第十九話「できる姉とできない妹、その間にいると呼吸が浅くなる」
次の日の朝。
あたしは教室のドアを開けて、真っ先に自分を少しだけ嫌になった。
また最初に見たのが、美良の席だったからだ。
「……」
まだ来ていない。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
抜けたあとで、ああもうだめだなと思う。
転校生一人にこんなふうにコンディション左右されるの、だいぶ嫌だ。
「依夜」
「なに」
「今日も見た」
「見てない」
「見た」
「……」
「だんだん否定が雑になってる」
澄鈴が真顔でそう言った。
朝からやめてほしい。図星だから余計に。
でも、今日は昨日より少しだけ救いがあった。
「お、おはようございます……!」
隣で、メイベルがちゃんと自分から挨拶した。
しかも声が、昨日よりほんの少し大きい。
「……うん、おはよう」
「はい……!」
返事だけでちょっと嬉しそうになるの、相変わらずわかりやすいなと思う。
「……昨日よりマシ」
「評価ありがとう」
「事実」
「でも本当にちょっとだけ元気そう」
「依夜さんが昨日、たくさん言葉をくれたので……」
そういうのを朝一で真正面から返してくるな。
あたしは少しだけ視線をそらした。
「……それで今日一日乗り切れるなら安いもんでしょ」
「や、安いんですか……?」
「あたしの気持ち的にはね」
「……」
「そこで感動した顔しない」
けど、その顔が見られるなら、昨日カフェに入ってよかったのかもしれないと思う。
メイベルはまだ弱い。
すぐ揺れるし、すぐ泣きそうになるし、怖いものも多い。
でも、“昨日の言葉で少し立て直した”っていう事実があるなら。
それはたぶん、小さくてもちゃんと前進なんだろう。
◇ ◇ ◇
そして、そんな小さな前進を。
現実はわりとあっさり踏みつけてくる。
「おはよう、メイベル」
美良が教室に入ってきて、席につくより先にそう言った瞬間。
隣のメイベルの背筋が、目に見えて固くなった。
「……っ、お、おはようございます……」
「ふふ。今日はちゃんとこっち見て言えたじゃない」
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、メイベルの手元が止まる。
シャーペンを持つ指が、わずかに震える。
あたしは前を向いたまま、奥歯を軽く噛んだ。
今の何?
褒めてるように聞こえる。
実際、周りが聞いたらそう思うだろう。
でも違う。
“昨日までできなかったこと”を、ちゃんと本人に思い出させる言い方だ。
ほんとに、刺し方がうまい。
「依夜」
「……なに」
「こめかみ」
「え?」
「動いてる」
「……」
「怒ってる時のやつ」
「観察やめて」
「無理」
澄鈴が淡々と言う。
その冷静さ、今はちょっと分けてほしい。
あたしはちらっと隣を見る。
メイベルは、必死に前を向いていた。
でもその“必死に崩れないようにしてる”感じが、かえって危うい。
◇ ◇ ◇
二時間目の途中。
先生が、昨日の小テストを返し始めた。
「順番に返すぞー。点数いいやつ何人か読むからな」
嫌な予感しかしない。
こういう“結果が見えるイベント”って、だいたい誰かが比べられる。
そして今日に限って、その“比べられる構図”にぴったりな二人がこの教室にいる。
「西宮、満点。すごいな」
「ありがとうございます」
美良が涼しい顔で答案を受け取る。
教室が少しざわつく。
そりゃそうだ。あの空気で成績までいいのは、だいぶ強い。
「東、75点」
「はい」
「南、98点」
「はい」
「メイベル……」
先生が一瞬、言葉を止めた。
嫌な間。
「……58点。もう少し頑張ろうな」
「……は、はい……」
メイベルの声が小さく沈む。
私はその答案を受け取る横顔を見て、胸の奥がざわついた。
別に58点が悪いとか、そういうことじゃない。
転校してきたばかりで、授業の進み方だって違うだろうし、緊張もしてる。
でも。
このタイミングで、“満点の姉”のあとに“頑張ろうな”を食らうのは、あまりにもきつい。
やめてくれ。
その並びはほんとにやめてくれ。
メイベルは何も言わずに答案をしまった。
でも、その動きが少しだけ遅い。
きっと頭の中で、もう勝手に比べてしまってる。
「……」
後ろから、かすかな笑い声。
美良ではない。周りの誰かでもない。
ただの息を吐くみたいな音。
でも、あたしはそれに勝手に意味を感じてしまうくらい、ぴりぴりしていた。
◇ ◇ ◇
昼休み。
メイベルは明らかに元気がなくなっていた。
「……食べないの」
「た、食べます……」
「いや全然進んでない」
「……」
お弁当の蓋は開いてる。
箸も持ってる。
でもそこから先に進めていない。
あたしは少しだけ考えて、机の上の答案用紙を指で叩いた。
「見せて」
「えっ」
「点数」
「い、いいです……!」
「なんで」
「だ、だって……」
「隠されると余計気になる」
「うぅ……」
メイベルが、観念したみたいに答案を差し出してくる。
58点。
たしかに高くはない。
でも、この状況ならむしろ取れてる方だと思った。
それでも、“満点の姉”のあとに“頑張ろうな”を食らうのはきつい。
「……普通に頑張ってるじゃん」
「え……?」
「授業ついてくの大変でしょ」
「なら十分じゃない?」
そこで、メイベルが小さく俯く。
「姉さま、満点でした……」
「……」
「やっぱり、わたし……」
「そこで並べるのやめな」
思ったより強く出た。
メイベルがびくっとする。
でも、止められなかった。
「あんたと姉は別でしょ」
「……」
「授業の慣れも違うし、そもそも条件が違う」
「……」
「なのにそこで“やっぱり”って言うの、よくない」
言いながら、自分にも刺さる。
兄と比べて、自分はやっぱり普通だって思う時と、同じだ。
「……依夜さん」
「なに」
「怒ってますか……?」
「君にじゃない」
「……」
「その“すぐ比べる流れ”に腹立ってるだけ」
メイベルは少しだけ考えて、それから、おそるおそる口を開く。
「……でも、比べなくても」
「うん」
「わたし、できない方です」
その言い方が、きつかった。
諦めてるわけじゃない。
でも、もう半分は受け入れてしまってる声だ。
「……メイベル」
「はい」
「昨日、何て言ったか覚えてる?」
「……」
「できない方でも、少しずつなら変われるって言った」
「……はい」
「それ、今日になったら無効になるわけじゃないよ」
「……!」
メイベルの目が少しだけ揺れる。
「58点で落ち込むのはいい」
「……」
「でもそれで“やっぱり向いてない”まで飛ぶのは早い」
「……」
「あんた、結論急ぎすぎ」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、メイベルは本当に小さな声で言った。
「……依夜さんは」
「うん」
「どうして、そんなふうに言ってくれるんですか……?」
その聞き方は、反則だ。
だって私だって、全部ちゃんと整理できてるわけじゃない。
放っておけないから。
それは本当。
でも、その理由を綺麗に説明できるわけじゃない。
「……」
「……」
「……見てると、ほっとけないから」
「……!」
結局、それしか言えなかった。
でも、メイベルはそれで十分だったらしい。
ほんの少しだけ、表情が戻る。
「……そっか」
「うん」
「……ありがとうございます」
「うん」
そこへ。
「ふふ。ほんとに保護者みたい」
聞き覚えのある声。
あたしは振り返る前から、顔が嫌そうになっていたと思う。
美良が、いつの間にか机のそばに立っていた。
「……盗み聞き?」
「聞こえただけよ」
「その位置で?」
「耳がいいの」
便利だね、とでも言えばいいのか。
美良は机の上の答案を見て、ふっと微笑んだ。
「58点かあ」
「……」
「頑張ったじゃない、メイベル」
その言い方。
褒めてるように聞こえる。
でも、“頑張ったのにその程度”っていう含みが、嫌になるくらい上手く混ざってる。
メイベルの顔が、また曇る。
「っ、あの……」
「でも」
と、美良が続ける。
「あなた、昔からそういうところあるわよね」
「……」
「すごく頑張ってるのに、結果はそこそこ、みたいな」
やめろ。
「ちょっと」
「なに?」
「今それ言う必要ある?」
「事実でしょう?」
「今ここで言う必要あるかって聞いてる」
「あるんじゃない?」
「ないよ」
「あなたにはそう見えるのね」
本当に腹立つ。
この人、会話が全部“刺しても私は間違ってませんけど?”の形になってる。
「……姉さま」
メイベルが、小さく言う。
「なに?」
「……やめてください」
「……」
美良が、一瞬だけ目を見開く。
教室のざわめきの中で、その小さな言葉はあまり目立たなかった。
でも私には、はっきり聞こえた。
「……へえ」
と、美良が笑う。
「言えるようになったのね」
その言い方がまた嫌だったけど。
それでも、あたしはメイベルを見た。
メイベルは怖がってる。
手も少し震えてる。
でも、さっき確かに“やめてください”って言った。
言えた。
「……すごいじゃん」
「え……」
思わず口にすると、メイベルがこっちを見る。
美良も少しだけ目を細めた。
「今の、ちゃんと言えた」
「……」
「昨日のあんたなら、多分飲み込んでた」
「……!」
「そこは普通に偉い」
メイベルの目が、一気に揺れる。
そこへ澄鈴が来た。
「何の騒ぎ?」
「ちょっとした姉妹問題」
「面倒そう」
「正解」
澄鈴は状況を一瞬で把握したわけじゃないだろうけど、メイベルと美良の表情を見て、だいたい察したらしい。
「西宮さん」
「なに?」
「教室で人を追い詰めるのは感心しない」
「追い詰めてないわよ」
「結果としてそうなってるなら同じ」
「……」
美良が少し黙る。
澄鈴って、こういう時ほんとに強いなと思う。
「……ふふ」
と、美良は笑った。
「あなたたち、ほんとに面白いわね」
「その感想もういい」
「でも本当だもの」
そう言って、美良はあっさり引いた。
引いたけど、その目はまだどこか楽しそうで、やっぱり油断ならない。
◇ ◇ ◇
放課後、帰り道。
メイベルは、今日はいつもより静かだった。
でも、昨日までみたいな沈んだ静けさではない。
何かを考えてる感じの静けさだ。
「……どうしたの」
「え」
「なんか考えてる顔」
「……」
「違う?」
「……考えてます」
「何を」
「……今日」
「うん」
「わたし、やめてって言えました」
「言えたね」
「……はい」
それだけで、少しだけ声が明るくなる。
「こわかったです」
「うん」
「でも、言えました」
「うん」
「……」
しばらく沈黙してから、メイベルがぽつりと言う。
「……58点でも」
「うん」
「だめなだけじゃ、ないですか」
あたしは足を止めそうになる。
ああ。
今の一日、ちゃんとこの子の中に残ったんだなと思った。
「うん」
「……」
「58点は58点だけど」
「はい」
「それで全部決まるわけじゃない」
「……」
「今日、姉にやめてって言えたあんたの方が、私はずっとでかいと思う」
「……!」
メイベルが、泣きそうな顔で笑った。
やっぱり忙しいな、その感情。
でも、今日はその忙しさがちょっと誇らしく見えた。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし」
「うん」
「できない方ですけど」
「うん」
「前よりは、ちょっとだけ違うかもしれません」
「……うん」
「そう思っても、いいですか」
「いいよ」
即答だった。
だって、それは本当だから。
「すごく、いい」
「……!」
メイベルが、本当に嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、あたしは思う。
できる姉と、できない妹。
そんな並べ方は簡単だ。
でも、今日のメイベルは、その“できない方”のまま、ちゃんと一歩進んだ。
それを見てしまったら。
もうあたしは、簡単な言葉でこの子を片づけたくなかった。




