誰も俺を必要としない
「まだ、そう言うのか」
父の言葉が、執務室に響いた。
俺は何も言えなかった。
父が俺を見る目は、今までとは違っていた。
怒っているわけではない。憎んでいるわけでもない。
もっと冷たい。
諦めている。そういう目だった。
「父上……」
「何だ」
「王家の再審査というのは、本当に……」
「本当だ」
「でも、俺は侯爵家の嫡男です」
「知っている」
「なら、なぜ?」
「お前が嫡男だからだ」
意味が分からなかった。
「嫡男だからこそ、能力を問われている」
父は一枚の書類を取り出した。
「王家は、ヴァルディス侯爵家の資産状況と商会の経営状態を調査している」
「……」
「お前が次期当主として適切かどうかを判断するためにな」
「そんな……」
俺は書類を握りしめた。
「誰がこんなことを?」
「王家だ」
「セレナが裏で手を回したんでしょう?」
父は答えなかった。
「違うんですか?」
「セレナ嬢は、王家にお前を罷免してくれなどとは頼んでいない」
「でも!」
「お前はまだ分からないのか」
父は深く息を吐いた。
「セレナ嬢は、お前を潰しているのではない」
「……」
「お前が勝手に潰れているだけだ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
俺は立ち上がった。
「俺は何も悪いことをしていません」
「そうか」
「婚約を破棄しただけです」
「そうだな」
「自分の人生を選んだだけです」
「そうだ」
「なら、どうしてこんなことになるんですか!」
父はしばらく俺を見ていた。
そして静かに答えた。
「お前が選んだ相手が、セレナ嬢より優れていると思ったからだろう」
「……何の話です?」
「お前はリリア嬢を選んだ」
「それが何です?」
「なら、その選択に責任を持て」
「……」
「セレナ嬢を捨てたことではない」
父は机の上の書類を指した。
「捨てた後に何をしたかだ」
俺は黙った。
「彼女の仕事を知らなかった」
「……」
「彼女が我が家を支えていたことも知らなかった」
「……」
「それなのに、問題が起きると彼女を疑い、王都で噂を流した」
「俺は――」
「まだ言い訳をするのか?」
父の声が鋭くなる。
「お前が十三歳のセレナ嬢よりも、何を知っていた?」
俺は答えられなかった。
「鉱山のことを知っていたか?」
「……」
「商会のことを知っていたか?」
「……」
「領地のことを知っていたか?」
「……」
「王国内の資源流通について?」
「……」
「何も知らなかっただろう」
俺は拳を握った。
「それでも俺は嫡男です」
「だから、王家が再審査するのだ」
「父上は俺を追い出したいんですか?」
「違う」
父は首を振った。
「私はお前を息子として守りたい」
「なら、助けてください」
「もう一度聞く」
父は俺を見た。
「お前は本当に、自分が悪くないと思っているのか?」
俺は答えられなかった。答えたくなかった。
その日の午後。俺は屋敷を出た。
行く場所は一つしかなかった。
リリアのところだ。彼女なら俺を理解してくれる。
俺はそう思っていた。
フェルネス伯爵邸へ向かう。
だが、門の前で止められた。
「レオン様」
「リリアに会いたい」
「申し訳ありません」
「なぜだ?」
「リリア様から、しばらく会いたくないと伝言を受けております」
「俺は彼女の婚約者だ」
「正式な婚約は成立しておりません」
「……」
「お引き取りください」
俺は門を睨んだ。
「リリア!」
声を上げる。
「リリア!」
返事はない。窓を見上げても、誰もいない。
俺は拳を握った。
「……分かった」
俺は馬車に戻った。
その途中。街の中で、ある光景が目に入った。
アーデルハイト家の紋章を掲げた馬車だった。
周囲には商人や職人が集まっている。
皆、笑顔だった。
馬車から降りた人物を見て、俺は息を止めた。
セレナだった。
彼女は一人の老人に声をかけている。
老人は何度も頭を下げていた。
「セレナ様、本当にありがとうございます」
「お礼は必要ありません」
「しかし、これで工房を続けられます」
「契約通りに仕事をしていただければ、それで十分です」
その会話が聞こえた。
俺は馬車の中から、じっと見つめていた。
セレナの周りには、人が集まっている。
商人。職人。役人。貴族。
誰もが彼女を頼っている。
俺とは違う。
俺の周りからは、人が離れていく。
セレナの周りには、人が集まっている。
その差が、どうしようもなく腹立たしかった。
俺は馬車を降りた。
「セレナ!」
彼女がこちらを見る。
周囲の人々がざわめいた。
「レオン様……」
セレナは驚いた様子もなく、俺を見た。
「何でしょう?」
「話がある」
「私はありません」
「俺にはある」
「……」
「少しだけでいい」
セレナは周囲を見た。
「分かりました」
俺たちは人の少ない場所へ移動した。
「何です?」
「どうしてだ?」
「何がです?」
「どうして、ここまで俺を追い詰める?」
セレナは黙っていた。
「俺の家が危ない」
「そうですか」
「商会も潰れかけている」
「……」
「王宮からも警戒されている」
「そうですか」
「リリアにも見捨てられた」
そこで初めて。セレナの表情がわずかに変わった。
だが、同情ではなかった。
「それは、私には関係ありません」
「なぜだ!」
俺は声を荒らげた。
「俺たちは婚約者だっただろう!」
「過去の話です」
「それだけか?」
「はい」
「俺が何をしたか忘れたのか?」
セレナは静かに答えた。
「忘れてはいません」
「なら――」
「だからこそ、もう戻れません」
俺は黙った。
「レオン様」
セレナはまっすぐ俺を見た。
「私は、あなたに復讐しているつもりはありません」
「……」
「あなたの家を潰そうとも思っていません」
「なら、助けてくれ」
俺は初めて。その言葉を口にした。
「セレナ」
自分でも分かるほど、声が弱かった。
「頼む」
セレナは黙っている。
「鉱山の契約を少し戻してくれ」
「できません」
「なぜ?」
「契約済みだからです」
「なら、別の方法を――」
「ありません」
「俺たちは昔――」
「昔の話はやめましょう」
「……」
「レオン様」
セレナの声は、静かだった。
「私はあなたを恨んでいません」
その言葉が、なぜか一番苦しかった。
「恨んでくれたほうが、まだよかった」
「……」
「でも、私はもう何とも思っていません」
俺は息を止めた。
「あなたは私にとって、もう過去の人です」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが崩れた。
怒りではない。悲しみでもない。もっと空虚なものだった。
俺はずっと、セレナが俺を憎んでいると思っていた。だからこそ、俺は彼女と戦っているつもりだった。
だが違った。
彼女は戦ってすらいなかった。
俺一人で勝手に戦っていた。
「……帰る」
俺は背を向けた。
「レオン様」
振り返らない。
「一つだけ」
セレナの声が聞こえた。
「どうか、ご自身の人生を大切になさってください」
俺は答えなかった。
馬車へ戻った。
その夜。屋敷に戻ると、父が待っていた。
「どこへ行っていた?」
「セレナに会ってきました」
「そうか」
「何もしてくれませんでした」
「当然だ」
「……」
「お前は何を期待していた?」
俺は答えなかった。
父は一枚の紙を差し出した。
「これを見ろ」
俺は受け取る。
王家からの再審査結果だった。
そこには、俺の次期当主としての資格について書かれていた。
「……保留?」
「そうだ」
「まだ決まっていない?」
「そうだ」
俺は安堵した。
まだ終わっていない。
「なら、俺はまだ侯爵家の嫡男です」
「そうだ」
「なら、やり直せる」
父は何も言わなかった。
「商会も立て直します」
「……」
「鉱山も探す」
「……」
「王宮との関係も戻す」
「……」
「俺はまだ――」
「レオン」
父が遮った。
「一つだけ言っておく」
「何です?」
「お前に残された時間は長くない」
「分かっています」
「違う」
父は首を振った。
「お前は、まだ何も分かっていない」
その翌週。
王家の再審査が行われた。
俺は必死だった。
これまで避けていた帳簿にも目を通した。
商会の人間に話を聞いた。
鉱山について調べた。
だが。何を調べても、分からないことばかりだった。
そこで初めて気づいた。
セレナが何年もかけて積み上げてきたものを。
俺は、たった数週間で壊した。
しかも。壊したことにすら気づいていなかった。
再審査の日。
王宮に呼ばれた俺は、一人で謁見室に入った。
国王。宰相。財務長官。
そして、父。
「レオン・ヴァルディス」
「はい」
「審査結果を伝える」
俺は息を飲んだ。
「お前の次期当主としての資格を剥奪する」
「……」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「待ってください」
「決定だ」
「ですが!」
「お前には、侯爵家を率いるために必要な能力が不足している」
「そんな……」
「さらに」
国王は続けた。
「お前が流したアーデルハイト家への虚偽の噂について、王家は重大な問題と判断した」
「……」
「王都での政治活動を一年間禁止する」
「一年……」
「また、ヴァルディス侯爵家の当主には、父君が引き続き就任する」
俺は父を見た。
父は何も言わない。
「俺は……」
声が震えた。
「俺は、これからどうなるんです?」
国王は答えなかった。
宰相が代わりに言った。
「何をするかは、お前自身が決めることだ」
謁見室を出る。
俺は何度も振り返った。
誰も追ってこない。誰も声をかけない。誰も慰めてくれない。
王宮を出る。
外は晴れていた。街には人が溢れている。
商人が笑っている。職人が働いている。子供が走っている。
世界は何も変わっていない。
変わったのは。俺だけだった。
屋敷に戻ると、荷物がまとめられていた。
「何だ、これは?」
使用人が答える。
「旦那様からのご指示です」
「何の?」
「別邸へ移っていただくとのことです」
「別邸?」
「はい」
「俺はこの屋敷の嫡男だぞ!」
使用人は黙った。
「聞こえないのか!」
「……申し訳ありません」
その言葉に、以前のような畏れはなかった。
ただの業務的な返事。
それが一番つらかった。
俺は自室に戻った。
壁に飾られていた剣。社交界で貰った記念品。昔の友人からの贈り物。
婚約時代にセレナから貰ったもの。
その中に、一つだけ。
小さな箱があった。
俺は蓋を開けた。
中には、古いペンが入っていた。
セレナから貰ったものだった。
婚約したばかりの頃。
「仕事をするときに使ってください」
そう言われた。
俺は笑って受け取った。
一度も使わなかった。
俺はそのペンを手に取った。
そして。
初めて。
涙が出た。
「……俺は」
言葉が続かなかった。
自分が何をしたのか。ようやく少しだけ分かった。
俺はセレナを捨てた。それだけではない。
彼女が支えていたものを何も知らず。彼女の仕事を軽視し。自分の選択を正当化するために彼女を悪者にした。
そして。自分から助けてくれる人間を遠ざけた。
父。商会長。リリア。友人。
そして。セレナ。
みんな、俺に何度も警告していた。
それなのに。
俺は聞かなかった。
「……馬鹿だ」
初めて。俺は自分を責めた。
だが。遅すぎた。
翌月。ヴァルディス商会は規模を大幅に縮小した。
従業員の多くが解雇された。
俺は別邸で暮らすことになった。
父とはほとんど話さなくなった。
友人たちも離れていった。
リリアからも、最後の手紙が届いた。
そこには短く。
「お元気で」
それだけが書かれていた。
俺はその手紙を何度も読み返した。
以前なら。俺は彼女に戻ってきてほしいと思っただろう。
だが。もう、そんなことは言えなかった。
俺には、彼女を引き留める資格がない。
数ヶ月後。俺は街を歩いていた。
以前なら、貴族用の馬車で移動していた道。
今は一人で歩いている。
ふと。大通りの先に、人だかりが見えた。
何かと思って近づく。
アーデルハイト家の新しい商館だった。
大きな建物。以前よりも立派になっている。
入口には、多くの商人が出入りしていた。
壁には、アーデルハイト家の紋章。
そして。その前に、セレナがいた。
以前より少し大人びて見えた。
忙しそうに商人と話している。
誰かに頼られ。誰かに感謝され。誰かの役に立っている。
俺は遠くから、それを見ていた。
セレナがこちらに気づく。
目が合った。
俺は一瞬、声をかけようとした。
だが。やめた。
セレナは少しだけ頭を下げた。
俺も頭を下げた。
それだけだった。
彼女はすぐに別の人間との話に戻った。
俺はその場を離れた。
歩きながら。
不思議と、以前ほど怒りは湧かなかった。
セレナは俺を不幸にしたわけではない。
俺を捨てたわけでもない。
ただ。俺が自分で選んだ道を歩いただけだ。
俺はセレナを捨てた。
彼女は、その道から静かに離れただけ。
俺は家を失った。地位を失った。婚約者を失った。友人を失った。
そして。
最後まで残っていた「自分は悪くない」という考えさえ失った。
その代わりに。
ようやく、自分の人生を自分で見ることができた。
誰かのせいにすることもできない。
誰かに助けてもらうこともできない。
何も持っていない。
それでも。生きていくしかない。
俺は街の片隅で立ち止まった。
空を見上げる。雲一つない青空だった。
「……セレナ」
名前を呼んでみる。
返事はない。
当然だ。彼女はもう、俺の人生にはいない。
俺は歩き出した。
今度こそ。自分の足で。誰にも必要とされない人生を。誰かのせいにすることなく。
最後まで歩いていくために。
――そして数年後。
王都では、一つの噂が流れていた。
かつて王国有数の名門だったヴァルディス侯爵家は、今では小さな商会として細々と商売を続けている。
一方。
アーデルハイト公爵家は、王国内でも屈指の商業勢力へと成長した。
その中心にいるのは。
かつて「退屈な婚約者」と呼ばれた一人の女性。
セレナ・アーデルハイト。
彼女は今でも、誰かに恨みを持つことなく仕事を続けているという。
そして。彼女の過去の婚約者について尋ねられたとき、彼女はいつも、同じ言葉を返すらしい。
「昔のことです」
それ以上は、何も語らない。
彼女にとってレオン・ヴァルディスは、復讐する価値すらない相手になっていた。
それが。
本当の復讐になっていたのかもしれない。
読んでいただきありがとうございました。
後日談や別視点などを書くかもしれませんが、一旦以上で完結となります!
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