59話(番外編 王として)
その日の夜、王宮は静まり返っていた。
昼間のざわめきが嘘のように、長い廊下には人の気配もない。
しかし、ただ一室だけ、灯りが消えていなかった。
それは執務室。
机の上には、書類がいくつも積まれている。
そのどれにも手をつけぬまま、ライナーは椅子に腰掛けていた。
(……答えは、分かっている)
思考は、何度も同じ結論に辿り着く。
婚姻を受ける。それが、最も確実で最も波風の立たぬ選択。
(王である以上、個の感情など、切り捨てるべきだ)
「……陛下」
その時、静かに扉が開き、宰相が入ってきた。
「遅くに、失礼いたします」
「構わぬ」
「……本件、いかがお考えですか」
問われるまでもない。だが、問われずにはいられぬ問い。
「……受けるべきだろうな。答えなどわかっている」
ゆっくりと、言葉にする。
「国のためには、それが最善だ」
「はい」
宰相は迷いなく頷いた。
「私も同意見にございます」
それが、正しい判断だと、誰もがそう思う。
「だが」
ライナーは、顔を上げた。
「それ以外に道はないのか」
その言葉に、宰相の目がわずかに細められる。そして、沈黙が落ちた。
それは、短くも、重い時間だった。
やがて。
「……ございます」
静かな答えだった。
「婚姻という形に頼らずとも、同盟をより強固にする道が」
ライナーの瞳が、信じられないものを見るように見開かれた
「ただし、それは容易ではありません」
「構わぬ」
即答した。
「言ってくれ」
宰相は心の中で思っていた。
かつてこの方を次期国王へと指名したのは、自分だ。
その責任は、この老いた身が尽きるまで背負うつもりでいる。
しかし、王という孤独な座に彼を据えたからこそ、せめてその傍らには、彼が心から望む女性を置いてやりたい。
愛する女性を失い、心まで摩り切れてしまうような再建など、自分が望んだ未来ではない。
そのための尽力ならば、どれほどでも惜しむつもりはなかった。
宰相は、ゆっくりと口を開く。
「陛下がかねてよりお考えの、側室制度の廃止。そして、王宮の簡素化。それにより民の税を軽くするというお考え」
言葉を一つ一つ、丁寧に説明していく。
「それを、ただの内政ではなく、国としての意思として隣国に示すのです」
ライナーは、思わず目を細めた。
「……なるほど」
ゆっくりと、言葉を噛みしめライナーが言葉を続ける。
「王族だけが贅沢をする時代は、もう終わった。私は、民と同じ痛みを分かち合える王でありたい」
その声には、確かな重みがあった。
「つまり、その覚悟を示す、ということか」
「はい、その通りにございます」
宰相は深く頷く。
「その上で申し上げるのです」
「婚姻という形に頼らずとも、互いの信頼と利益によって結ばれる関係こそが、真に長く続く同盟である、と」
ライナーは、しばらく動かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……いい案だ」
その瞳に、迷いはなかった。
「それならば、王女殿下に無用な負担を強いることもない。そして何より……」
(隣国は裕福な国だ。そこで大切に育てられた王女が質素、倹約のこれからの我が国で満足できるはずはないからな)
「人の人生を、国の都合で縛るような真似は、もう、過去のものとしたいのだ」
その言葉は、静かでありながらも、確かな重みを持っていた。
そしてライナーは、その『縛りたくない人生』の中に、他ならぬ自分自身も含まれているのだと自覚していた。王としてではなく、一人の男として生きたいという願いが、その一言に込められていた。
「では、これで決まりですな」
宰相は、わずかに笑みを浮かべる。そして、ライナーは、立ち上がった。
「明日、返答する」
もはや、迷いはない。選んだのは婚姻ではなく、信頼によって結ばれる道。
その決断が、この国の未来を、大きく変えることになる。




