私の仕事
婚約を破棄されてから、三か月が経った。
私の生活は、驚くほど変わらなかった。
朝起きる。
朝食を取る。
商会へ行く。
帳簿を確認する。
契約書を読む。
必要があれば商人と話をする。
問題があれば解決する。
以前と違うのは。
そこに、ヴァルディス家の名前がなくなったことだけだった。
「セレナ様」
商会の若い職員が、書類を持って私のところへやってきた。
「北部の輸送業者から返事が届きました」
「条件は?」
「昨年より輸送費が8パーセント上がっています」
「理由は?」
「街道の整備費用が増えたためだそうです」
私は書類を受け取った。
「8パーセントは高すぎます」
「やはり、そう思われますか?」
「はい」
私は地図を広げた。
「この業者は北部から王都まで直接運んでいますね」
「はい」
「途中に、この街があります」
地図を指差す。
「ここで一度積み替えれば、距離は短くなります」
「ですが、積み替え費用が発生します」
「それでも計算してみてください」
「はい」
職員が頷く。
「それから」
私は別の書類を取り出した。
「この業者との契約期間は?」
「一年です」
「長いですね」
「どうされますか?」
「半年にしてください」
「半年?」
「現在は輸送費が上がっています。しかし、街道整備が終われば価格が下がる可能性があります」
「なるほど」
「一年間、高い料金で固定する必要はありません」
職員は頷いた。
「分かりました」
彼が去っていく。
私は次の書類を開いた。
仕事は尽きない。
昔は、それが嫌ではなかった。
むしろ好きだった。
数字を追い、問題を見つけ、解決する。
努力した分だけ、結果が返ってくる。
人の感情と違って、数字は分かりやすい。
だから私は商売が好きだった。
その日の夕方。
父が商会にやってきた。
「セレナ」
「お父様」
「少し時間をいいか?」
「もちろんです」
私は書類を片付けた。
父は向かいの椅子に座った。
「最近、忙しいようだな」
「仕事が増えましたから」
「ヴァルディス家との婚約がなくなってから、むしろ仕事が増えたな」
私は少し笑った。
「そうですね」
「後悔しているか?」
「何をです?」
「婚約破棄のことだ」
私は少し考えた。
「いいえ」
即答だった。
父は安心したように頷いた。
「そうか」
「最初は少し寂しかったです」
「……」
「でも、それだけです」
「レオン殿のことは?」
「もう終わったことです」
私は窓の外を見た。
「彼には彼の人生があります」
「お前には?」
「私にもあります」
父は笑った。
「強くなったな」
「昔からこうですよ」
「そうだったか?」
「そうです」
「いや」
父は首を振った。
「昔のお前は、もう少し他人のことを気にしていた」
私は返事をしなかった。
それは自覚していた。
私は以前、レオンのことをかなり気にしていた。
彼が商会の仕事を知らないなら、私が支えればいい。
彼が数字を苦手とするなら、私が補えばいい。
彼が領地経営を知らないなら、私が教えればいい。
そう思っていた。
結婚すれば二人で家を支えるものだと思っていたから。
でも、それは私の勝手な考えだった。
レオンは。
私と一緒に家を支えたいとは思っていなかった。
なら、私が無理に支える必要もない。
「お父様」
「何だ?」
「一つお願いがあります」
「言ってみなさい」
「今後、ヴァルディス家に関する仕事を私に回さないでください」
父は少し驚いた。
「もちろんだ」
「ありがとうございます」
「だが」
「はい」
「仕事として依頼された場合は?」
私は少し考えた。
「条件がよければ受けます」
父は笑った。
「お前らしいな」
翌週。
本当に、その話が来た。
「セレナ様」
商会長のマルセルが訪ねてきた。
「ヴァルディス商会から、契約について相談が来ています」
私はペンを止めた。
「内容は?」
「鉄鉱石の輸送契約です」
「条件を見せてください」
書類を受け取る。
私は黙って読み込んだ。
条件は悪くない。
むしろヴァルディス家がこちらにかなり譲歩している。
「受けてもいいでしょう」
マルセルが少し驚いた。
「本当に?」
「はい」
「ヴァルディス家ですよ?」
「知っています」
「以前の婚約者の家ですが」
「それも知っています」
「……何も思わないのですか?」
私は顔を上げた。
「何を?」
「レオン様のことです」
「仕事と個人的な感情を混ぜるつもりはありません」
マルセルは苦笑した。
「セレナ様らしいですね」
「ただし」
私は契約書を指差した。
「この条件なら受けますが、支払い期限を短くしてください」
「三十日ですか?」
「十五日」
「かなり厳しいですね」
「ヴァルディス家の信用状況を考えれば当然です」
マルセルは黙った。
「それと、担保を設定してください」
「そこまで?」
「商売ですから」
「分かりました」
私は契約書を返した。
「それでお願いします」
このとき私はまだ知らなかった。
この契約がヴァルディス家にとって最後の重要な取引の一つになることを。
数週間後。
ヴァルディス家からの支払いが届いた。
期限内だった。
私は確認して、帳簿に記録した。
それだけ。
本当に、それだけだった。
ところがその日の午後。
商会長のマルセルが血相を変えて飛び込んできた。
「セレナ様!」
「どうしました?」
「ヴァルディス家から、次の契約について相談が来ています」
「何か問題が?」
「いえ」
マルセルは書類を差し出した。
「むしろ、今まで以上に大きな契約です」
私は内容を確認した。
鉄鉱石だけではない。
木材。小麦。薬草。
複数の商品を一括して取引したいという話だった。
「かなり大きいですね」
「はい」
「ヴァルディス家の資金は?」
「厳しいようです」
「なら、受けません」
即答した。
マルセルが目を丸くする。
「条件を見ずに?」
「資金が厳しいなら、規模を広げるべきではありません」
「ですが、この契約を受ければ――」
「短期的には利益が出るでしょう」
私は書類を閉じた。
「しかし、支払いが滞ればこちらも損失を受けます」
「……」
「お断りしてください」
マルセルは頷いた。
「承知しました」
翌日。
ヴァルディス家から抗議が来た。
「なぜ契約を断ったのか」と。
私は書面で答えた。
『現在の信用状況では、当商会が負うリスクが大きいため』
それだけ。
数日後。さらに別の契約を持ち込まれた。
私は断った。
また来た。
断った。
そして。
その繰り返しが続いた。
私は冷静に判断していた。
感情は関係ない。
ヴァルディス家だから断るのではない。
信用状況が悪いから断る。
それだけだった。
しかし、王都では別の話になっていたらしい。
「セレナ嬢がヴァルディス家への取引を意図的に妨害している」
そんな噂が流れ始めた。
私は気にしなかった。
事実ではないからだ。
父も気にする必要はないと言った。
「噂は放っておけばいい」
「はい」
「ただし」
父は真剣な顔をした。
「ヴァルディス家が、お前を悪者にする可能性はある」
「それなら、証拠を残します」
「何の?」
「契約を断った理由です」
私はすべての書類を保存していた。
契約条件。信用調査。資金繰り。
こちらが提示した代替案。
全部。
「それでいい」
父は頷いた。
「お前は本当に商売人になったな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
私は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
その頃。
王都では、ヴァルディス家の問題が大きくなっていた。
商会の資金繰りが悪化している。
鉱山からの仕入れが安定しない。
王宮からの契約も減っている。
それでも。私は何もしなかった。
助けようとは思わなかった。
邪魔もしなかった。
ただ、自分の仕事をしていた。
ある日の夕方。
商会を出ようとすると入口に一人の男性が立っていた。
レオンだった。
「セレナ」
「レオン様」
以前より痩せている。
服も、少し質素になっていた。
「少し話せないか?」
「仕事があります」
「五分だけでいい」
私は時計を見た。
「五分なら」
「ありがとう」
私たちは商会の近くにある小さな庭へ移動した。
レオンはしばらく黙っていた。
「……ヴァルディス家が苦しい」
「聞いています」
「君のところで、もう少し取引を増やしてくれないか?」
「難しいです」
「なぜ?」
「信用状況が改善していません」
「でも、支払いはしただろう」
「前回の契約は問題ありませんでした」
「なら、次も大丈夫だ」
「それは保証できません」
レオンは苛立ったように眉を寄せた。
「君は昔からそうだ」
「何がです?」
「数字ばかり見ている」
私は黙った。
「人間を見ろよ」
その言葉を聞いて。
少しだけ悲しくなった。
「レオン様」
「何だ?」
「私は、あなたと婚約していた頃から、人間を見ていました」
「……」
「だからこそ、ヴァルディス家が困らないように仕事をしていました」
レオンは何も言わなかった。
「でも」
私は続けた。
「もう私は、ヴァルディス家の人間ではありません」
「……」
「だから、今は自分の家を優先します」
レオンは俯いた。
「俺が悪かったのか?」
私は答えなかった。
「セレナ」
「……」
「俺は、何を間違えた?」
その質問に私はすぐには答えられなかった。
そして少し考えてから言った。
「私には分かりません」
「……」
「私はレオン様の人生を生きているわけではありませんから」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、君は俺を恨んでいるのか?」
私は首を振った。
「いいえ」
「どうして?」
「恨むほど、もう近い存在ではありませんから」
レオンは顔を上げた。
その表情を見て。
私は初めて。
少しだけ胸が痛んだ。
でも。それでも。
私は戻らなかった。
「五分経ちました」
「……ああ」
「失礼します」
私はその場を離れた。
翌朝。
商会に出勤すると机の上に一枚の書類が置かれていた。
王宮からの通知だった。
アーデルハイト家が、王国の主要資源供給計画に参加することになったという。
私は内容を確認した。
王家が求めているのは、安定した供給、適正価格、長期的な資源確保。
私たちの商会が積み重ねてきた仕事が、評価されたのだ。
父も喜んでいた。
商会の人間たちも喜んでいた。
私も嬉しかった。
婚約破棄とは関係ない。
レオンとも関係ない。
ただ自分が積み上げてきたものが認められたことが嬉しかった。
その日の夜。
私は一人で帳簿を整理していた。
ふと昔の帳簿が目に入った。
ヴァルディス家のもの。
もう返す必要はない。
でも私は捨てずに保管していた。
ページをめくる。
そこには。
昔の私の字が並んでいた。
『鉄鉱石の仕入れ価格上昇に注意』
『輸送経路の変更を推奨』
『来年度の小麦価格上昇を予測』
そして一番最後のページ。
そこには。
『ヴァルディス家の今後のために』
と書かれていた。
私はその文字をしばらく見つめた。
そして。
静かに帳簿を閉じた。
もう必要ない。
私は立ち上がった。
窓の外を見る。
王都の灯りが広がっている。
そのどこかにレオンもいるのだろう。
でも私はもう探さない。
私は私の人生を生きる。
それだけでいい。
ところがその翌朝。
王宮から、思いもよらない知らせが届いた。
「セレナ様」
使者が頭を下げる。
「国王陛下から、お話がございます」
「私に?」
「はい」
「内容は?」
使者は一瞬だけ言葉を濁した。
「ヴァルディス侯爵家についてです」
私は黙った。
「……分かりました」
嫌な予感がした。
だが、このときの私はまだ知らなかった。
レオンが自分を救うために。
私の名前を使い始めていることを。




