第十一話「兄、地雷を踏み抜くのがうますぎる」
「へえ」
兄――東朝輝は、楽しそうに目を細めた。
その視線の先には、あたしの後ろに半歩隠れたメイベル。
そして多分、その“隠れ方”の意味まで、こいつはもうなんとなく察している。
「……何」
「いや別に?」
「その顔うざい」
「兄に対する第一声がそれ?」
「自業自得」
朝輝はくすくす笑いながら、私たちのところまで歩いてくる。
制服姿の女子高生二人の前に、私服の大学生男子。しかも無駄に顔がいい。
校門前という場所もあって、やたら目立つ。ほんとにやめてほしい。
「こんにちは、メイベルちゃん」
「こ、こんにちは……」
「そんな警戒しなくても取って食べないよ」
「た、食べられるとは思ってません……!」
「でも怖いんだ?」
「う……」
ほら困ってる。
こいつ、距離の詰め方が速いんだよな。コミュ力が高いというより、人の懐に入る時の躊躇がない。本人に悪気がないから、なおさら質が悪い。
「兄さん」
「なに?」
「怖がらせないで」
「怖がらせてないよ。挨拶しただけ」
「あんたの“挨拶しただけ”は信用ならない」
「ひどいなあ」
でも否定しない。
否定できないからだろうけど。
朝輝は片手をポケットに入れたまま、あたしとメイベルを交互に見た。
「で、一緒に帰る感じ?」
「見ればわかるでしょ」
「うん。だいぶ仲良くなったなって」
「……」
「良かったじゃん」
その言い方が、なんか癪に障る。
何が“良かったじゃん”なのか。
別に兄に褒められたいわけじゃない。報告したわけでもない。なのに、こいつに“うまくやれてるね”みたいな顔をされると、妙にむず痒くて、腹立たしい。
――ああ、そうだ。
昔からだ。
朝輝は何でも軽く言う。
でも軽く言うくせに、だいたい正しい。
こっちが必死でやってることを、こいつは何でもないことみたいに見抜いて、何でもないみたいに口にする。
それが、腹が立つ。
「依夜さん……?」
隣でメイベルが、おそるおそるあたしの顔を覗き込んでくる。
「え」
「お、お顔がちょっと……」
「どんな」
「こわい、です……」
「……」
そんなに出てた?
朝輝が「あー」と小さく声を漏らした。
「ごめん。地雷踏んだ?」
「自覚あるんだ」
「たまにはね」
「たまにじゃ困る」
メイベルが、あたしと朝輝を交互に見て、露骨におろおろし始める。
「え、えっと……」
「大丈夫だから」
「だ、大丈夫ですか……?」
「多分」
「多分なんですね……」
「今はね」
こいつの前で兄妹喧嘩みたいなことはしたくない。
でも、このまま一緒に帰るのも面倒くさい。
朝輝が空気を読んだのか読まなかったのか、にこっと笑った。
「じゃ、途中まで一緒に帰ろうか」
「なんでそうなるの」
「だって依夜ちゃん、どうせメイベルちゃん一人じゃまだ危ないと思ってるでしょ」
「それは……」
「ほら」
「正論っぽくまとめるな」
うざい。
でも、否定しきれない。
メイベルを一人で放り出すのはまだ不安だし、かといって兄に同行されるのも落ち着かないし、何この最悪の二択。
結局、三人で歩き始めた。
◇ ◇ ◇
気まずい。
いや、正確にはあたしだけが勝手に気まずいのかもしれない。
朝輝はいつも通りだし、メイベルはあたしの一歩斜め後ろにぴったりついてきてるし、通学路の夕方の景色だっていつも通りだ。
なのに、空気だけが妙に落ち着かない。
「メイベルちゃん、学校どうだった?」
「え、えっと……」
「急に話振らないで」
「依夜ちゃん、保護者すぎない?」
「うるさい」
「で、どう? 慣れそう?」
「えと、その……こ、こわかったです……」
「うん」
「で、でも……」
「でも?」
「依夜さんが、いたので……」
メイベルがそう言って、少しだけあたしを見る。
その視線を受けると、なんか変に落ち着かない。
照れるとかじゃない。ただ、むずむずする。
朝輝が小さく笑った。
「そっか。依夜ちゃん、頼られてるじゃん」
「いちいち言わなくていい」
「照れてる?」
「違う」
「早口」
「うるさい」
兄はそこで、それ以上は突っ込まずに話題を変えた。
「依夜ちゃんってさ、昔からそうなんだよね」
「兄さん」
「放っておけないもの見つけると、結局ちゃんと面倒見るの」
「……」
「今回たまたまメイベルちゃん相手に出てるだけで、根っこは昔から同じ」
その言い方が、妙に引っかかった。
今のあたしが頑張ってることを、昔からの癖みたいに片づけられた気がして。
朝輝は楽しそうだ。
最悪だな、この構図。
「小さい頃、近所で捨て猫見つけた時もさ――」
「ちょっと待って」
「依夜ちゃんが一番最初にしゃがみこんで」
「待ってって言ってる」
「自分は飼えないくせに、ずっと様子見てて」
「……」
「で、結局、里親見つかるまで毎日通ってた」
やめてほしい。
なんで覚えてるんだ、そんなこと。
メイベルの目がじわっと丸くなった。
「……依夜さん」
「なに」
「すごく、やさしい人だったんですね……」
「“だった”って何」
「い、いえ、今もです……!」
「……」
だめだ。
兄の口からそういう話をされるの、妙に恥ずかしい。
しかも最悪なことに、朝輝の話し方って嫌味がない。
悪意なく本当のことをさらっと言うから、余計に逃げ道がない。
「でもまあ」
朝輝が空を見上げながら、軽い調子で続ける。
「依夜ちゃんって、昔からそういう“放っておけないもの”に弱いんだよね」
「……」
「自分では普通のことしてるつもりなんだろうけど」
「……」
「見てる方からすると、すごくわかりやすい」
――そうやって。
簡単に言うな。
胸の奥が、ちくっと痛んだ。
朝輝は何でもないように言う。
でもあたしは、そんな“昔から変わらない優しい子”みたいな話をしてほしいわけじゃない。
今のあたしが、必死でやってることを、こいつは“昔からそうじゃん”の一言で片づける。
それが、すごく嫌だ。
「……何でもわかったように言わないで」
気づけば、口から出ていた。
朝輝が瞬きをする。
メイベルが、びくっと肩を震わせる。
「あ」
やばい、と思った時には遅かった。
「依夜さん……」
「……ごめん、今のは」
メイベルじゃなくて朝輝に向けたつもりだった。
でも、空気は明らかに悪くなった。
朝輝は少しだけ黙ってから、苦笑した。
「そっか。ごめん」
「……」
「軽く言いすぎた」
謝られると、それはそれで居心地が悪い。
だってあたしが本当は何に腹を立ててるのか、自分でもちゃんと整理できてないから。
兄が悪いようでいて、多分全部が兄のせいでもない。
ただ、比べられるのに疲れてるだけだ。
それなのに、当の本人が自然体でこっちを見るから、余計にしんどい。
「……別に」
「別に、は別にじゃない時のやつだよ」
「うるさい」
「うん、うるさかったね」
そうやって引かれると、こっちが悪いみたいじゃん。
……実際ちょっと悪いのかもしれないけど。
メイベルが、おろおろしながら私の袖をそっとつまんだ。
「依夜さん……」
「なに」
「だ、大丈夫ですか……?」
「……大丈夫」
「ほんとに……?」
「……」
ほんとに、って聞かれると詰まる。
大丈夫じゃないわけじゃない。でも、うまく言えない。
その時、朝輝がふっと息をついた。
「ごめん、依夜ちゃん」
「……」
「僕、つい昔の感覚で話しちゃうんだよね」
「……そうだね」
「でも、今の依夜ちゃんが頑張ってるのもちゃんと見てるよ」
それ、余計きつい。
見てるよ、って言われたくない。
見られてるのが嫌なんじゃない。
見られた上で、理解されてるみたいに言われるのが嫌だ。
だって、多分こいつは、本当にはわからない。
完璧で、何でもできて、人に好かれて、空気も読めて。
そういう人間が、あたしのしんどさを“見てる”って言っても、こっちからしたら「そうですか」としか言えない。
「……兄さんって、ほんと何でもできるよね」
自分でも、嫌な言い方だと思った。
でも止まらなかった。
「こういう時も、ちゃんと謝れて」
「依夜ちゃん…」
「人との距離も上手くて」
「……」
「見てるだけで、何でもわかってるみたいな顔して」
メイベルが完全に凍っている。
わかる。あたしも今の自分、ちょっと嫌だ。
「……いいよね、兄さんは」
沈黙。
風の音だけがした。
夕方の空気が、妙に冷たい。
朝輝は、しばらく何も言わなかった。
その間が、逆に苦しかった。
――ああ、やった。
言いたくなかったことまで言った。
完全に八つ当たりだ。わかってる。わかってるけど、止められなかった。
「……ごめん」
今度は、あたしが言う番だった。
「今のは」
「ううん」
朝輝が、静かに首を振る。
その顔が、思ってたよりずっと困った顔で。
なんか、余計にきつくなった。
「依夜ちゃんがそう思ってたの、全然気づいてなかったわけじゃない」
「……」
「でも、ちゃんと向き合ってなかったのは僕かもね」
やめてほしい。
そういうふうに、ちゃんとしたこと言うの。
あたしは別に、兄に反省してほしいわけでも、大人みたいな対応をしてほしいわけでもない。
ただ、勝手に惨めになって、勝手に苛立ってるだけなのに。
「……違う」
「違わないよ」
「違うって」
「依夜ちゃん」
「私は、別に……」
そこで言葉が途切れる。
何て言えばいいかわからない。
兄が悪いわけじゃない。
でも、兄がいると苦しい。
比べられてるのは周りなのに、目の前にその対象本人がいると、息苦しくなる。
そんなの、どう言えばいいんだ。
「……依夜さん」
小さな声。
メイベルだった。
見ると、今にも泣きそうな顔をしている。
「ああ、そりゃそうだよね」と思う。
こんな空気の真ん中にいたら、普通はそうなる。
「ご、ごめんなさい……」
「え」
「わ、わたしのせいで……」
「違う」
「で、でも……」
「違うから」
今度は、はっきり言えた。
メイベルのせいじゃない。
これはもっと前から、私の中にずっとあったやつだ。
兄が悪いわけでもなくて、メイベルが悪いわけでもなくて、多分あたしが勝手に抱えて、勝手にねじらせてるだけのもの。
「……ほんとに、違うから」
そう言うと、メイベルは少しだけ安心したように息を吐いた。
その顔を見て、私も少しだけ冷静になる。
朝輝が、やわらかく言った。
「今日は、僕ここで帰るよ」
「……え」
「このままついて行っても、依夜ちゃんにとってもメイベルちゃんにとっても落ち着かないでしょ」
「……」
「また今度、ちゃんと話そう」
そう言って、軽く手を振る。
「メイベルちゃんも、またね」
「は、はい……」
メイベルはぺこっと頭を下げた。
あたしは何も言えなかった。
朝輝は少しだけ笑って、それから背を向けて歩いていった。
その背中を見送りながら、胸の奥がもやもやする。
言いたいことは言った。多分。
でも、全然すっきりしない。
むしろ、余計にぐちゃぐちゃしただけだ。
◇ ◇ ◇
兄の姿が見えなくなってからも、しばらく私は黙っていた。
メイベルも黙っていた。
ただ、あたしの半歩後ろを、さっきより少しだけ近い距離で歩いている。
「……依夜さん」
「なに」
「お兄さまのこと……」
「……」
「すき、じゃないんですか……?」
その聞き方は、ずるいなと思った。
嫌いか好きかで答えられるなら、こんなに苦しくない。
嫌いじゃない。家族だし、多分普通に大事だ。
でも苦手で、腹が立って、比べられるとつらい。
そんなの、綺麗に言えるわけがない。
「……嫌いじゃないよ」
しばらくしてから、そう答えた。
「ただ、ちょっと」
「ちょっと?」
「……しんどい時があるだけ」
メイベルは何も言わなかった。
でも、しばらくしてから、そっとあたしの手の甲に指先で触れた。
びくっとして見ると、メイベルもびくっとした。
自分で触れておいて驚くな。
「ご、ごめんなさい……!」
「……別に」
「な、なにもできないので……」
「うん」
「せめて、近くにいたくて……」
またそういうことを言う。
でも今は、それが少しだけありがたかった。
だって、こいつは何も解決しない。
正しいことも言わないし、上手に慰めたりもしない。
ただ、近くにいるだけだ。
それが、今はちょうどよかった。
「……依夜さん」
「なに」
「わたし、よくわからないですけど……」
「うん」
「依夜さんがつらいなら、お兄さまがすごくても、今はあんまりえらくない気がします」
「……は?」
思わず変な声が出た。
メイベルは真剣な顔をしている。
多分本気でそう思ってる。
「だ、だって……」
「いや、理屈はめちゃくちゃだけど」
「そ、そうですか……?」
「うん」
「……」
「でも」
少しだけ、笑ってしまった。
「ありがと」
「……!」
メイベルの顔がぱっと明るくなる。
さっきまでどんよりしてたのに、現金だなあと思う。
でも、そのわかりやすさに救われる。
面倒で、重くて、放っておけない。
でも今は、その重さが少しだけ心地いい。
帰り道の空は、だいぶ夕焼けになっていた。
今日のあたしは、たぶんちょっと最低だった。
でも、その最低さを見られたあとでも、メイベルはまだあたしのそばにいる。
それが、少しだけ不思議で。
少しだけ、嬉しかった。
「依夜さん」
「なに」
「今日は、いつもより近くにいてもいいですか……?」
「……」
やっぱり重い。
でも、今はまあ。
「……少しだけなら」
そう言ったら、メイベルは泣きそうな顔で笑った。
ほんと、感情の振れ幅が忙しい。
けど、その忙しさのおかげで、さっきまでの最悪な気分が少しだけ薄れたのも事実だった。
正しいことは何も言わない。
慰め方もうまくない。
でも、ただ隣にいる。
今は、それで十分だった。




