第十五話「姉は妹を甘やかさない、でも壊す寸前までは追い込む」
昼休みが終わって、午後の授業が始まっても。
メイベルは、明らかにおかしかった。
「……」
「……」
いや、元からちょっと挙動はおかしい。
それはそう。
でも今のはそういう“いつものポンコツ”じゃない。
顔色が悪い。
ノートは開いてるのに、ほとんど書けてない。
先生が何か言うたびに、ほんの少しだけ後ろを気にしてる。
後ろにはもちろん、美良がいる。
そしてその美良は、授業中だというのに妙に余裕があった。
ちゃんと板書もしてるし、当てられたらすらすら答えるし、姿勢も綺麗だ。
完璧な優等生に見える。
……見える、だけならまだよかった。
「依夜」
「なに」
澄鈴が小声で言う。
「後ろ、気になる?」
「めちゃくちゃ」
「同感」
「君もなんだ」
「空気が変」
その表現はだいぶふわっとしてるけど、言いたいことはわかる。
あたしは何度目かのため息を飲み込んで、黒板に目を戻した。
でも、その直後。
コツ…。
小さな音がした。
「……?」
横目で見ると、メイベルの消しゴムが床に落ちていた。
ああ、緊張で手元が狂ったんだな、と思う。
拾おうとして、メイベルがしゃがむ。
そのタイミングで。
後ろから、白い指先がすっと伸びた。
美良だ。
何の迷いもなく、その消しゴムを先に拾い上げる。
そして、机の横で固まっているメイベルへ、にこっと笑って差し出した。
「はい」
「っ、あ……」
「落としちゃだめよ、メイベル」
声は小さい。
でも、私には聞こえた。
――やっぱり、わざとだ。
“西宮美良”としてじゃない。
今のは明らかに、“姉”として話しかけていた。
メイベルは真っ青になって、消しゴムを受け取った。
「……ありが、とう……ございます」
「ふふ。どういたしまして」
先生は気づいていない。
周りも、ただの親切な転校生だと思ってるだろう。
でもあたしにはわかる。
この人、わざとやってる。
授業が終わるまでの残り二十分が、やけに長く感じた。
◇ ◇ ◇
休み時間。
「メイベル、ちょっと」
あたしは即座に立ち上がって、メイベルの机の横に行った。
「は、はい……」
立ち上がるのもぎこちない。
トイレ前の件から、完全に調子を崩している。
「外行こ」
「え……」
「少し空気変えたい」
「……!」
メイベルが、露骨にほっとした顔をした。
――ああ、だめだな。
その顔されると、もう連れ出す以外の選択肢がなくなる。
でも、そう思った瞬間。
「東さん」
背後から、甘い声。
振り返らなくてもわかる。
美良だ。
「その子、借りていってもいい?」
「は?」
意味がわからない。
振り返ると、美良はいつも通りきれいに笑っていた。
席の周りにはまだ何人かクラスメイトがいるのに、その中で平然とそんなことを言える図太さが怖い。
「ちょっと姉妹で話したいことがあって」
「……」
クラスの空気が止まる。
「えっ」
「姉妹?」
「そうなの!?」
あー、そうなるよね。
思ったけど、こんなにあっさり明かすとは思わなかった。
メイベルがびくっと震える。
「え、メイベルちゃんのお姉ちゃん!?」
「全然似てなくない?」
「でも美人姉妹ってやつ?」
ざわつく教室の中で、美良は軽く肩をすくめた。
「異母とか異父とか、そういう複雑な感じじゃないわよ」
「聞いてない」
「ふふ」
軽い。
全部が軽い。
でも、私の腹の中は全然軽くなかった。
「……何の話」
「ん?」
「メイベルと」
「秘密」
にこっと笑う。
その笑顔が、ほんとに腹立つ。
「いや、意味わかんないんだけど」
「姉妹で話すのに、いちいち許可が要るの?」
「いるでしょ、今のメイベルの様子なら」
「……」
その瞬間、美良の目がほんの少しだけ細くなった。
笑っている。
でも、笑ってるだけじゃない。
「へえ」
「なに」
「ちゃんと見てるのね、あなた」
「……当たり前でしょ」
売り言葉に買い言葉みたいに返してから、ちょっとだけ後悔した。
この人にそういう“関係の深さ”を見せるの、得策じゃない気がする。
美良は一瞬だけ黙って、それからくすっと笑った。
「そう。なら、なおさら話してみたいわ」
何その理屈。
めんどくさいな本当に。
あたしはメイベルを見る。
「……メイベル」
「は、はい……」
「あんたはどうしたい」
本人に聞くのが一番早い。
メイベルは、私と美良を交互に見た。
視線が泳いで、唇が震えて、それでもどうにか言葉を出そうとしているのがわかる。
「……わたし、は」
「うん」
「……」
「……」
長い沈黙のあと。
「……依夜さんと、いたいです」
小さい声だった。
でも、はっきり聞こえた。
教室の空気が、また少し変わる。
クラスメイトたちが「おお……」みたいな顔をしているのが視界の端に入ったけど、今はそれどころじゃない。
あたしは、ちょっとだけ息を吐く。
「だって」
「……」
「本人こう言ってるけど」
美良に向かってそう言うと、美良は少しだけ目を丸くした。
それから、ああ、と納得したみたいに微笑む。
「ほんとに懐いてるのね」
「……」
その言い方は癪に障る。
でも、美良はそれ以上は何も言わず、すっと引いた。
「わかったわ。じゃあ今日はやめておく」
「今日は?」
「また今度、って意味」
やめてほしい。
その予告。
チャイムが鳴る。
次の授業が始まる合図。
美良は席に戻りながら、振り返りもせずに言った。
「でもメイベル」
「っ」
「逃げ続けても、何も変わらないわよ」
その言葉に、メイベルの肩がびくっと揺れた。
あたしは無意識に舌打ちしそうになるのをこらえた。
◇ ◇ ◇
放課後。
今日は珍しく、メイベルの方から何も言ってこなかった。
いつもなら「一緒に帰っていいですか」とか「近くにいてもいいですか」とか、何かしら不安そうに確認してくるのに、今日はそれすらない。
ただ、静かに鞄を持って、私の近くに立っている。
その“近くにいるのに何も言わない”感じが、逆に心配になる。
「……帰るよ」
「……はい」
声も小さい。
澄鈴が私の横に来て、小さく言った。
「重症」
「見ればわかる」
「後ろの転校生」
「うん」
「かなり意地が悪い」
「……あんたがそこまで言うんだ」
「ルールを守るふりして、人の不安を煽るタイプは苦手」
珍しく、はっきりしている。
「依夜」
「なに」
「一人で抱え込まない方がいい」
「……」
「あなた、ああいう相手に感情で反応すると負ける」
「わかってる」
「ならよし」
よし、で済まない気もするけど。
でも、澄鈴なりに心配してくれてるのはわかった。
昇降口を出る。
夕方の空気が少し冷たい。
しばらく歩いても、メイベルは黙ったままだった。
「……メイベル」
「は、はい」
「さっきの」
「……」
「本音?」
「え」
振り返るように、メイベルが私を見る。
「教室で言ったやつ」
「……依夜さんと、いたいって……」
「うん」
「……ほんとです」
迷いのない答えだった。
「……」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、なんで謝るの」
「だ、だって……重いかなって……」
「自覚はあるんだ」
「少しだけ……」
少しだけじゃないよ、とは言わなかった。
今は多分、それを言うタイミングじゃない。
「……姉さま」
と、メイベルがぽつりと言う。
「昔から、ああなんです」
「……どういう意味で」
「こ、こわいわけじゃないんです」
「うん」
「やさしい時もあるんです」
「うん」
「でも……」
メイベルが、自分の指先をぎゅっと握る。
「わたしが、いちばん言われたくないことを」
「……」
「いちばん、きれいな言い方で言うんです」
その言葉が、妙にわかりやすかった。
ああ、そうか。
だから怖いんだ。
怒鳴るわけでも、殴るわけでもない。
ただ、相手の一番痛いところを、一番上品に、逃げ場がない形で突いてくる。
たしかに、それはきつい。
「……最低だね」
「え」
「そのやり方」
「……」
メイベルが、少しだけ目を見開く。
「で、でも……姉さまは、わたしのために言ってる部分もあるので……」
「それでも言い方ってあるでしょ」
「……!」
自分でも、少し驚いた。
ここまで強く言うつもりはなかったのに。
でも、多分もうあたしはだいぶ腹を立ててる。
美良にも、そう思わされているメイベルの状況にも。
「……依夜さん」
「なに」
「怒ってますか……?」
「うん」
「わ、わたしに……?」
「違う」
「……!」
その一言で、メイベルの表情が少しだけほどける。
「あんたには怒ってない」
「……はい」
「ただ」
「……」
「あんたがあんなふうになるの、見てて腹立つ」
言ってから、ちょっとだけ自分でびっくりした。
でも、嘘ではなかった。
メイベルはぽかんとした顔をして、それからみるみるうるっとした目になる。
「な、なんでそこで泣くの」
「うれしくて……」
「そこは違うでしょ」
「で、でも……」
「……」
「わたしがいやな思いしたことで、怒ってくれる人……あまり、いなかったので……」
あ。
その一言は、ずるい。
あたしは少しだけ顔をそらした。
まともに見たら、多分変な顔になる。
「……そっか」
「……はい」
それ以上は、何も言えなかった。
帰り道、メイベルはまた少しだけ私の近くに寄ってきた。
でも今日は、袖をつかんだりはしない。
ただ、半歩だけ距離を詰めて、静かについてくる。
それが妙に慎重で、さっきまでの会話をちゃんと考えてる感じがして、少しだけ胸が苦しくなった。
「……メイベル」
「は、はい」
「次、もしまた姉に何か言われたら」
「……」
「一人で受け止めないで」
「え」
「あたしに言って」
「……!」
「すぐ解決できるかはわかんないけど」
「……」
「聞くくらいはできるから」
メイベルはしばらく黙って、それから、こくりと頷いた。
「……はい」
「うん」
「……依夜さん」
「なに」
「わたし、やっぱり」
「うん」
「依夜さんといると、安心します……」
その言葉が、やけにまっすぐで。
ああ、だめだな、と思う。
多分あたしはもう、“放っておけない”を通り越してる。
この子が傷つくと嫌だし、揺らされると腹が立つし、守りたいみたいな感情まで出てきてる。
それが何なのか、まだちゃんとは言えないけど。
少なくとも。
あの美良って姉の好きなようには、させたくない。
そう思うくらいには、もうかなり手遅れだった。




