第十三話「放っておけないって、多分もうだいぶ手遅れ」
翌朝。
目が覚めた瞬間、あたしは昨夜の出来事を思い出して、布団の中でしばらく無言になった。
「……」
サキュバスが。
キスしようとして。
その前に気絶した。
順番に並べると、やっぱり意味がわからない。昨夜の時点でも十分意味不明だったけど、朝の冷静な頭で振り返ると、余計にひどい。
「……なにしてるんだろ、ほんと」
自分に対してなのか、メイベルに対してなのか、もうよくわからないまま呟く。
のそのそ起き上がって部屋を見回すと、机の前にも、床にも、ベッドの横にも、昨日のポンコツサキュバスの姿はなかった。
「……あれ」
一瞬、変な胸騒ぎがした。
別に、いないこと自体はおかしくない。洗面所かもしれないし、朝食の支度かもしれない。
でも、昨夜あんなふうに気絶したあとだ。少しくらい様子を見ておけばよかったかな、と今さら思う。
あたしは部屋を出た。
洗面所。いない。
リビング。いない。
キッチン。
――いた。
「……」
「……」
流しの前で、メイベルがぴしっと固まる。
手にはお玉。コンロの上には鍋。
そしてその鍋からは、なんとも言えない色の何かが、ぐつぐつと音を立てていた。
「……何してるの」
「お、おはようございます……!」
「うん、おはよう」
「そ、その……朝ごはんを……」
「……」
なるほど。それでこの惨状か。
鍋の中身は、たぶんスープを目指して途中で別の何かになった物体だった。白っぽいような灰色っぽいような、食べ物として大事な自己主張をどこかに置いてきた色をしている。香りも微妙だ。いや、微妙というより、わりと危険寄り。
でも、その横の皿の上には、ぎりぎり焦げずに焼けたトーストが一枚だけ置いてあった。
「……これ」
「そ、それだけは、なんとか……!」
「一点突破すぎる」
メイベルがしゅんとする。
「……メイベル」
「は、はいっ」
「それ、自分で味見した?」
「ま、まだです……」
「じゃあ今すぐ火止めて」
「は、はいっ!」
メイベルが慌ててつまみを回す。見ているだけで不安になる動きだった。危なっかしいにもほどがある。
「……やっぱり、だめでしたか……?」
「食べる前からだいぶだめそう」
「うぅ……」
昨日の今日で、朝から謎の実験料理を始めるとは思わなかった。
けれど、しょんぼりしている顔を見ていると、怒る気にはなれない。
「なんで急に作ろうと思ったの」
「それは……昨日、またお世話になってしまったので……」
「……」
「今日は、わたしが何かしないとって……依夜さん、朝はちゃんと食べた方がいいかなって……」
そこで少しだけ、息が詰まる。
ああ、そうか。
この子なりに考えたんだ。しかも、多分かなり真剣に。
「……一人でやったの?」
「は、はい……」
「危なくなかった?」
「な、何度かちょっとだけ……」
「何度かあるんだ」
「でも、火は消してないです……!」
「基準が低い」
失敗してる。しかもかなり派手に。
でも、自分からやろうとしたのは事実だ。
そう思うと、呆れより先に、別の感情がくる。
「……ありがと」
「えっ」
メイベルが目を丸くする。
「つ、作れてないのに……?」
「気持ちに対して言ったの」
「……!」
みるみる顔が明るくなる。
本当にわかりやすい。
「でも、次は一緒にやろう」
「……え?」
「包丁とか火とか、一人でやるのはまだ危ないから。だから教える」
「……!」
信じられないものを見るみたいな顔をされた。
「お、おこらないんですか……?」
「怒るほどじゃない」
「でも、失敗して……」
「うん」
「お鍋も、ちょっと変な感じにして……」
「ちょっとではない」
「うぅ……」
「でも、やろうとしてくれたのはわかったから」
メイベルはしばらく黙って、それからぽろっと涙をこぼした。
「なんで泣くの」
「うれしくて……」
「知ってる」
もうここまでくると様式美だなと思う。
でも、その泣き方が嫌じゃないのも事実で、あたしは少しだけ困る。
◇ ◇ ◇
結局、朝食はあたしが作り直した。
トーストと卵、簡単なスープ。いつも通りのものだ。
向かいに座るメイベルは、やけに神妙な顔をしている。
「……そんなに落ち込まなくていいって」
「でも……」
「初回から完璧にできる人なんてあんまりいないし」
「依夜さんは、できます……」
「あたしも最初からできたわけじゃないよ」
それは本当だ。料理なんて、だいたい失敗から始まる。
焦がしたり、味が濃すぎたり、順番を間違えたり。
ただ、メイベルはその“失敗の幅”が少し大きいだけだ。
「だから、次は一緒にやればいい」
「……!」
「そんなに驚くこと?」
「だ、だって……次もある、って……うれしいので……」
やっぱりそうか、と思う。
この子は多分、誰かと“また今度”を約束することに慣れていない。
一回きりじゃなくて、次があることに、いちいち感動してしまう。
……それは少し、寂しい。
◇ ◇ ◇
登校中。
今日は昨日より、メイベルの歩き方が少しだけ自然だった。まだ硬いし、人とすれ違うたびにびくっとしているけれど、昨日みたいな“今すぐ逃げたいです”という感じは薄い。
「……ちょっと慣れた?」
「す、少しだけ……」
「ならよかった」
「でも、依夜さんがいないと、まだだめです……」
「そこ堂々と言わないで」
「えっ」
「もう少し隠して」
「か、隠した方がいいんですか……?」
「今後のためにはね」
メイベルが真剣に考え込む。
そして数秒後、こくりと頷いた。
「……がんばって、隠します」
「うん」
「でも、ほんとはずっと近くにいたいです」
「隠せてない」
遅れて「あ」と口を押さえるのが、なんともこの子らしい。
その時、前から澄鈴が歩いてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「お、おはようございます……!」
メイベルがぺこっと頭を下げると、澄鈴はそれを見て少しだけ目を細めた。
「昨日よりマシ」
「挨拶だけで評価する?」
「大事」
「そうだけど」
澄鈴はあたしの隣に並びながら、ちらっとメイベルを見る。
「顔色は悪くないね。今日は昨日より依夜を見てない」
「そこまで細かく観察してるの?」
「してる」
「怖」
でも言われてみれば、その通りだった。
メイベルはあたしの隣を歩いているけれど、昨日みたいに数秒ごとに確認の視線を送ってはこない。
代わりに、道行く人や信号や店先なんかを、少しずつ見ている。
「……えらいじゃん」
「えっ」
メイベルがぱっとこっちを見る。
「ちゃんと前見てる」
「……!」
「昨日よりずっといい」
その一言で、歩幅が少し軽くなる。
現金だな、と思う。でも、そのわかりやすさが少しかわいく見えてしまうのが悔しい。
◇ ◇ ◇
午前の授業は、思ったより平和だった。
メイベルは何度かぼんやりしていたけれど、昨日みたいに頻繁にこっちを見たりはしなかったし、当てられても小さく返事ができていた。
昼休み、クラスの女子が気軽な調子で話しかける。
「ねえ、メイベルちゃん」
「は、はい……?」
「東のこと好きだよね」
危うく飲んでいたお茶を吹くところだった。
「なに急に」
「え、だってわかりやすくない?」
「ずっとくっついてるし」
「顔見るたび安心してる感じするし」
やめてほしい。
本人が真っ赤になってるから。
「ち、ちがっ……」
「違うの?」
「え、えっと、その……」
あたしが口を挟もうとした、その前に。
「……すき、です」
教室の空気が、一瞬だけ止まった。
あたしも、止まった。
「ちょっと」
「は、はいっ」
「今の言い方は誤解を招く」
「えっ」
「えっ、じゃない」
「ち、違うんですか……?」
「違わないけど違う」
「むずかしい」
「あたしもそう思う」
クラスの女子たちが面白がって笑う。
その笑い声の中で、自分の顔が少し熱いのがわかって、余計に腹が立った。
「……あの」
「なに」
「いやでしたか……?」
「そうじゃない」
「……」
「そうじゃないけど、そういうのは教室で言わない方がいい」
「……わかりました」
メイベルは真面目な顔で頷いて、次の瞬間、
「じゃあ、教室じゃないところで言います」
「そういうことじゃない」
だめだ。この子、たまに会話の根本からずれる。
でも、そのずれ方に周りが笑ってくれているうちは、まだ大丈夫な気もした。
◇ ◇ ◇
放課後。
教室に夕方の光が差し込む中、隣を見ると、メイベルが鞄を持ったまま少しそわそわしていた。
「……なに」
「えっ」
「なんか落ち着かない」
「……」
少し迷ってから、メイベルが口を開く。
「……今日、わたし……昨日よりちょっとだけ、ちゃんとできてましたか……?」
ああ、そうか。
今日はずっと、それを気にしてたのか。
「……できてたよ」
「……!」
「朝も、一人でちゃんと歩いてたし」
「はい……!」
「授業中も、昨日より落ち着いてた」
「……!」
「朝ごはんの件も。失敗はしたけど、自分でやろうとしたのは偉い」
言い終わる前に、メイベルの目から涙が落ちた。
「なんで!?」
「だ、だって……うれしくてぇ……!」
「知ってるけど!」
本当に忙しい。
でも、その忙しさを見ていると、こっちまで少し肩の力が抜ける。
メイベルは涙を拭きながら、小さく笑った。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし、もっと頑張ります」
「うん」
「でも」
「うん」
「頑張れない時は、たすけてください」
その一言が、妙にまっすぐで。
あたしは一瞬だけ言葉に詰まって、それから小さく息を吐いた。
「……それは、まあ」
「……」
「放っておけないからね」
言ってから、自分で少し驚く。
でも、嘘じゃなかった。
メイベルは目を丸くして、それからひどく大事なものを受け取ったみたいに、胸の前で手を握った。
「……はい」
その返事が、妙に嬉しそうで。
ああ、だめだな、と思う。
帰り道、メイベルは昨日より少しだけ自然にあたしの隣を歩いていた。
それでもたまに、こっそりこっちを見る。
目が合うと、少し安心したみたいに笑う。
そのたびに思う。
放っておけない。
多分もう、それだけじゃ足りないくらいに。
面倒で、手がかかって、重くて、すぐ泣く。
それでも、そういう全部込みで、気になって仕方ない。




