第十七話「なんでこんなにムカつくのか、自分でもまだ言葉にできない」
教室に戻ってからも、あたしはずっと落ち着かなかった。
メイベルはあたしの隣で、さっきよりは少しだけ呼吸が落ち着いていた。
でも、完全に平気なわけじゃない。
目元は赤いし、授業が始まってもノートの端を指先でずっと触っている。
不安な時の癖なんだろうな、と思う。
「……」
あたしは黒板を見ながら、後ろの気配を意識していた。
美良は、何事もなかったみたいな顔で座っている。
先生に当てられれば普通に答えるし、周りに話しかけられればちゃんと笑う。
まるでさっき廊下で、人の心の地雷を踏み抜く講義でもしてました、みたいなことが全部幻だったみたいに。
――腹立つ。
その感情だけが、やけにはっきりしていた。
なんでこんなにムカつくのか。
メイベルを泣かせたから。それもある。
人の弱さを、わかった上で突いてくるから。それもある。
でも、多分それだけじゃない。
あの人は、あたしの中にある嫌な部分も見抜いてくる。
兄への劣等感とか、自分は普通でしかないっていう感覚とか。
そういう“見られたくないもの”まで、平然と見てくる。
だから、余計に腹が立つ。
「依夜」
小声。
澄鈴だった。
「なに」
「顔が怖い」
「そう」
「かなり」
「そう」
否定しなかった。
否定できる感じでもなかったし。
「後ろ」
「うん」
「気になる?」
「すごく」
「……」
澄鈴は少しだけ黙って、それから前を向いたまま言った。
「珍しいね」
「何が」
「依夜が、ここまで誰かに対してわかりやすく嫌悪出すの」
「……」
「大体、もう少し流すのに」
「そうだっけ」
「そう」
自分ではあまり意識していなかったけど、そうなのかもしれない。
あたしはあんまり、真正面から人を嫌うのが得意じゃない。
というか、めんどくさいから避けることが多い。
ツッコむことはあっても、ここまで継続して“無理”って思うことは少ない。
でも、美良にはそれがある。
しかも、それを美良本人が多分気づいてるのも、また腹立たしい。
◇ ◇ ◇
次の休み時間。
あたしは席を立つ前に、メイベルを見た。
「……大丈夫?」
「は、はい……」
「大丈夫じゃなさそうだけど」
「で、でも……さっきよりは……」
「そっか」
メイベルはそう言って、小さく笑おうとした。
でもうまく笑えていない。
痛々しいなと思う。
「飲み物買ってくる」
「え」
「あんたの分も」
「い、いいんですか……?」
「今日はいい」
「……!」
そう言うと、メイベルの目が少しだけ明るくなった。
ああ、だめだ。
こういう顔を見てると、余計に“あっち側”が腹立つ。
「わたしも行きます……!」
「いや、あんたはちょっと休んでて」
「で、でも……」
「これは命令」
「……は、はい」
素直に引いた。
えらい。
席を立つと、すれ違いざまに後ろから声がした。
「やさしいのね、本当に」
美良だった。
あたしは足を止める。
でも、すぐには振り返らない。
「……何」
「別に」
「じゃあ話しかけないで」
「冷たい」
その言い方が、いちいち人を逆撫でする。
振り返る。
美良は頬杖をついて、楽しそうに私を見ていた。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない」
「メイベルのこと、そんなに気になる?」
「……」
質問が雑だ。
「気になるよ」
「へえ」
「放っておくと壊しそうだから」
「壊れるものは、その程度なのよ」
「その言い方やめてくれる?」
即座に返す。
美良は少しだけ目を細めた。
「あなた、ほんとに甘いわね」
「何が」
「弱いものを、弱いままで守ろうとする」
「……」
「それだと余計に駄目になることもあるのよ?」
その理屈、何度も聞いた。
聞いた上で、やっぱり納得できない。
「じゃあ、壊しそうになるまで追い込むのが正解?」
「追い込んでるつもりはないわ」
「見てる側はそう見える」
「見てる側、ね」
「……」
「あなた、自分のことも含めて言ってる?」
どく、と胸の奥が鳴る。
やめてほしい。
そうやって、いちいち二重の意味を持たせるの。
「……ほんとやだ、そういうとこ」
「そう?」
「全部わかったように話す感じ」
「全部はわかってないわよ」
「でも、わかってるふりはする」
「必要ならね」
きれいな顔で、そういうことを言うな。
あたしは苛立ちを隠さずに、美良を見る。
「あんたさ」
「なに?」
「何が楽しいの」
「え?」
「メイベル揺さぶって、私に絡んで」
「……」
一瞬だけ、美良の表情が止まった。
ほんの一瞬。
でも、止まった。
「何が面白いのって聞いてる」
「……」
「昨日からずっと、面白い面白いって」
「……」
美良はすぐに笑顔を作り直した。
でも、さっきまでみたいな余裕のある笑い方じゃない。
「あなたって」
「何」
「思ってたより、ずっと真っ直ぐね」
「褒めてる?」
「どうかしら」
そこでチャイムが鳴った。
休み時間終了。
美良は肩をすくめる。
「続きはまた今度」
「やだよ」
「ふふ」
本当にやりにくい。
あたしは自販機に向かいながら、思いきり眉を寄せた。
何なんだ、あの人。
メイベルの姉ってだけでも厄介なのに、あたしにまでちくちく刺してくる。
しかも、たまに本当に図星だから最悪だ。
ムカつく。
とにかくムカつく。
でも、そのムカつきの中に、少しだけ別の感情が混じってる気もして、それがもっと嫌だった。
◇ ◇ ◇
放課後。
今日は珍しく、教室全体が少し浮ついていた。
美良が来てから、クラスの空気がどこか華やいでいる。
男子も女子も、なんとなく“あの子すごいよね”みたいな感じで話しているのが聞こえる。
わかる。
わかるけど、今の私にはそれが全部ノイズだった。
「依夜さん……」
メイベルが小さく袖を引く。
「なに」
「か、帰りましょうか……」
「うん」
「……」
でも、立ち上がろうとしたところで。
「メイベル」
美良の声。
またか、と思う。
メイベルの体が強張る。
あたしは反射でそっちを見た。
美良は、席に座ったままこちらを見上げていた。
笑っている。いつもの笑顔。
でも、その目だけが少し冷たい。
「今日、うちに来る?」
「っ」
「久しぶりに、姉妹でゆっくり話したいんだけど」
教室の数人が「え、同居じゃないんだ」とか「姉妹で美人すぎ」みたいなことをひそひそ話している。
そんな中で、メイベルは完全に固まっていた。
「……」
「返事は?」
「……あ、えと……」
「そんなに迷うこと?」
やめろ、その言い方。
あたしはもう一歩前に出た。
「困ってるでしょ」
「あら」
「今その聞き方、ずるい」
「姉が妹を誘ってるだけだけど?」
「断りづらい空気作ってる時点で十分ずるい」
美良が私を見る。
メイベルが、私の袖をぎゅっと掴んだ。
その力が、思ったより強い。
「……」
ああ。
今、本気で嫌なんだな。
美良はその手元を見て、小さく笑った。
「本当に懐いたのね」
「……」
「そんなにこの子がいい?」
「言い方」
「事実確認よ」
腹が立つ。
何がって、その“この子”扱いが。
メイベルは人で、意思があって、今確かに困ってるのに、全部“反応を見るための対象”みたいに扱う感じが。
「メイベル」
「は、はい……っ」
「行きたい?」
「……」
「今はっきり言って」
「……」
メイベルは震えながら、でもちゃんと口を開いた。
「……いきたく、ないです」
教室の空気が、また止まる。
美良は数秒黙った。
それから、ふっと微笑む。
「そう」
それだけ。
でも、その“そう”が怖かった。
「わかったわ」
「……」
「今日は諦める」
今日は、ね。
またそれだ。
あたしは美良から目を離さなかった。
美良も、しばらくあたしを見ていた。
その視線の中に、少しだけ。
ほんの少しだけ、面白がる以外の何かが混じっている気がした。
でも、それが何かまではわからない。
「……帰るよ」
あたしはメイベルの手首を軽く引いた。
メイベルはこくこく頷いて、私についてくる。
教室を出る直前、背中に声が飛んだ。
「東さん」
振り返る。
「なに」
「あなた、ほんとに」
「……」
「なんでそんなにムカついてるのか、ちゃんと考えた方がいいわよ」
その一言に、胸の奥がざわっとした。
言い返したかった。
でも、言葉が出なかった。
だって、正直、それはあたしも少し思っていたから。
メイベルを傷つけるからムカつく。
それは本当だ。
でも、美良はそれだけじゃなくて、あたしが見たくないものまで平気で撫でてくる。
だから嫌だ。
でも、それを認めるのもまた嫌だった。
◇ ◇ ◇
帰り道。
今日はメイベルが、いつも以上にぴったり隣を歩いていた。
袖は掴まない。
でも、距離は近い。
ちょっとぶつかるくらい近い。
「……メイベル」
「は、はい」
「近い」
「す、すみま……」
「いや、今日は別にいいけど」
「……!」
その一言で、メイベルが少しだけ表情を緩める。
「……怖かった?」
「……はい」
「そっか」
「でも」
「うん」
「依夜さんが、いてくれたので……」
またそれだ。
そう言われるたびに、胸の奥が変なふうに熱くなる。
困る。
でも嫌じゃない。
「……依夜さん」
「なに」
「今日、怒ってました」
「うん」
「わたしのために?」
「……」
「……」
なんでそういう、答えづらい聞き方をするかな。
でも、ここで誤魔化すのも違う気がした。
「……それもある」
「……!」
「でも、多分」
「……?」
「あんただけじゃなくて」
「……」
「あたしがムカついてる部分もある」
メイベルは少しだけ考えて、それからおそるおそる聞いてきた。
「……依夜さんも」
「うん」
「姉さまに、似てるところを見つけられるの、いやですか……?」
あたしは足を止めそうになった。
なんでこの子、たまにこういうところだけ鋭いんだろう。
「……いや」
「……」
「すごく、いや」
正直に答える。
メイベルも足を止めて、じっと私を見ていた。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ」
「なに」
「ちょっとだけ、同じですね」
その言葉に、私は一瞬だけ目を丸くする。
それから、ふっと息が抜けた。
「……そうかもね」
「はい」
メイベルが、少しだけ嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ると、やっぱり思う。
放っておけない。
守りたい、みたいな感情まで出てきてる。
でも同時に。
メイベルを守ることで、あたしは自分の何かも守ろうとしてるのかもしれない。
そこまで考えて、ちょっとだけ嫌になる。
綺麗な感情だけじゃないのが、自分でもわかるから。
でも、それでも。
「……帰ったら、甘いものでも食べる?」
「えっ」
「今日はそういう日」
「……!」
メイベルの目がぱっと輝く。
「た、食べたいです……!」
「うん」
「依夜さんと……!」
「それはセットで言わなくていい」
「で、でも……」
「知ってるよ」
ほんとにこの子はわかりやすい。
でも、そのわかりやすさに救われてるのも事実だ。
家までの道を歩きながら、私は少しずつ、自分の中の苛立ちを見直していた。
なんでこんなにムカつくのか。
答えはまだ全部じゃない。
でも、多分。
メイベルが傷つくのが嫌で。
あたしの痛いところを見られるのも嫌で。
そして、その両方を同時にやってくる美良が、本気で厄介だからだ。
――ほんと、最悪な転校生だな。
そう思った時、隣でメイベルが小さく笑った。
多分、あたしの顔にちょっと出てたんだろう。
……まあ、いいか。
今日はそれで。




