第十二話「サキュバスなのにキスで気絶するの、だいぶ致命的だと思う」
家に着いてからもしばらく、あたしはうまく普段の調子に戻れなかった。
兄に言いすぎたことも。
でも、言わずにいられなかったことも。
どっちも胸の奥に残っていて、うまく整理できない。
メイベルはそんなあたしを見て、何度か声をかけかけてはやめていた。
「……依夜さん」
「なに」
「今日は、いつもより近くにいてもいいですか……?」
「……少しだけなら」
そう言った瞬間、メイベルは泣きそうな顔のまま、ほっと息をついた。
「ありがとうございます……」
「お礼言うほどでもない」
「いえ、すごくです……」
それきり、メイベルは本当に少しだけ距離を詰めてきた。肩が触れるか触れないか、くらい。
いつもなら「近い」と言うところなのに、今日はなんとなく言わなかった。
兄との会話のあとだからか、夕方の空気が妙にやわらかい。何かが解決したわけじゃない。
むしろ、余計にこじれた気もする。
それでも、ぐちゃぐちゃした気持ちの真ん中に、メイベルの体温みたいなものがあると、少しだけ息がしやすかった。
「……依夜さん」
「なに」
「今日のわたし、役に立てましたか……?」
あたしは思わず足を止めかけた。
この子は本当に、その基準で生きているのだと思う。嬉しいとか安心したとかより先に、“役に立てたか”が来る。
その癖みたいなものに、少しだけ腹が立った。
誰に対してかはわからない。多分、この子をそうさせた何かに。
「……立ったよ」
「……!」
「少しだけど」
「少しでも……! よかったです……」
メイベルはそれだけで、世界を救われたみたいな顔をした。
重い。やっぱり重い。
でも、今のあたしには、その重さがちょうどよかった。
◇ ◇ ◇
家に着くと、朝輝の靴はなかった。
正直、少し安心した。今あの顔を見ると、気まずいのか、苛立つのか、自分でもわからない反応をしそうだったから。
「……いない」
「お兄さま……」
「今はいない方が助かる」
「兄妹って、難しいんですね……」
「それをあんたが言う?」
「わたしには姉さまがいるので……」
その言葉で、ふと思い出す。メイベルにも姉がいる。優秀で、自信があって、きっとメイベルにとっては眩しくて、少し怖い相手。
「……あんたも、姉に対してしんどい時あるの」
「っ……あります」
少し目を伏せて、メイベルは言った。
「姉さまはすごいので……きれいで、強くて、ちゃんとしてて……わたしなんか、比べるのも失礼なくらいで……」
その言い方が、妙に胸に刺さった。
「……比べるのも失礼って、しんどいよね」
「……!」
はっとしたように、メイベルが顔を上げる。
「依夜さんも……?」
「まあね」
しばらく考え込んだあと、メイベルは慎重に、でも少しだけ嬉しそうに言った。
「……ちょっと、うれしいです」
「なんで」
「同じじゃないのはわかってますけど……少しだけ、同じところがあるのかなって」
ずるいな、と思う。そんな言い方をされたら、こっちはもう強く出られない。
「……あるんじゃない」
「……!」
「多分」
「うれしいです……」
「それで泣きそうになるのやめて」
「うれしくて……」
「知ってる」
ほんとにこの子、感情の出口が全部涙腺に直結している。
でも、そのわかりやすさに、少しだけ救われる自分がいるのも事実だった。
◇ ◇ ◇
夕飯のあと、あたしは自室のベッドに寝転がっていた。
メイベルは机の前で、なぜか妙に真剣な顔をしている。
「……何してるの」
「考えごとです」
「珍しいね」
「ひどいです……!」
「冗談。で、何を」
「どうしたら、依夜さんのお役に立てるか……」
またそれか、と思ったけれど、今日のこの子はいつも以上に真剣だった。
「今日、少しだけ役に立てたって言ってもらえて……すごく、うれしかったんです」
「うん」
「だから、もっと……!」
言葉を詰まらせながらも、目だけはきらきらしている。嫌な予感がした。こういう時のメイベルは、大体変な方向に全力で走る。
「ちなみに、何をするつもりだったの」
「その……ずっと考えてたんです」
「何を」
「依夜さんが元気ない時、わたしに何ができるのか……って」
「うん」
「でも、人間のやり方は、よくわからなくて……」
「うん」
「だから、その……サキュバスらしい方法なら、少しは……って……」
「嫌な予感しかしない」
「……き、キス、とか……」
素で変な声が出た。
本人が一番真っ赤になっているのも意味がわからない。言ったの自分だろ。
「ちょっと待って」
「す、すみません……!」
「謝る前に待って」
この部屋には女子高生が二人いる。片方は普通。片方はサキュバス。
そのサキュバスが、今“サキュバスらしいこと”としてキスを提案した。
字面だけ切り取ればラブコメっぽい。
中身はだいぶポンコツだ。
「……メイベル」
「は、はい」
「あんた、自分で言っててわかってる?」
「な、何がでしょう……」
「めちゃくちゃハードル高いこと言ってる」
「で、でも、サキュバスなので……!」
「サキュバス万能説やめて」
メイベルはうぅ、と小さくうめいた。
それでも視線は逃げない。
「依夜さん、元気ないまま寝ちゃうの、だめかなって……わたし、何もできないの嫌なので……」
「……ちなみに、経験は」
「な、ないです……!」
「即答なんだ」
「だ、だって本当ですし……!」
サキュバスなのに未経験。
知っていた気はするけど、改めて聞くとだいぶすごい。
「じゃあ、なおさら無理でしょ」
「でも、依夜さんのためなら……!」
「そこで根性論に行くのやめて」
しょんぼりしつつも、引く気はなさそうだ。
あたしはため息をついた。
「……一回だけ」
「えっ」
「ほんとに一回だけ。無理なら即中止」
「は、はいっ!」
なんであたしは譲歩みたいなことをしてるんだろう。
でも、ここまで真剣に言われると、全部突っぱねるのも違う気がした。
多分この子は、ただ不器用にあたしを慰めたいだけなのだ。
メイベルはベッドのそばまで来ると、緊張しすぎて手足の動きがちぐはぐになった。
ぎこちないを通り越して、ちょっと面白い。
「……そんなに緊張する?」
「し、します……!」
「なんで提案した」
「依夜さんのためならと……」
「それさっき聞いた」
あたしの前に立ち、メイベルは胸の前で両手をぎゅっと握る。顔は真っ赤、呼吸は浅い。
どう見ても大丈夫じゃない。
「……じゃあ、来る?」
「は、はい……!」
一歩、近づく。
近い。思ったよりずっと近い。
赤紫の髪が揺れて、金色の瞳がまっすぐこっちを見る。それだけで、少しどきっとした。
いや、するでしょ。顔がいいんだから。
「め、目、閉じた方がいいですか……」
「あんたがやりやすい方で」
「む、むずかしいです……」
「知ってる」
メイベルが、そろそろと顔を寄せてくる。
遅い。
びっくりするくらい遅い。
あと少し、というところで。
「ひゃっ」
変な声がして、次の瞬間、がくんと力が抜けた。
「え?」
倒れ込んできた体を、とっさに受け止める。
軽い。びっくりするくらい軽い。
「……メイベル?」
返事がない。
顔を見る。目は閉じている。息はある。
けれど完全に気絶していた。
「……嘘でしょ」
あたしは数秒固まってから、深く息を吐いた。
「……サキュバスなのに、そこ気絶するんだ」
致命的すぎる。
ベッドにそっと寝かせると、メイベルはただひたすら“処理落ちしました”みたいな顔で眠っていた。
「……はあ」
思わず笑いがこぼれる。
さっきまで兄のことであんなにぐちゃぐちゃしていたのに、今は目の前のポンコツサキュバスが全部持っていった。
「……ありがと」
方法は盛大に間違っていた。
でも、あたしを元気づけたいと思ってくれたことだけは、痛いくらい伝わった。
気絶するほど無理して、それでもあたしを元気づけようとしてくれた。その不器用さが、少しだけあたたかかった。
ふと、自分の唇に触れる。
結局、キスはしていない。していないのに、妙に意識してしまう。
……いや、忘れよう。これは事故未遂みたいなものだ。
「……ぅ」
小さな声がして、メイベルが目を開けた。
焦点が合った瞬間、自分が寝かされていることに気づいたらしい。
「――き、気絶しましたぁぁぁ!?」
「自覚はあるんだ」
「す、すみませんすみません……!」
「うるさい。落ち着いて」
「サキュバス失格ですぅ……!」
「それはまあ、ちょっと思った」
「思ったんですねぇ……!」
本格的に泣きそうになっているので、あたしは近くのクッションを押しつけた。
「でも」
「……?」
「元気は出た」
「えっ」
「あんたがあまりにポンコツすぎて、いろいろ吹っ飛んだ」
「よ、喜んでいいんですかそれ……?」
「半分くらいは」
メイベルは困ったように笑って、それでも少し嬉しそうにクッションを抱きしめた。
「……少しは、お役に立てましたか?」
「立ったよ」
「……!」
「だいぶ予想外の方向で」
「それでも……よかったです」
へにゃっと笑うその顔を見て、あたしは一瞬だけ黙る。
今日、兄とあんな話をしてから初めて、ちゃんと笑えた気がした。
「……じゃあ、まあ。あんたの作戦、完全失敗ではなかったのかも」
「じゃ、じゃあ……次は気絶しないように――」
「やめて」
「だ、だめですか……?」
「だめ」
即答すると、メイベルはわかりやすくしょんぼりした。
その顔すら、なんだか少しおかしくて、私はまた笑ってしまう。
「……おやすみ、メイベル」
「わ、わたしのせいですよね……」
「うん、だいぶ」
「すみ――」
「謝らない」
「は、はい……!」
多分この子は、これからもこうやって失敗する。
気合いで変な方向に突っ走って、盛大に転ぶ。
でも、そのたびに少しだけ、気持ちが軽くなるのかもしれない。
泣き虫で、気弱で、ポンコツで。
でも、ものすごく不器用な優しさを持っているこの子が――少しずつ、特別になってきている気がした。




