俺を裏切ったものたち
「セレナが俺を陥れている」
そう考えれば、すべての出来事に説明がついた。
鉄鉱石の供給が止まったことも。
商会との契約が切られたことも。
王都の商人たちが俺から距離を取り始めたことも。
王宮がヴァルディス家との新規契約を保留したことも。
全部、セレナの仕業だ。
俺は間違っていない。
俺は婚約を破棄しただけだ。
それなのに、あの女は俺を恨み、家まで巻き込んで復讐しようとしている。
そうに違いない。
「だったら、こちらから動けばいい」
俺はそう呟いた。
セレナが俺を敵に回したことを後悔させる。
それだけだ。
翌朝。
俺は商会長のマルセルを呼び出した。
「王国内で、アーデルハイト家と取引していない鉱山を探せ」
「すでに探しています」
「もっと探せ」
「レオン様」
「何だ?」
「ほとんど残っていません」
「ほとんど、ということは残っているんだろう」
「はい。しかし――」
「なら、そこを買収しろ」
マルセルの顔が強張った。
「買収、ですか?」
「ああ」
「資金が必要になります」
「ヴァルディス家には金がある」
「ですが、現在の商会の資金繰りを考えると……」
「家の資産を使え」
マルセルが黙った。
「聞こえなかったか?」
「聞こえています」
「ならやれ」
「……承知しました」
マルセルは頭を下げた。
だが、部屋を出る直前。
「レオン様」
「何だ?」
「本当に、これが最善だとお考えですか?」
俺は眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「いえ……」
マルセルは言葉を濁した。
「何でもありません」
「なら、余計なことを言うな」
「失礼いたします」
扉が閉まる。
俺は舌打ちした。
最近、誰も彼も俺に意見をする。
父も。商会長も。友人たちも。
以前なら、俺が何か言えば皆が従った。
なのに、今は違う。
俺が間違っているかのような顔をする。
腹立たしかった。
だが、俺にはまだ手がある。
ヴァルディス家には長年の人脈がある。
俺自身にも貴族としての立場がある。
そして何より。
王都には、俺を支持してくれる人間がいる。
俺はその日のうちに数人の貴族を訪ねた。
最初に向かったのは、フェルネス伯爵家。
リリアの実家だ。
「ようこそ、レオン殿」
フェルネス伯爵は笑顔で俺を迎えた。
「今日はどうされましたかな?」
「少し相談がありまして」
「何でしょう?」
俺は鉄鉱石の問題について説明した。
そして、アーデルハイト家が王国内の鉱山を押さえていること。
それによってヴァルディス家が不利益を受けていること。
最後に、俺の考えを話した。
「アーデルハイト家の独占を止めたいのです」
伯爵は黙って聞いていた。
「なるほど」
「フェルネス家にも協力していただきたい」
「具体的には?」
「鉱山への共同出資です」
俺は説明した。
王国内に残っている小規模な鉱山を買収する。
複数の貴族家で資金を出し合い、アーデルハイト家に対抗する。
悪くない案だ。
俺自身もそう思っていた。
「面白い話ですな」
伯爵が言った。
「では――」
「しかし、お断りします」
「……なぜ?」
伯爵は苦笑した。
「理由は簡単です」
「何です?」
「勝ち目がないからです」
俺は耳を疑った。
「何を言っているんです?」
「そのままの意味ですよ」
「まだ始まってもいない」
「始まる前から結果が見えている戦いに、娘を嫁がせるつもりはありません」
「娘?」
俺は眉をひそめた。
「リリアとの結婚の話ですか?」
「ええ」
「それと今回の件は別でしょう」
「別ではありません」
伯爵の表情から笑みが消えた。
「我が家としては、娘をヴァルディス侯爵家へ嫁がせることを前向きに検討していました」
「でしたら――」
「ですが、状況が変わりました」
「……」
「アーデルハイト家との関係を失い、王宮からも警戒されている家に、娘を嫁がせる理由がなくなりました」
俺は立ち上がった。
「それは、リリアとの婚約を認めないということですか?」
「正式な婚約はまだ成立しておりません」
「ですが、俺たちは――」
「社交上の交際に過ぎません」
伯爵は淡々と言った。
「そこを勘違いされては困ります」
胸の奥が熱くなった。
「リリアは俺を愛しています」
「娘の気持ちは娘に聞いてください」
「本人もそう言っていました」
「ならば、本人に確認しましょう」
伯爵が使用人に目を向ける。
しばらくして、リリアが入ってきた。
「お父様」
「リリア」
伯爵は娘を見た。
「レオン殿から、君との結婚について話があった」
「……はい」
リリアは俺を見る。
「私は、レオン様と結婚したいです」
その言葉を聞いて、俺は安心した。
やはりそうだ。
リリアだけは俺を裏切らない。
「お父様。どうか認めてください」
「本当にか?」
「はい」
「ヴァルディス家の今後がどうなるか分からなくても?」
リリアは黙った。
「王宮から距離を置かれても?」
「……」
「商会が立ち行かなくなる可能性があっても?」
リリアは答えなかった。
俺は思わず口を挟んだ。
「リリアは俺を信じてくれています」
伯爵が俺を見る。
「あなたを?」
「はい」
「家ではなく?」
「……」
「爵位でもなく?」
「当然です」
「それなら聞きましょう」
伯爵は娘に向き直った。
「リリア」
「はい」
「お前は、本当にレオン殿と結婚したいのか?」
長い沈黙。
そして。
「……分かりません」
俺は目を見開いた。
「リリア?」
彼女は俯いていた。
「私……」
「何だ?」
「最初は、レオン様と結婚したいと思っていました」
「最初は?」
「でも、最近は……怖いんです」
「何が怖い?」
「レオン様が、セレナ様を嫌っていることです」
俺は言葉を失った。
「どうして、そんな話になる?」
「だって……」
リリアは震える声で言った。
「レオン様は、何か問題が起きるたびにセレナ様のせいにするじゃないですか」
「それがどうした?」
「もし結婚したら、私も同じように責められるんじゃないかと思って……」
「そんなことするわけがない!」
「でも」
リリアが顔を上げる。
その目には涙が浮かんでいた。
「レオン様は、ご自分が悪かったことを一度でも認めましたか?」
俺は答えられなかった。
「婚約破棄も」
リリアは続けた。
「商会の問題も」
「……」
「王宮との関係も」
「……」
「全部、セレナ様のせいだと言っていました」
「それは事実だ!」
「本当に?」
その一言に、俺は言葉を失った。
伯爵が口を開く。
「今日は帰っていただきたい」
「ですが――」
「これ以上、娘を巻き込みたくありません」
「リリア!」
俺は彼女を見た。
「君はどうなんだ?」
リリアはしばらく黙った。
そして。
「少し、時間をください」
その言葉だけを残した。
俺は屋敷を出た。
馬車の中で、怒りが収まらなかった。
リリアまで。なぜだ。
俺は彼女を大切にしている。それなのに。
なぜ俺から離れようとする?
「……セレナのせいだ」
俺は呟いた。
そうだ。全部、セレナのせいだ。
あの女が俺の評判を落としている。
だから皆が俺を疑う。
だったら。
セレナの評判を落とせばいい。
俺は翌日から動いた。
王都の社交界で、セレナについて噂を流した。
「婚約破棄を逆恨みして、ヴァルディス家を潰そうとしているらしい」
「アーデルハイト家は資源を独占しようとしている」
「セレナ嬢は冷酷な女だ」
「婚約者だったレオンを捨てて、利益のために動いている」
最初は、少しずつだった。
だが、噂というものは恐ろしい。
誰かが話せば、別の誰かが話す。
話が広がるにつれ、内容も変わっていった。
「セレナ嬢はレオン様を破滅させようとしているらしい」
「アーデルハイト家は王国の資源を独占して、王家に反旗を翻すつもりだとか」
「隣国とも裏でつながっているそうだ」
俺は満足していた。
これでいい。
セレナの評判が落ちれば、アーデルハイト家も動きづらくなる。
そして俺は、再び主導権を取り戻せる。
そう思っていた。
だが、三日後。
俺のもとに王宮から召喚状が届いた。
「……何だ、これ」
封筒には王家の紋章。
指定された場所は、王宮の謁見室。
指定日時は翌日。
俺は不安になった。
だが、すぐに気持ちを切り替えた。
むしろ好都合だ。王家に直接説明できる。
セレナの陰謀について話せばいい。
翌日。
俺は王宮へ向かった。
謁見室には、国王陛下。宰相。財務長官。
そして数人の高位貴族が並んでいた。
「レオン・ヴァルディス」
国王が俺の名を呼ぶ。
「はい」
「お前に聞きたいことがある」
「何でしょうか?」
「最近、アーデルハイト公爵家に関する噂が王都で広がっている」
俺は息を飲んだ。
来た。
「はい」
「お前は何か知っているか?」
「はい」
俺は一歩前へ出た。
「私は、セレナ・アーデルハイト嬢による――」
「待て」
国王が手を上げた。
「誰がその噂を流した?」
「……」
「答えよ」
「私は……」
言葉が詰まった。
国王は俺を見つめている。
「調査した」
宰相が口を開いた。
「噂の発生源を辿ったところ、最初に話していた人物が判明した」
俺の背中に冷たい汗が流れた。
「誰です?」
「お前の友人だ」
「……」
「さらに、その友人に金銭を渡していた者も分かっている」
俺は何も言えなかった。
「お前だな?」
国王の声が響く。
「違います!」
反射的に否定した。
「私はただ、事実を――」
「事実?」
宰相が一枚の紙を差し出した。
そこには、俺が商会の人間を通じて友人に金を渡した記録が残っていた。
「これは……」
「証拠だ」
「しかし、私はセレナに害を与えるつもりでは――」
「では、何のために金を渡した?」
俺は答えられなかった。
国王が深いため息をついた。
「レオン」
「はい」
「お前は、婚約を破棄した」
「……はい」
「それ自体は、両家の合意があれば問題ではない」
俺は少しだけ安堵した。
「しかし、その後」
国王の声が低くなる。
「お前は婚約者だった女性を公然と中傷した」
「……」
「しかも、その結果としてアーデルハイト家に対する虚偽の噂まで流れた」
「虚偽……?」
「アーデルハイト家が王家に反旗を翻すという噂だ」
俺は青ざめた。
「私は、そこまで――」
「自分が何をしたかも分からないのか?」
国王が俺を睨む。
俺は黙った。
そのとき謁見室の扉が開いた。
全員が振り返る。
入ってきたのは、一人の女性だった。
黒に近い濃紺のドレス。背筋を伸ばし、静かな表情をしている。
セレナだった。
俺は思わず息を止めた。
「……セレナ」
彼女は俺を見た。
だが、何も言わない。国王に向かって一礼する。
「お呼びにより参上いたしました」
「セレナ・アーデルハイト」
「はい」
「ここにある噂について、お前の見解を聞きたい」
「承知しました」
セレナは俺を一度だけ見た。
そして。
「私から申し上げることはございません」
「何?」
「レオン様が私をどう評価されるかは、レオン様の自由です」
俺は拍子抜けした。
「なら、なぜ――」
「ただし」
セレナが言葉を続ける。
「アーデルハイト家が王家に反旗を翻すという話は、明確な虚偽です」
「当然だ」
国王が頷く。
「こちらも確認している」
セレナは続けた。
「私が王国内の鉱山と契約を結んだことについても、問題はございません」
財務長官が口を挟む。
「すべて合法です」
「ありがとうございます」
セレナは頭を下げた。
俺は唇を噛んだ。
何だ。何なんだ。こいつは。
俺がどれだけ追い詰めても、まったく動じない。
「セレナ」
俺は思わず声をかけた。
彼女がこちらを見る。
「何でしょう?」
「俺を陥れたいのか?」
「いいえ」
「なら、なぜこんなことをする?」
「こんなこと、とは?」
「鉱山を買い占めたり、王宮と取引したり」
「買い占めてはおりません」
「同じだ!」
「違います」
セレナは静かに言った。
「契約を結んだだけです」
「俺が困ると分かっていたんだろう!」
「……」
「答えろ!」
謁見室が静まり返る。
セレナは少しだけ目を伏せた。
そして。
「レオン様」
「何だ」
「私は、あなたが何をするかなど考えておりませんでした」
「嘘だ!」
「本当です」
「なら、なぜこんなに――」
セレナは俺を見た。
「あなたがいなくても、アーデルハイト家は仕事を続けなければならないからです」
「……」
「私たちの領民も生きています」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
セレナは続けた。
「鉱山も、商会も、農地も、止めるわけにはいきません」
「……」
「私はただ、自分の仕事をしているだけです」
俺は拳を握った。
自分の仕事。その言葉が妙に腹立たしかった。
俺が困っているのに。俺が苦しんでいるのに。
こいつは、まるで俺のことなど最初から眼中にない。
「では、俺の家がどうなってもいいというのか?」
セレナは少しだけ首を傾けた。
「それは、私には関係のないことでは?」
「……」
「婚約はすでに終了しております」
淡々とした言葉だった。
「私には、ヴァルディス家を支える義務はございません」
その瞬間。俺は初めて気づいた。
セレナは俺に復讐しているのではない。
俺を攻撃しているのでもない。
本当に。俺のことなど、もう必要としていないのだ。
その事実が、何よりも腹立たしかった。
俺は何とか言い返そうとした。
だが、その前に国王が口を開いた。
「レオン・ヴァルディス」
「……はい」
「お前には、しばらく王宮への出入りを控えてもらう」
「陛下!」
「理由は分かるな?」
俺は答えられなかった。
「また、ヴァルディス家の商業活動についても監査を行う」
「監査……?」
「資源価格の急騰により、王国内の経済への影響が出ている」
「しかし、私は――」
「下がれ」
国王の一言で、すべてが終わった。
俺は謁見室を出た。
廊下に出る。
足元がふらついた。王宮から追い出された。
今まで、こんなことはなかった。
俺は侯爵家の嫡男だ。
王都で誰もが俺に敬意を払っていた。
それなのに。今は誰も俺を見ない。
いや。正確には、見ている。
だが、以前のような羨望ではない。
警戒。同情。そして。軽蔑。
そんな視線だった。
その日の夜。
俺が屋敷に戻ると、玄関にリリアが立っていた。
「レオン様」
「リリア」
「お話があります」
「何だ?」
彼女は両手を握りしめていた。
「私たちのことですが……」
俺は嫌な予感がした。
「何だよ」
「少し、距離を置きたいです」
「……」
「今すぐ結婚することはできません」
「なぜ?」
「怖いんです」
「またその話か」
「はい」
リリアは涙を浮かべた。
「私は、レオン様を嫌いになったわけではありません」
「だったら――」
「でも、今のレオン様と一緒にいることが怖いんです」
「俺は何もしていない!」
「それです」
リリアの声が震えた。
「レオン様は、何が起きても自分は悪くないと言います」
「俺は本当に――」
「もういいです」
リリアが首を振った。
「私には分かりません」
「リリア……」
「ごめんなさい」
彼女は深く頭を下げた。
「しばらく、会わないでください」
そのまま去っていった。
俺は追いかけなかった。追いかける気力がなかった。
玄関に一人残される。
屋敷の中は静かだった。
以前なら、帰宅すれば使用人たちが声をかけてきた。
今は誰も近づいてこない。
俺は自室へ向かった。
机の上に一通の書類が置かれていた。父からだった。
封を開ける。
そこには短い文章が書かれていた。
――明日、話がある。侯爵家当主として決断しなければならない。
俺は嫌な予感を覚えた。
だが。まだ俺には父がいる。
侯爵家がある。財産もある。爵位もある。
すべてを失ったわけではない。
そう自分に言い聞かせた。
その夜。俺は眠りについた。
翌朝。父の執務室に入った。
父は机の前に座っていた。
その顔を見た瞬間。俺は理解した。
何かが終わった。
「座れ、レオン」
「何ですか?」
父は一枚の書類を俺の前に置いた。
「これは、ヴァルディス侯爵家の資産状況だ」
「……」
「現金。土地。商会。鉱山。すべてを含めた現在の資産だ」
「だから?」
父は俺を見た。
「このままでは、半年も持たない」
「……何?」
「お前が知らない間に、我が家はこれほどまでにアーデルハイト家との取引に依存していた」
「でも、まだ資産はあるでしょう」
「ある」
「なら大丈夫じゃないですか」
父は首を横に振った。
「違う」
そして。
静かに告げた。
「お前が継ぐはずだったヴァルディス侯爵家そのものが、もう危ない」
俺は言葉を失った。
父はさらに一枚の紙を取り出した。
そこには、王家の印章が押されていた。
「そして、これはもっと重要な書類だ」
「何ですか?」
「王家からの正式な通達だ」
俺は紙を受け取った。
読み進める。
そして。最後の一文を読んだ瞬間。
頭の中が真っ白になった。
――ヴァルディス侯爵家における次期当主としてのレオン・ヴァルディスの適性について、再審査を行う。
「……再審査?」
俺は呟いた。
父は何も言わない。
「何で……」
声が震えた。
「何で俺が?」
父は目を伏せた。
「お前が選んだ結果だ」
「違う」
「レオン」
「違う!」
俺は叫んだ。
「こんなの、全部セレナのせいだ!」
父は静かに俺を見た。
そして。
今まで聞いたことのないほど冷たい声で言った。
「まだ、そう言うのか」
その瞬間。俺は初めて。
父の目に映る自分が、息子ではなくなっていることに気づいた。




