64話(番外編 二人なら)
王宮の廊下は、元通りの質素な姿へと戻った。しかし、そこには、かつて失われていた誇り高さがあった。
エミーは一人、その廊下を歩いていた。足音だけが、かすかに響く静けさの中で、ふと、懐かしい声が蘇る。
『エミー、お前は好きなようにやりなさい。守りはすべて引き受ける』
厳しくも温かい父、エリックの声。
『本当に守りたいものがあるのなら、もう、我慢なんて必要ないのよ』
母アンジュが微笑みながら頭を撫でてくれた記憶。
『相応しいかどうかで選ぶな。自分がどうしたいかで選べ』
不器用に笑う兄アンソニー。
『エミー様は、私の自慢の義妹です』
優しく寄り添ってくれた義姉シンシア。
(でも、今ならわかる。その大切さが)
いつだって、家族はわたくしを見守ってくれていた。何が起きても味方でいてくれる。この絆こそが、わたくしの本当の居場所なのだ。
エミーは足を止め、窓の外をふと眺めた。
そこには、かつてとは違う景色が広がっている。
畑で働く民の姿、そして遠くから響く子どもたちの笑い声。
(これこそが、守るべき真の平和)
この平和な日常をもたらしたのは、他でもないライナーなのだ。そう思うと、エミーの心は誇らしさと温かさに満たされた。
そんな時、ふと、甘い香りが脳裏をよぎる。
母が焼いてくれる、あのアップルパイ。
(……今度は、わたくしがライナー様のために焼いて差し上げたいわ)
そんなことを考えて、思わず笑みがこぼれた。
その静かな余韻の中で、これまで積み重ねてきた日々に思いを馳せる。
厳しくも、時に孤独だった王妃教育。
そのすべてが、蘇る。
あの時間があったからこそ、今の自分があるのだと、ようやく思える。
(……無駄では、なかったのですね)
自分が歩んできた道は、決して間違っていなかった。
(そう、これからは民のため、そしてライナー様のために。学んできたことが、ようやく役に立つ)
その喜びが、胸の奥に静かに広がっていく。
そこまで考えた時だった。
「エミー、ここにいたのか」
後から穏やかな声がした。振り向けば、ライナーが立っている。
「陛下」
「だから、その呼び方はやめてくれないか」
思わず漏れたエミーの言葉に、彼は苦笑いを浮かべながら彼女の隣へと並んだ。
「私は、ようやく分かった気がする。国を動かすものが、何であるかを」
「……それは何でしたか?」
「だが、まだ、それは言葉にはしないでおこう」
「ええ。今はまだその方が、きっと良いのかもしれませんわ」
そう答えたエミーにライナーは、そっと手を差し出した。
「行こうか」
エミーはその手を見つめる。
かつての自分なら、ためらっていたかもしれない。だけど今は、迷いなくその手に自分の手を重ねた。
「はい。ライナー様」
その瞬間、ライナーの指が何かを確かめるように強く握り返された。
エミーはほんの少しだけ、彼の方へ身を寄せた。それはわずかな甘えの仕草。
その距離は、何もかもが伝わるほどに近かった。
二人は並んで歩き出す。
穏やかな日々は、しばらくは続くだろう。しかし、その平穏がいつまでなのかは、まだ誰にもわからない。
二人は、迫り来る隣国の決断に備え、この国を守り抜くと決めていた。
この時の二人は、まだ知らなかった。
いつか訪れる危機に直面した時、『民の支持』こそが本当の武器になり、国王自らが、プライドを捨ててまで民を潤した事実こそが、後に、国を守る大きな布石となることを。
しかし、たとえどんな困難が待ち受けようとも、今の二人には迷いはなかった。
「……ようやく、手に入れた気がするな。私の居場所を」
一瞬、立ち止まり、話すライナーの言葉に、エミーはゆっくりと頷いた。
「でしたら、これからは、わたくしもその場所を共に守らせてください」
ライナーは眩しそうに目を細めると、繋いだ手にさらに力を込めた。
「ならば私もその場所を生涯かけて一緒に守り抜こう」
(この平穏を実現させたライナー様には、家族と呼べる者はもう誰もいない。……だったら今度はわたくしが、あなたの家族となり、居場所となっていきますわ)
二人は再び歩き出す。
エミーにとっての居場所が、あの温かな家族であったように、今、その場所は、ライナーにとってもまた同じものとなりつつあった。
守るべきものが何なのか、帰るべき場所は何処なのか、それを知った二人は誰よりも強い。
だからこそ、その手を、もう二度と離すことはないと、二人は運命のように感じていた。




