああ」
「普通の人見知りだけじゃない気がした」
どきっとする。
「……何が言いたいの」
「いや、単純に」
「……」
「“人間じゃない側の事情”とかありそうだなって」
あたしは一瞬、呼吸を止めた。
「……」
「図星?」
「……何を根拠に」
「勘」
「最悪」
「褒めてる?」
「全然」
でも、正直に言うと驚いた。
朝輝がそういう方向に感づくのは、まあわかる。
こいつ、変なところだけ鋭いから。
でも、“人間じゃない側の事情”っていう言い方まで来るとは思わなかった。
「……」
あたしが黙っていると、朝輝は少し笑って、壁にもたれた。
「別に、無理に聞き出す気はないよ」
「……」
「ただ、あの子が人見知りっていうより、“知ってる何かに怯えてる”感じだったから」
「……そういうの、わかるんだ」
「わかるよ。人の怯え方って、結構種類あるし」
「それ趣味で言うことじゃない」
「人間観察は趣味です」
堂々と言うな。
でも、たしかにそうかもしれない。
メイベルはいつも怖がってるけど、美良に対する怖がり方は明らかに違う。
“何をされるかわからない”じゃなくて、“何をされるか知っている”怯え方だ。
「……」
私は少しだけ考えて、それから口を開いた。
「……兄さんって」
「うん」
「人間と、人間じゃないのって、見分けつく?」
「何その質問」
「勘で」
「勘かあ」
朝輝は顎に手を当てる。
真面目に考えてる顔なのに、どこか楽しそうなのが腹立つ。
「完全には無理じゃない?」
「そう」
「でも、“普通じゃない何かを隠してる人”はわかるかも」
「……」
「メイベルちゃんはそっち」
「……そっか」
言ったあとで、ちょっとだけ後悔する。
今の返し、肯定みたいなものだ。
でも朝輝は、それ以上そこを掘らなかった。
「依夜ちゃん」
「なに」
「一人で抱え込みすぎないでね」
「……」
「そういうの、依夜ちゃんわりとやるから」
「……自覚はある」
「えらい」
「それ、褒めてないよね」
「半分くらいは」
朝輝が部屋を出ていったあと、あたしはしばらく黙っていた。
兄は、やっぱり苦手だ。
でも、全部が全部嫌ってわけでもない。
面倒くさいな、と思う。
家族も、自分も。
◇ ◇ ◇
翌日。
午前中は比較的平和だった。
美良は相変わらず目立っていたし、メイベルは相変わらずその影響を受けていたけど、昨日みたいな直接的な接触はなかった。
だから少しだけ、油断していた。
昼休み。
購買に行った帰りの廊下で、あたしは思いきり誰かにぶつかった。
「っと」
「きゃ」
紙パックのジュースが落ちそうになるのを、反射で掴む。
ぶつかった相手も、ふらっと一歩よろけて、それでも倒れなかった。
「……ごめん」
「いや、こっちも前見てなかったし」
見上げる。
高い。
まずそこだった。
そして、眠そう。
肩につくくらいの少し長めの髪に、ぼんやりした目。
背が高いせいで余計に浮世離れして見える。
制服じゃない。大学生っぽい服装。
なのに、なぜかこの校舎内にいる。
「……誰」
「ひどい。初対面の第一声、それ」
眠そうな顔のまま、その人は少しだけ笑った。
「北条由斗」
「……」
「東朝輝の、友達」
「……ああ」
聞いたことはある。
兄がたまに話題に出す、眠たげで高身長な友人。
まさか実物とこんなところで遭遇するとは思わなかった。
「なんで学校にいるの」
「朝輝に、用事」
「兄は大学でしょ」
「忘れ物、届けに」
「大学生って高校にそんな気軽に入ってこれるんだ」
「先生に、通してもらった」
「へえ」
胡散臭い。
でも、まあ、兄の知り合いなら顔パスっぽいことがあってもおかしくないのか。
「で」
「何」
「東依夜、ちゃん、だよね」
「うん」
「朝輝から、聞いてる」
「ろくなこと聞いてなさそう」
「妹、大好き、だなあって」
「最悪」
由斗は小さく笑った。
眠そうなのに、そのへんの反応は妙に速い。
「で」
「……さっきから何」
「君の、後ろ」
「え?」
振り返る。
少し離れたところに、メイベルがいた。
多分、私を追いかけてきたんだろう。
でも――
「……」
止まってる。
しかも顔色が悪い。
「メイベル?」
「……」
「おーい」
「……っ」
呼んだ瞬間、メイベルがはっとしたみたいに目を見開く。
でも、その視線は私じゃない。
由斗を見ていた。
「……」
「……」
空気が、少しだけ変わる。
由斗が、眠そうな目を少しだけ細めた。
そして、ぽつりと言う。
「……へえ」
その“へえ”が、兄の時とは違う意味に聞こえて、私は無意識に眉を寄せた。
「……何」
「いや」
「何」
「ほんとに、いるんだな、って」
心臓が跳ねる。
「……何の話」
「君が思ってる、話で、合ってる」
「……」
やばい。
この人、わかってる。
しかも、兄よりもっとはっきり。
メイベルはもう完全に固まっていた。
今にも泣きそうな顔。
でも逃げてはいない。
逃げられないんだろう。
「……北条さん」
と、メイベルが、かすれた声で言った。
「え」
あたしはそっちを見た。
メイベルが、震えながら由斗を見ている。
「……知ってるの?」
「え、何が」
「君のこと、じゃない?」
「……」
由斗が、少しだけ首をかしげる。
「母さんの、知り合いに、似てる」
「母親?」
「うん」
それだけで、あたしはだいたい察した。
兄より踏み込んでる。
この人は“勘”じゃなくて、何か具体的に知ってる側だ。
「……ちょっと」
「うん?」
「場所変えない?」
「そう、だね」
由斗は相変わらず眠そうな顔のまま、あっさり頷いた。
◇ ◇ ◇
校舎裏の、人がほとんど来ないベンチ。
あたしはメイベルを隣に座らせて、その前に立つ。
由斗はベンチの反対側に腰掛けた。
「……で」
「うん」
「何を知ってるの」
「いろいろ」
「雑」
由斗はちょっとだけ笑った。
「君、警戒心、強いね」
「当たり前でしょ」
「うん、正解」
「……」
「その子、普通の人間じゃない、わかる」
「……」
「あと、多分、君はそっち側、じゃない」
「……」
メイベルが小さく息を呑む。
「じゃあ、北条さんは……」
と、メイベル。
由斗は少しだけ空を見て、それから眠そうな声のまま言った。
「半分、かな」
「……は?」
思わず素で返した。
由斗は肩をすくめる。
「母親が、サキュバス」
「……」
「父親が、人間」
「……」
メイベルの目が、見開かれる。
「……ハーフってこと?」
「そう」
「……」
「そういうの、信じる顔、じゃないよね」
「いや、今さらそこを疑う段階は過ぎた」
というか、ここまで来てまだ「全部勘違いでした」は無理がある。
由斗は私を見て、それからメイベルを見た。
「安心、していい」
「……」
「バラす、趣味は、ない」
「それを信用しろって?」
「今は、それしか、ない」
……正論っぽく聞こえるのが腹立つ。
でも実際そうだ。
「……なんでわかったの」
「匂い」
「は?」
「あと、気配」
「雑すぎる」
「普通」
メイベルが、おそるおそる口を開く。
「……北条さんのお母さまって」
「うん」
「……リオノーラ様、ですか」
「知ってるの?」
「はい……」
その瞬間、由斗の眠そうな目が少しだけ動いた。
「じゃあ、話は早い」
あたしは二人を見比べる。
なんだこれ。
急に知らない世界の固有名詞が増えた。
「……ちょっと待って」
「うん」
「あたし、ついていけてない」
「だろう、ね」
「その“だろうね”やめて」
「……ごめん」
由斗は謝りながらも、あまり悪びれていなかった。
でも、不思議と美良ほど腹は立たない。
多分、この人には“揺さぶって楽しむ感じ”がないからだ。
「で」
「うん」
「あんたは味方?」
「少なくとも、敵じゃ、ない」
「信用根拠が薄い」
「母さんが、メイベルちゃんと、縁ある」
「……」
メイベルが、小さく頷く。
「リオノーラ様は、やさしい方です……」
「へえ」
「すごく……」
「じゃあ半分信用する」
由斗が少し笑った。
「半分で、いい」
「じゃあ残り半分は」
「これから」
言い方が兄にちょっと似てる。
でも兄よりずっと静かだ。
「……一個だけ聞いていい?」
「うん」
「美良のことも知ってる?」
「西宮美良、の方?それとも…」
「……その言い方するなら両方」
「知ってる」
あっさりだった。
「性格悪いでしょ」
「それは、すごく、思ってる」
「だよね」
「でも、嫌いになりきれない、タイプでもある」
「それが余計に厄介」
「うん、厄介」
即同意された。
由斗はベンチに肘をついて、眠そうに続ける。
「でも」
「なに」
「美良さんが、来たなら、そろそろ、ちゃんと知っといた方が、いいかも」
その言い方に、少しだけ背筋が冷える。
「何を」
「メイベルちゃん、のこと」
「……」
「それから、あっち側の、事情も」
あたしは隣のメイベルを見る。
メイベルも、不安そうに私を見返してきた。
その視線の意味はなんとなくわかった。
――隠しきれなくなってきた。
そういう段階なんだろう。
由斗はそんなあたしたちを見て、小さくあくびをした。
「今すぐ、全部話せって、わけじゃない」
「……」
「でも、知ってる人間が、一人くらいいた方が、楽」
「それは……」
「多分、思ってるより」
由斗はそこで少しだけ目を細めた。
「一人で守れる範囲、狭いから」
その一言が、妙に刺さった。
正しいんだろうなと思う。
思うからこそ、ちょっと痛い。
あたしはしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「……考える」
「うん」
由斗はそれ以上急かさなかった。
ただ、眠そうな顔のまま、でもちゃんとこっちを見ていた。
――この人、思ってたよりずっと厄介じゃないのかもしれない。
そんなことを、少しだけ思った。




