婚約破棄
セレナ視点です。
「セレナ。君との婚約を破棄したい」
その言葉を聞いたとき、私は驚かなかった。
むしろ、ようやくかと思った。
レオン・ヴァルディス。
私の婚約者。
侯爵家の嫡男であり、将来はヴァルディス侯爵家の当主になる人。
幼い頃から家同士の取り決めによって婚約していた。
彼と結婚することに、私は特別な期待を抱いていたわけではない。
恋愛結婚に憧れていたわけでもない。
貴族同士の結婚など、そんなものだと思っていた。
家と家を繋ぐ。
互いの利益を守る。
そして、跡継ぎを残す。
それで十分だと思っていた。
だから私は、婚約者としてできることをしてきた。
ヴァルディス家の商会が扱う鉱石の価格を調べた。
領地の農作物の収穫量を確認した。
商人たちの契約書を読み込んだ。
輸送費を計算し、無駄な経路を見直した。
最初は誰に頼まれたわけでもなかった。
ただ、気になったのだ。
ヴァルディス家は大きな家だった。
領地も広い。
商会も複数ある。
鉱山も所有している。
それなのに、利益が思ったほど残っていない。
理由を調べてみると、いくつもの小さな無駄が積み重なっていた。
私はそれを一つずつ整理した。
父に相談すると、最初は笑われた。
「セレナ、お前は本当にこういうことが好きだな」
「嫌いではありません」
「十三歳の娘が商会の帳簿を見るなんて、普通ではないぞ」
「そうでしょうか」
「普通はもっと別のことに興味を持つものだ」
私は少し考えてから答えた。
「でも、数字は嘘をつきませんから」
父は苦笑していた。
その後。
ヴァルディス家からも、私の提案について相談されるようになった。
私はできる限り答えた。
その結果、少しずつヴァルディス家の収益は改善していった。
父は喜んでくれた。
ヴァルディス侯爵も、私に感謝してくれた。
ただ一人。レオンだけは、何も知らなかった。
いや。正確には。
知ろうとしなかった。
彼が商会のことに興味を持たないことを、私は責めなかった。
貴族の跡継ぎだからといって、全員が商売に向いているわけではない。
彼には彼の得意なことがある。
剣術。社交。人付き合い。
そういうものは、私には苦手だった。
だから私たちは、それぞれ違う役割を担えばいい。
そう思っていた。
それでも少しだけ期待していたことがある。
いつか。
彼が私の仕事を知ってくれたら。
「ありがとう」
その一言を言ってくれたら。
それで十分だった。
だが。その日は来なかった。
「君とは結婚できない」
レオンは、もう一度言った。
私は彼の隣に立つ女性を見た。
リリア・フェルネス。
最近、社交界で彼と一緒にいる姿をよく見かける女性だった。
柔らかな笑顔。華やかなドレス。人当たりのいい性格。
私とは正反対だ。
「リリア嬢と結婚するつもりなのですね」
「ああ」
レオンは迷いなく答えた。
「彼女のほうが、俺には合っている」
「そうですか」
「君は……」
そこで彼は言葉を止めた。
「何でしょう?」
「いや」
言いにくそうにしてから、彼は言った。
「君は、少し堅すぎるんだ」
私は黙っていた。
「いつも仕事や帳簿の話ばかりだ」
「そうでしたか」
「結婚した後も、そんな生活をするつもりなのか?」
「家の仕事ですから」
「俺は、そんなものに興味はない」
私は少しだけ考えた。
それなら仕方がない。
価値観が違っただけだ。
「分かりました」
「……それだけか?」
レオンが不思議そうな顔をした。
「何がです?」
「もっと怒らないのか?」
「怒る必要がありますか?」
「婚約を破棄されるんだぞ」
「そうですね」
私は微笑んだ。
「ですが、レオン様が望んでいるのでしょう?」
「……ああ」
「でしたら、私は反対しません」
レオンは拍子抜けしたようだった。
「本当に?」
「はい」
「俺を責めないのか?」
「責めても婚約が続くわけではありません」
「……」
「それに」
私はリリアを見た。
「レオン様が彼女を選んだのなら、それが一番いいと思います」
リリアは少し驚いたような顔をした。
そして、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お礼を言われることではありません」
私はそう答えた。
これで終わり。そう思った。
でも。その日の夜。
私は自分の部屋で、一人になってから初めて胸が痛んだ。
泣くほどではなかった。
ただ、少しだけ寂しかった。
私は机の引き出しを開けた。
中には、古い帳簿が何冊も入っている。
その一番上にレオンの名前を書いた紙があった。
婚約してから今日まで。
ヴァルディス家の商会について、私が調べてきた記録だった。
鉱山の契約。輸送経路。農地の収穫量。商会ごとの利益。改善案。
私は何年もかけて整理してきた。
これを渡せばレオンはきっと困らない。
婚約がなくなったとしても。
ヴァルディス家が困ることはない。
私はそう思った。
だから。翌朝、私はヴァルディス侯爵に会いに行った。
「セレナ嬢」
「今までありがとうございました」
侯爵は何も言わなかった。
「婚約がなくなった以上、私がヴァルディス家の仕事に関わる理由もありません」
「……そうだな」
「ですが、これまで私がまとめていた資料を置いていきます」
私は大量の書類を机の上に置いた。
「鉱山契約についての注意点。輸送経路の変更案。来年以降の小麦価格の予測。商会ごとの収支。
すべてまとめてあります」
侯爵は書類を一枚ずつ見た。
「セレナ嬢」
「はい」
「本当に、これを置いていくのか?」
「はい」
「貴女が何年もかけて作ったものだろう」
「ヴァルディス家のために作ったものですから」
「……そうか」
侯爵は深く頭を下げた。
「すまない」
「謝らないでください」
「だが」
「私は、自分が必要とされている場所で仕事をするだけです」
そう言って。
私はヴァルディス侯爵邸を出た。
馬車の中で、窓の外を見る。
これで終わり。
私はそう思っていた。
ところが、三日後。
父から一通の手紙が届いた。
『セレナへ。アーデルハイト家の商会で、お前に任せたい仕事がある』
私は少し考えてから、返事を書いた。
『承知しました』
それだけだった。
私は仕事を始めた。
ヴァルディス家とは関係のない仕事。
自分の家のための仕事。
最初は、小さな契約だった。
けれど。一つ成功すると、次の仕事を任された。
それを終えると、また別の仕事が来た。
気づけば。私は以前より忙しくなっていた。
そしてある日。父が言った。
「セレナ」
「はい」
「鉱山会社から、新しい契約の相談が来ている」
「どこの鉱山ですか?」
「ヴァルディス家が以前契約していたところだ」
私は一瞬だけ手を止めた。
「……そうですか」
「どうする?」
私は契約書を確認した。
条件は悪くない。むしろこちらにとってかなり有利だった。
「受けましょう」
「いいのか?」
「はい」
「ヴァルディス家が困るぞ」
「契約条件がこちらに有利だから受けるだけです」
私は淡々と答えた。
「仕事に、昔の婚約者は関係ありません」
父は笑った。
「そうだな」
その後。
私はいくつもの契約を結んだ。
鉱山。農地。輸送。商会。
気づけば、アーデルハイト家の商業規模は以前より大きくなっていた。
そしてある日のこと。
街でレオンと再会した。
彼は一人だった。
以前のような高価な服を着ている。
だがどこか疲れて見えた。
「セレナ」
「お久しぶりです」
「……ああ」
少し沈黙が続いた。
「元気そうだな」
「ありがとうございます」
「仕事は?」
「順調です」
「そうか」
レオンは苦笑した。
「君は変わらないな」
「そうでしょうか」
「いや」
彼は首を振った。
「変わった」
私は黙った。
「前より、楽しそうだ」
私は少し考えた。
「そうかもしれません」
「俺は……」
レオンが何か言おうとした。
でも。
私は待たなかった。
「申し訳ありません」
「え?」
「次の予定がありますので」
「セレナ」
「失礼します」
私は頭を下げて、その場を離れた。
振り返らなかった。
もう。振り返る必要がなかったから。
私がレオンを恨んでいるのかと聞かれたら、たぶん、違う。
怒っているのかと聞かれても、もう、よく分からない。
ただ、
彼が選んだ道と、
私が選んだ道が、
別々になっただけ。
それだけのことだ。
そして、それでいいと思っている。
私は今日も仕事をする。
帳簿を開き。契約書を読み。数字を確認する。
昔と何も変わらない。
ただ一つ違うことがある。
今は。
自分のためにやっている。
それだけだった。




