63話(番外編 戦わない戦)
リハメル帝国、王城。
豪奢な大理石の床に、騒がしい足音が響いていた。
「お父様っ!」
勢いよく扉が開かれ、飛び込んできたのはメリッサ王女とその側近の者たちだった。
王女の姿は、出発の時とはまるで違っていた。
いつもの美しい髪は乱れ、華やかな衣装もどこかくたびれて見える。
「どうした、その格好は」
玉座に座る国王が、ゆっくりと娘である王女を見た。
「聞いてくださいませ! あの国は無礼にもほどがありますわ!」
メリッサは堰を切ったようにまくし立てる。
「わたくしの持ち込んだ宝飾品を勝手に取り上げ、復興資金などと言い換え、あげくの果てにはせっかく作らせた薔薇の庭園にジャガイモを植えるなどと! こんな屈辱、これまで一度も味わったことがありませんわ!」
怒りと悔しさで、声が震えていた。
王女が激昂する傍らで、一人の側近が震える手で一通の書状を差し出した。
「陛下。これがあちらから預かった親書にございます。手渡したのは、和平交渉の際、通訳を務めていた辺境伯の娘エミー殿……。あちらの若き王も、彼女には全幅の信頼を置いているようでございました」
「ほう」
国王は差し出された一通の書状を受け取った。
それは、エミーとライナーが夜通し考え抜いた親書だった。それをゆっくりと読み上げる。
部屋の空気が、にわかに変わっていく。
そして、最後まで読み終えた国王は、深く息を吐いた。
「……なるほどな」
「お父様!?」
メリッサが信じられないという顔で声を上げる。
「仕方あるまい」
国王は言った。
「今回の件は、お前の振る舞いに非がある。内容を見る限り、追放された前王妃と同じだ」
「そんな……! お父様だって賛成して送り出してくれたではないですか。それにあの女はなんなの! まるで王妃気取りじゃない!」
メリッサの顔から血の気が引いた。
「確かに、好きにしてこいと言って送り出したのは私だ。だがな、メリッサ」
国王は、自身の見通しの甘さを認めるかのような口ぶりだった。
「若造だと侮っていたが、奴め……。こちらが付け入る隙を、まったく与えてはくれなかった。お前のやり方が通じなかったのは、相手の方が一枚上手だった。ただそれだけのことだ」
その声には、父親としての優しさはあっても、やはり国を治める者としての、確固たる覚悟があった。
そして、ふっと口元を緩める。
「……いよいよ、侮れん国になるな」
思わず、苦笑が漏れた。
「あの王、ただの理想家ではないな。戦をせず、時間を稼ぐ気だ」
メリッサは何も言えず、ただ立ち尽くしている。
「我らが軍事に注ぎ込んだ大金は、戦わねばただの紙屑も同然。だが相手は、戦を避けることで民の税を下げ、支持を固め、着実に国を潤そうとしている」
国王は遠くを見るように目を細めた。
「戦死者が出なければ働き手も減らず、富は積み上がる一方だ。実に見事と言わざるを得ん。本当に食えない男だな」
その声には、わずかな愉快さすら混じっていた。
「面白い。戦わずして、国を強くするか」
そして、国王は、娘を見る。
「しばらくは大人しくしていろ。今は、こちらから動く時ではない。付け入る隙がないのだから、これ以上動くのは無意味だ」
その一言は、命令だった。
メリッサは唇を強く噛みしめた。
どうしても悔しさは消えない。しかし、理解してしまった。
自分は負けたのだと。
「あの女……絶対に許さない」
エミーの穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。
あの時、自分は確かに見下していたはずだった。それなのに。
(なぜ……あの女は、あんな顔ができるの……)
答えは出ない。
胸の奥に、これまで感じたことのない感情が残った。
それが憎しみなのか、悔しさなのか、あるいは……自分でもまだ、分からなかった。
国王は、その様子を黙って見ていた。
そして、わずかに目を細めた。
「あの女とは辺境伯の娘のことか」
メリッサを見る。
「……ふん、さすがはあの辺境伯の娘だ。通訳として場を支配して、和平を勝ち取ったか。あの親父には昔、我が軍も散々手こずらされたが……。どうやら娘の方も、食えない奴らしいな」
その声は静かだったが、どこか先を見据えていた。
「かつてはあの親父に手を焼き、今度はその娘と若き王が手を組んだか。まったく、揃いも揃って食えない連中だ。今後、ますます厄介な国を相手にすることになりそうだ」
それはまだ、戦ではない。だが……。
国王は、ふと遠くを見つめる。
『あの娘が王妃にでもなれば、いよいよ手出しはできんな。……奴らは武力ではなく、何か別のもので国を守ろうというのか。それが、民の心とでもいうのか……?』
その答えに辿り着きかけながらも、国王は口には出さなかった。
いつか本当の意味でその答えに辿り着いた時、国王はどう出るのか、今はまだ誰にもわからなかった。そう、国王本人さえ。




