私は何もしない
王宮から届いた召喚状を、私は何度も読み返した。
セレナ・アーデルハイト。
レオン・ヴァルディス。
二人の名前が並んでいる。
内容は簡潔だった。
「ヴァルディス侯爵家とアーデルハイト公爵家の商取引について、確認したい事項がある」
ただ、それだけ。
私はそれ以上を考えなかった。
王宮に行けば分かる。
そう思っていた。
翌朝。
私は王宮へ向かった。
謁見室に入る。
すでにレオンは来ていた。
その隣には、ヴァルディス侯爵。
レオンは私を見ると、少しだけ目を逸らした。
以前のような自信はない。
それでも。どこかにまだ。
「自分は被害者だ」という顔が残っていた。
私は二人から少し離れた場所に立った。
「セレナ・アーデルハイト」
「はい」
「レオン・ヴァルディス」
「はい」
国王陛下が私たちを見る。
「今日、ここに集まってもらったのは、両家の商取引について確認するためだ」
「承知しております」
レオンが答えた。
「まず、レオン」
「はい」
「お前は、アーデルハイト家が意図的にヴァルディス家との取引を制限していると主張しているな?」
「はい」
私は黙っていた。
「理由は?」
「婚約破棄への報復です」
レオンは答えた。
「セレナは、私が婚約を破棄したことを恨んでいます」
私は何も言わなかった。
「彼女は商会を使って、私たちの取引先に圧力をかけました」
国王陛下が私を見る。
「セレナ。何か言いたいことは?」
「ありません」
レオンがこちらを見る。
「……何?」
「事実ではありませんので」
「だったら否定しろ!」
「必要ありません」
「なぜだ!」
私は淡々と答えた。
「証拠があるからです」
宰相が書類を受け取った。
「これは?」
「ヴァルディス家との取引を断った理由を記録したものです」
宰相がページをめくる。
「信用状況」
「はい」
「支払い能力」
「はい」
「担保設定の拒否」
「はい」
「すべて記録されています」
レオンが声を上げた。
「そんなもの、後から作っただけだ!」
私はレオンを見た。
「では」
一枚の書類を差し出す。
「こちらをご確認ください」
財務長官が受け取る。
「……これは?」
「ヴァルディス家が私たちに送った最初の契約案です」
「日付は?」
「婚約破棄の二週間後です」
「なるほど」
私は続けた。
「この時点では、まだヴァルディス家との取引を制限していません」
レオンの顔が強張った。
「その後、資金状況が悪化しました」
「だから?」
「条件を変更しました」
「つまり、婚約破棄とは関係ないと?」
「はい」
レオンが怒鳴った。
「嘘だ!」
謁見室に声が響いた。
「俺は知っている!」
「何を?」
「セレナは俺を恨んでいる!」
私は少しだけ目を伏せた。
「それは、私の感情の話です」
「そうだろう!」
「でも」
私は顔を上げた。
「感情と契約は別です」
レオンは黙った。
「私は商人です」
「……」
「利益のない取引は断ります」
「……」
「危険な契約には条件を付けます」
「……」
「それだけです」
国王陛下が頷いた。
「分かった」
だがレオンは諦めなかった。
「しかし!」
彼は一歩前に出た。
「セレナは、私が困っていることを知っていました!」
「はい」
「それでも助けなかった!」
「はい」
「婚約者だったのに!」
「もう婚約者ではありません」
「……」
その言葉に。
レオンは固まった。
私は静かに続けた。
「婚約破棄を決めたのは、レオン様です」
「……」
「私は反対していません」
「……」
「ならば」
私は頭を下げた。
「その選択を、私に責任転嫁しないでください」
謁見室が静まり返った。
しばらく。誰も話さなかった。
やがて国王陛下が口を開いた。
「レオン」
「……はい」
「お前は、セレナ嬢に何を求めている?」
レオンは答えられなかった。
「婚約を破棄した」
「……」
「その後、商取引を断られた」
「……」
「だから、セレナ嬢が悪い?」
「……」
「それは違う」
国王陛下の声は静かだった。
「お前が求めているのは、彼女の助けではない」
レオンが顔を上げる。
「自分の選択の結果を、彼女に背負わせることだ」
「違います!」
「ならば説明してみろ」
レオンは口を開いた。
しかし言葉が出てこない。
その姿を見て私は少しだけ悲しくなった。
昔、私はこの人と結婚すると思っていた。
一緒に暮らし。家を支え。歳を重ねる。
そんな未来を想像したこともある。
今は、遠い昔の話に感じる。
国王陛下が言った。
「財務長官」
「はい」
「ヴァルディス家の財務状況を報告せよ」
財務長官が書類を開いた。
「現在、ヴァルディス家は複数の商会に対して支払いを滞らせています」
レオンの顔色が変わった。
「そんな……」
「また、鉱山関連の契約についても、今後の支払い能力に問題があると判断されています」
侯爵が目を閉じた。
「さらに」
財務長官は続けた。
「ヴァルディス家は、アーデルハイト家との関係修復を前提とした虚偽の説明を複数の商人に行っています」
「……」
「これにより、複数の商人がヴァルディス家への信用を失っています」
私は黙って聞いていた。
私の名前が使われた。
その結果商人たちが離れた。
それは私の責任ではない。
レオン自身の選択だった。
「以上です」
財務長官が報告を終えた。
国王陛下は長い沈黙の後。
「ヴァルディス侯爵」
「はい」
「お前はどう思う?」
侯爵は深く頭を下げた。
「……申し訳ございません」
「誰に?」
「国王陛下に」
「違う」
侯爵は少しだけ顔を上げた。
国王陛下は私を見た。
「セレナ嬢にだ」
侯爵は私を見た。
「……セレナ嬢」
「はい」
「すまなかった」
私は首を振った。
「お気になさらないでください」
「だが」
「もう終わったことです」
「……」
侯爵は目を伏せた。
「お前は、本当に……」
その先は言わなかった。私は何も言わなかった。
そして。最後に。
国王陛下がレオンを見た。
「レオン」
「はい」
「お前はヴァルディス侯爵家の次期当主として、適切ではない」
「……」
「王家としても、これ以上見過ごすことはできない」
レオンの顔から血の気が引いた。
「待ってください」
「何だ?」
「俺は……」
「言い訳は必要ない」
「ですが!」
「もう十分だ」
国王陛下は静かに言った。
「お前が選んだ道の結果だ」
レオンは何も言えなかった。
私はその場で深く頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
「セレナ嬢」
国王陛下が呼び止めた。
「はい」
「お前は、これからどうする?」
私は少し考えた。
「仕事を続けます」
「それだけか?」
「はい」
「レオンについては?」
「何もしません」
国王陛下は少し笑った。
「そうか」
私は謁見室を出た。
廊下を歩く。
窓から差し込む光が眩しかった。
これで終わり。そう思った。
だが外に出ると。
レオンが待っていた。
「セレナ」
私は立ち止まった。
「何でしょう?」
「……俺を助けてくれ」
その言葉に私は何も答えられなかった。
「頼む」
「……」
「君ならできるだろう」
「何を?」
「アーデルハイト家から、取引を少し戻してくれ」
「できません」
「なぜ!」
「必要がないからです」
「俺の家が潰れる!」
「それは」
私はレオンを見た。
「私の責任ではありません」
「……」
「レオン様」
「何だ?」
「一つだけ、お伝えします」
「……」
「私は、あなたに復讐しているわけではありません」
「だったら!」
「あなたの人生を、私の人生にしないでください」
レオンは黙った。
「私には、私の仕事があります」
「……」
「私の人生があります」
「……」
「あなたにも、あなたの人生があります」
私は頭を下げた。
「どうか、ご自分で向き合ってください」
そのまま歩き出した。
後ろから。
レオンの声は聞こえなかった。
屋敷へ戻ると父が待っていた。
「どうだった?」
「終わりました」
「そうか」
「レオン様は、次期当主の資格を失うことになりました」
父は黙った。
「そうか」
「……」
「お前は?」
「私は何もしていません」
父は少し笑った。
「そうだな」
「ただ仕事をしただけです」
「ああ」
父は頷いた。
「それが一番いい」
その日の夜。
私は自分の部屋で帳簿を開いた。
いつも通り数字を確認する。契約を整理する。明日の予定を確認する。
何も変わらない。
婚約者だった人が家を失いかけている。次期当主の座を失った。商会も危機にある。
それでも。
私は帳簿を閉じなかった。
私は彼を助けない。
でも彼を傷つけるためにも動かない。
ただ自分の人生を生きる。
それだけ。
翌朝。
商会に出勤した私を待っていたのは見慣れない一通の手紙だった。
封蝋には王家の紋章。
私は封を切った。
中には一枚の紙。
――ヴァルディス侯爵家、当主変更に関する王命。




