第十六話「“価値がない”は、言われた方だけじゃなくて、見てる方も痛い」
次の日の朝。
教室に入った瞬間、あたしは反射的に後ろの席を見た。
――まだ来てない。
「……」
自分でもちょっと嫌になる。
いつからあたしは、朝一番に“厄介ごとの位置確認”をするようになったんだろう。
「依夜」
「なに」
「今、美良さんの席見たでしょ」
「見てない」
「見た」
「見てない」
「嘘」
「……」
澄鈴、朝から鋭いな。
「別に、見ててもよくない?」
「開き直った」
「だって気になるでしょ」
「うん。それはそう」
珍しくすんなり同意された。
メイベルはというと、私の隣でいつも以上に背筋を伸ばしていた。
緊張している時の、この子はわかりやすい。姿勢が良くなるのだ。多分“ちゃんとして見えたい”が強く出るんだろうけど、肩まで一緒に上がるから逆にぎこちない。
「……そんなに力入れなくていいよ」
「は、はい……」
「いや、返事した瞬間また上がってる」
「ほ、本当ですか……?」
「本当」
メイベルが慌てて肩を下ろす。
その動きがちょっと面白くて、少しだけ気が緩む。
でも、その直後。
「おはよう」
後ろから、甘い声。
空気が一瞬で変わった。
「っ」
メイベルの肩が跳ねる。
あたしは振り返らずに、ちょっとだけ顔をしかめた。
でも振り返らないのも変だから、仕方なく後ろを見る。
美良が、今日も完璧な顔で立っていた。
「……おはよう」
「ふふ、ひどい顔」
「朝から絡まれるとそうもなる」
「私、挨拶しただけよ?」
「あんたの“挨拶しただけ”は信用してない」
美良は楽しそうに笑って、そのまま席に座った。
そして――
「メイベルも、おはよう」
「っ、お、おはようございます……」
メイベルの声、ちっちゃ。
しかも語尾がちょっと震えてる。
昨日のことが効いてるのが、見ててわかる。
あたしは前を向き直した。
朝から胃が重い。
◇ ◇ ◇
一時間目の授業中。
美良は、今日も隙がなかった。
先生に当てられれば完璧に答えるし、ノートも綺麗。
そのくせ、時々、教科書の陰で口元だけ笑ってたりする。
……こわ。
メイベルは昨日よりさらに集中できていなかった。
いや、集中しようとはしてる。
してるんだけど、何かあるたびに後ろを意識してしまって、そのたびに手元が乱れる。
かり、と。
シャーペンの芯が折れた。
「……」
メイベルが固まる。
あたしは小さく息を吐いて、予備のシャーペンを机の端からそっと滑らせた。
メイベルがびくっとしてこっちを見る。
「使いな」
「……!」
「授業中」
「は、はい……」
小声で答えて、メイベルがそれを受け取る。
そのやり取りだけなら、まあ普通だ。
でも。
「やさしいのね」
後ろから、囁くみたいな声。
あたしはペン先を止めた。
「……授業中だけど」
「だから小声でしょ?」
「そういう問題じゃない」
「ふふ」
その笑い方が、いちいち神経に触る。
しかもメイベルは、その一言だけで露骨に動揺している。
手元がぶれて、今度はノートに変な線が引かれた。
……見てられない。
◇ ◇ ◇
二時間目のあと。
休み時間になった瞬間、私は振り返った。
「美良さん」
「あら」
「ちょっといい?」
教室の何人かが「お?」みたいな顔をした。
そりゃそうだ。昨日から空気が微妙なのは、わりと見てればわかる。
美良は少しだけ目を細めて、それから、優雅なくらい自然に立ち上がった。
「いいわよ」
「廊下」
「二人で?」
「あんたはその方が好きそうだから」
「ふふ。正解」
腹立つなあ、ほんとに。
廊下の端まで行く。
窓際、人が少ない場所。
私はそこで足を止めて、振り返った。
「何?」
と、美良が先に聞いてくる。
「メイベルに何してるの」
「何、って?」
「昨日からわざと揺さぶってるでしょ」
「揺さぶるなんて人聞き悪いわね」
「悪いことしてる自覚ある?」
「どうかしら」
とぼけ方まで上手い。
「姉妹なんでしょ」
「そうよ」
「じゃあなおさら、あんな言い方しなくてよくない?」
「へえ」
美良の目が、少しだけ細くなる。
「本気で庇う気なんだ」
「庇うよ」
「迷いなく言うのね」
「迷う理由ある?」
「あるでしょう」
美良は窓に軽く寄りかかって、私を見る。
その視線は、いつもの笑顔よりずっと静かだった。
「あなた、あの子のこと何も知らないのに」
「……」
「泣き虫で、気弱で、すぐ依存して、ひとりじゃ何も決められない」
「……」
「少し優しくしただけで、すぐ縋りつく」
「……」
「そういう子を中途半端に守ると、あとで困るのはあなたよ?」
言い方が、いちいち鋭い。
でも、それ以上に腹が立ったのは。
その内容の一部が、正しいことだった。
泣き虫。気弱。依存気味。
全部そうだ。
見てればわかる。
でも。
「だから何」
「え?」
「そういう子だから、突いていい理由にはならないでしょ」
「……」
美良が、わずかに黙る。
私は続けた。
「依存気味でも、泣き虫でも、弱くても」
「……」
「本人が一番わかってて、困ってることを」
「……」
「わざわざ綺麗に言い換えて刺すの、趣味悪い」
言い切った。
その瞬間、美良の笑みが少しだけ薄くなる。
「……意外」
「何が」
「もっと、ただの世話焼きかと思ってた」
「失礼だな」
「でも違うんだ」
「違うって?」
「本気で怒ってる」
そりゃ怒る。
昨日からずっと見てて、腹が立ってるんだから。
美良は私をしばらく見て、それから小さく笑った。
「あなた、あの子に似てるわね」
「は?」
「そこ、怒るところ?」
意味がわからない。
「……どこが」
「自分で気づいてない?」
「気づくように言って」
「劣等感が強いところ」
心臓が、どくっとした。
「……」
「図星?」
「……」
「ふふ」
やめろ、その笑い方。
「あなたも、“できる誰か”が近くにいると苦しいタイプでしょう」
「……」
言い返せなかった。
兄の顔が、一瞬頭に浮かぶ。
「だから、メイベルに共感する」
「……」
「自分と似た弱さを見て、放っておけなくなる」
「……」
「でもね」
美良が、ほんの少しだけ声を落とした。
「あの子は、放っておかれないことにもすぐ甘えるわよ」
その言葉が、妙に嫌だった。
まるで、私のしていることが全部“甘やかし”だと言われたみたいで。
「……甘えたっていいでしょ、別に」
「へえ」
「今まで一人でできてないんだから、いきなり全部は無理でしょ」
「だから支える?」
「必要なら」
「ずいぶん自信あるのね」
「ないよ」
即答した。
「自信なんかない」
「……」
「でも、見捨てるよりはマシだと思ってるだけ」
廊下に、少しだけ風が通る。
その風に髪が揺れて、美良がまばたきした。
「……本気なのね」
「何度も言ってる」
「ふふ。そう」
そこで美良は、なぜか少しだけ表情をやわらげた。
怒るでもなく、笑うでもなく、何かを試す目になっている。
「じゃあ、ひとつ教えてあげる」
「何」
「メイベルが一番言われたくない言葉」
私は眉をひそめた。
「……何それ」
「知りたいでしょ?」
「……」
知りたくないと言えば嘘になる。
だって、こっちが知らない地雷を、この人だけ知っているのは不公平だ。
でも。
それを本人の姉から聞くの、なんか嫌だなとも思う。
「大したことじゃないわ」
と、美良は軽く言った。
「“あなたは向いてない”」
「……」
「サキュバスとしても」
「……」
「妹としても」
「……」
「何かを愛される側としても」
ぞわっとした。
「それを言われると、あの子はだいたい壊れる」
「……最低」
「便利でしょう?」
本気で言ってるのか、この人。
いや、本気で言ってるから厄介なんだ。
「なんでそんなこと教えるの」
「あなたが止めたいなら、知っておいた方がいいと思って」
「……」
「それに」
「……何」
「どこまで本気で守るつもりなのか、見てみたいし」
最悪だ。
人の感情を、全部試しものみたいに扱う感じ。
兄の“見てる”とはまた違う。
もっと悪趣味で、もっと意図的で、だから余計に腹が立つ。
「……あんた」
「なに?」
「ほんとに妹のこと好き?」
「好きよ」
即答だった。
「大好き」
「……」
「だから、甘やかすだけじゃだめなの」
「壊れる寸前までやる必要ある?」
「弱いままだと、もっと壊れるもの」
その理屈が、美しいみたいに言うな。
あたしは拳を握る。
何か言い返したかったけど、うまい言葉が出てこなかった。
その時。
「……依夜、さん」
後ろから、か細い声。
振り向くと、少し離れた場所にメイベルが立っていた。
顔色が悪い。
つまり、聞こえてたんだろう。
「メイベル」
「……」
メイベルは私を見る。
それから美良を見る。
そして、ひどく迷った顔をしてから、やっとのことで言葉を絞り出した。
「……わたし、向いてないのは」
「……」
「知ってます……」
その一言が、痛かった。
美良は何も言わない。
あたしも、すぐには何も言えなかった。
だってその言い方は、“言われたから傷ついた”じゃない。
“最初から自分でそう思ってる”人の声だったから。
「……でも」
メイベルの声は震えている。
泣きそうで、でも泣かないように必死にこらえてるのがわかる。
「……依夜さんが」
「……」
「まだ、いてくれるので……」
そこで、ようやく私は動けた。
メイベルのところまで歩いていって、その肩を軽く抱く。
びくっと震えたけど、逃げはしなかった。
「……いるよ」
「……」
「少なくとも今は」
完璧な言葉じゃない。
でも、嘘は言いたくなかった。
メイベルの目に、一気に涙が溜まる。
「……っ」
「泣いていいよ、今は」
「……依夜さん……」
ぽろ、と落ちた。
美良はそれを見て、少しだけ目を伏せた。
その顔は、さっきまでより少しだけ読めない。
「……やっぱり、面白い」
「まだ言う?」
「だって本当にそうなんだもの」
あたしは睨む。
でも美良は、今度はからかうようには笑わなかった。
「今日はここまでにしてあげる」
「“してあげる”って何」
「あなたが本気なのはわかったから」
それだけ言って、美良は教室の方へ戻っていく。
あたしはその背中を睨みながら、隣のメイベルを見る。
メイベルは俯いたまま、小さく息をしていた。
「……保健室行く?」
「……だいじょうぶ、です」
「大丈夫じゃなさそうだけど」
「でも……」
「でも?」
「授業、出たいです」
「……」
そこで出たいって言えるの、偉いなと思う。
ほんとに少しずつだけど、この子は前に進もうとしてる。
「……じゃあ」
「……はい」
「今日は、あたしの方がちょっと近くにいる」
「……!」
その一言で、メイベルの肩が少しだけほどけた。
「……はい」
教室へ戻る途中、私はずっと考えていた。
“あなたは向いてない”。
あの言葉。
多分、メイベルにとってだけじゃない。
あたしだって似たようなものを、何度も心の中で言ってきた。
兄みたいにはなれない。
足りない。
価値がない。
そういう言葉は、言われた方だけじゃなくて。
見ている方の傷にも、妙に刺さる。
だから余計に。
美良がそれを武器みたいに使うのが、許せなかった。




