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婚約者を捨てた俺は、なぜか誰からも必要とされなくなった  作者: 大豆
本編

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3/15

帳簿に書かれていたもの

父が机の上に置いた帳簿を、俺はしばらく見つめていた。


古びた革表紙。

角は擦り切れ、何度も開かれた跡がある。


一見しただけで、かなり長い間使われていたものだと分かる。


だが、俺にはそれが何を意味するのか分からなかった。


「これが何だというんです?」


「開け」


父はそれだけ言った。


俺は渋々、帳簿を開いた。


最初のページには、びっしりと数字が並んでいた。

鉱石。穀物。木材。薬草。輸送費。税。関税。

どれも細かな数字が書き込まれている。


「……商会の帳簿ですか?」


「違う」


「では?」


「我が家の資産管理記録だ」


俺は眉をひそめた。


「そんなもの、父上が管理しているのでは?」


「以前はな」


「以前?」


父は黙っていた。


俺はページをめくった。

そこには日付と数字、そして簡潔な文章が並んでいた。


『鉄鉱石の仕入れ価格が上昇。長期契約を締結する必要あり』


『南部街道の輸送費増加。別経路を検討』


『今年の小麦収穫量を考慮すると、冬季に価格上昇の可能性あり』


『王都北部の倉庫を確保』


俺はページをめくる手を止めた。


「これ……」


「どうした?」


「この字」


見覚えがあった。


何度も見たことがある。


セレナの字だった。


整っていて、無駄がない。


「セレナが書いたんですか?」


「そうだ」


「なぜ?」


「それを知るために読めと言っている」


俺は黙って読み進めた。


最初は単なる帳簿だと思っていた。

だが、違った。


そこには我が家の経営に関する細かな記録が残されていた。


俺が知らなかったことばかりだった。


例えば、ヴァルディス家が所有している西部の農地。

俺は父が管理していると思っていた。

だが、実際には数年前から収穫量が大幅に改善されていた。

理由は、灌漑設備を整えたからだった。


その設備費用を最初に計算したのはセレナだった。


別のページには、商会の輸送費について書かれていた。

街道を変更することで、一年あたりかなりの金額を節約できる。


その提案をしたのもセレナだった。


「……こんなもの」


俺は帳簿を閉じた。


「ただの計算じゃないですか」


父は何も言わなかった。


「誰でもできます」


「そうか」


「これくらいなら商会長に任せればいいでしょう」


「そうだな」


父の声は妙に冷たかった。


俺はそれが気に入らなかった。


「何です?」


「別に」


「俺に何か言いたいなら、はっきり言ってください」


父はしばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「この帳簿を作っていたのは、お前がまだ十五歳だった頃からだ」


「……」


「セレナ嬢は当時、十三歳だった」


俺は言葉を失った。


「十三歳?」


「ああ」


「子供じゃないですか」


「だから何だ?」


「そんな子供に、こんなことをさせていたんですか?」


「頼んだわけではない」


父は答えた。


「最初は、セレナ嬢が自分から持ってきた」


「何を?」


「我が家の鉱石輸送に関する改善案だ」


俺は黙った。


「お前が知らないのは当然だ」


父は続けた。


「お前は興味を持たなかったからな」


「……」


その言葉が胸に刺さった。


俺は反論しようとした。

だが、言葉が出てこなかった。


確かに。

俺は家の仕事に興味がなかった。


侯爵家の嫡男なのだから、いずれ父の仕事を継ぐことになる。

そう言われてはいた。


しかし、俺が好きなのは剣術や社交、狩りや酒だった。

商会の帳簿など見ても眠くなる。

父が仕事の話をしていると、適当に聞き流していた。

それで何の問題もないと思っていた。


「では、セレナが我が家の仕事を手伝っていた?」


「手伝っていた、という言い方は正しくない」


「どういう意味です?」


父は帳簿を指した。


「彼女がいなければ、今のヴァルディス家はない」


俺は笑った。


「大げさですよ」


「大げさではない」


「父上がいるじゃないですか」


「私はもう六十を超えている」


「だから?」


「数年前から病気を抱えている」


「……」


「以前ほど働けない」


俺は初めて、その事実をまともに意識した。


父が病気だという話は聞いたことがある。

だが、それほど深刻だとは思っていなかった。


「それでも、家は回っていたでしょう」


「セレナ嬢が回していたからだ」


父は淡々と言った。


「お前が知らなかっただけだ」


俺は椅子から立ち上がった。


「もういいです」


「レオン」


「そんな話を今さら聞かされても困ります」


「困る?」


「俺はセレナと結婚したくなかった。それだけです」


父は黙った。


「仕事ができるなら、なおさら家に残ってもらえばよかったじゃないですか」


「婚約者として?」


「そうです」


「お前が破棄した」


「……」


「自分で選んだのだろう」


父の声には怒りがあった。


俺は顔を背けた。


「俺は悪くありません」


「誰も悪いとは言っていない」


「言っているじゃないですか」


「……」


「父上も、みんなセレナの味方だ」


「そういう話ではない」


「同じですよ」


俺は帳簿を机の上に戻した。


「こんなもの、セレナが勝手にやっていただけでしょう」


「……」


「俺に頼まれたわけでもない」


「そうだな」


「だったら、俺に責任はない」


父は何も言わなかった。


その沈黙を、俺は肯定だと思った。


「俺は自分の人生を選んだんです」


「そうか」


「はい」


「なら、その人生を最後まで生きろ」


俺は父の言葉を深く考えず、執務室を出た。


その夜。

俺はリリアに会った。


いつもの店だった。

王都でも人気の高い高級料理店。


個室に入り、酒を注文する。


「レオン様」


「何だ?」


「今日、お父様と何かあったんですか?」


「何でもない」


「でも……」


「本当に何でもない」


俺は笑った。


「セレナの話をされただけだ」


リリアの表情が、一瞬だけ変わった。

ほんの一瞬だった。

だが、俺は見逃さなかった。


「……セレナ様ですか」


「ああ」


「何と言っていたんです?」


「昔から我が家の仕事を手伝っていたらしい」


「そうなんですね」


「くだらない話だ」


俺は酒を飲んだ。


「帳簿を作っていたとか、鉱山の契約を考えていたとか」


「……」


「そんなことをしていたなら、なぜ俺に言わなかったんだ?」


リリアは答えなかった。


「なあ、リリア」


「はい」


「セレナは、俺に何か隠していたと思うか?」


「……分かりません」


「そうか」


俺はグラスを置いた。


「俺には、何も相談しなかった」


「レオン様は……」


「何だ?」


「セレナ様から相談されても、聞いてあげたんですか?」


俺は眉をひそめた。


「当然だろう」


「本当に?」


「どういう意味だ?」


「いえ……」


リリアは俯いた。


「何でもありません」


俺は少し苛立った。


なぜ皆、セレナの話になると俺を責めるような顔をするのだ。


「もうセレナの話はやめよう」


「はい」


そのときだった。


店の外から大きな声が聞こえた。


「通してください!」


「申し訳ありません。予約のない方は――」


「私はヴァルディス商会の者です!」


俺は顔を上げた。


しばらくすると、店員が慌てた様子で個室へ入ってきた。


「レオン様、申し訳ありません」


「何だ?」


「商会の方が緊急でお会いしたいと」


「今?」


「はい」


俺は舌打ちした。


「通せ」


商会長のマルセルが入ってきた。


顔色が悪い。


「レオン様」


「何があった?」


「鉄鉱石の件です」


「またか」


「はい」


「価格が上がったのか?」


「それだけではありません」


マルセルは一枚の書類を差し出した。


「我々が契約していた鉱山が、契約解除を申し出てきました」


「なぜ?」


「アーデルハイト家との契約を優先するためです」


俺は書類を握った。


「ふざけるな」


「しかし……」


「こちらには契約があるだろう」


「違約金を払ってでも、アーデルハイト家と契約したほうが利益になると判断したようです」


「……」


俺は唇を噛んだ。


「他を探せ」


「すでに探しています」


「なら、もっと探せ」


「レオン様」


マルセルは言いにくそうに口を開いた。


「王国内の主要な鉱山は、ほとんどアーデルハイト家に押さえられています」


「……全部?」


「はい」


俺は立ち上がった。


「あり得ない」


「事実です」


「そんな短期間で?」


マルセルは答えなかった。その沈黙が答えだった。


俺は頭を抱えた。


セレナ。あの女は、一体何をしている?


俺が婚約を破棄してから、まだ二週間も経っていない。

それなのに、なぜこれほど準備ができている?


まるで。

俺がこうすることを知っていたかのように。


「……いや」


俺は首を振った。


そんなはずはない。偶然だ。すべて偶然だ。


「レオン様」


「何だ」


「もう一つ、報告があります」


「まだあるのか?」


「はい」


マルセルは別の書類を取り出した。


「王都の商業組合から、ヴァルディス商会への信用評価を引き下げるという通知が来ています」


「なぜ?」


「支払い能力に懸念があるとのことです」


「馬鹿な」


俺は怒鳴った。


「まだ何も滞っていない!」


「ですが、主要な仕入れ先を失ったことで、今後の資金繰りが悪化する可能性があると」


「可能性だろう!」


「はい」


「可能性だけで評価を下げるのか?」


マルセルは黙った。


俺は机を叩いた。


「こんなもの、すぐに撤回させろ」


「努力します」


「努力ではなく、やれ」


「……承知しました」


マルセルが退室する。


俺は椅子に座り込んだ。


リリアが心配そうにこちらを見ている。


「レオン様……」


「大丈夫だ」


俺は言った。


「大丈夫だ」


だが、声が震えていた。


その夜、俺は眠れなかった。


翌朝。

さらに悪い知らせが届いた。


王都の有力商会三つが、ヴァルディス商会との新規取引を停止した。


理由は同じ。


「供給能力への懸念」。


俺は父の執務室へ駆け込んだ。


「父上!」


「どうした」


「商会が……」


「知っている」


「なら、どうして何もしないんです?」


父は静かに答えた。


「何をすればいい?」


「セレナに連絡してください」


父の手が止まった。


「……何だと?」


「セレナにです」


「何を頼む?」


「契約を戻してもらうんです」


父は俺を見つめた。


「お前が自分で言え」


「……」


「お前が婚約を破棄したのだろう」


「でも、家の問題です」


「そうだな」


父は立ち上がった。


「だからこそ、お前が責任を取れ」


「父上……」


「セレナ嬢に頭を下げてこい」


俺は黙った。


頭を下げる。セレナに?あり得ない。


俺は婚約を破棄した側だ。

だが、そんな俺が、たった二週間で戻ってきてくれと頼む?

そんなことをしたら、笑いものになる。


「嫌です」


「そうか」


父は淡々と言った。


「なら、別の方法を探せ」


「……」


俺は部屋を出た。


廊下を歩きながら、怒りが込み上げてくる。


なぜ俺が頭を下げなければならない?セレナが勝手に契約を止めたのだ。


俺は悪くない。


そうだ。悪いのはセレナだ。


俺はそう思い込むことで、自分を守った。


その日の午後。

俺は王都の社交界へ出た。


いつものように友人たちが集まっていた。


だが、以前とは様子が違った。


「レオン」


「何だ?」


「……最近、大丈夫か?」


「何が?」


「商会のことだ」


「問題ない」


「そうか」


誰もそれ以上聞かなかった。

妙な空気だった。


俺が近づくと、会話が止まる。

俺が席につくと、何人かが席を立つ。


以前なら、皆が俺の周りに集まってきた。


ヴァルディス侯爵家の嫡男。将来は爵位を継ぐ男。

皆、俺と親しくしておきたかったのだ。


それが今は違う。


俺が一人になった頃。遠くから声が聞こえた。


「……アーデルハイト家が、次は王都の武器工房と契約するらしい」


「本当か?」


「ああ」


「セレナ嬢が交渉しているらしいぞ」


「やはりあの方だったのか」


俺は拳を握った。


「……セレナ」


その名前を聞くだけで、胸が苛立った。


俺の婚約者だった女。俺が捨てた女。


それなのに。

なぜ俺の人生のあちこちに現れる?


その夜。

俺は一つの決断をした。


セレナに会う。


だが、謝るつもりはない。

ただ、話をするだけだ。


彼女が何を考えているのか確かめる。

そして、我が家への供給を再開させる。

それだけだ。


俺はそう自分に言い聞かせた。


翌朝。

俺はアーデルハイト公爵領へ向かった。


馬車の中で、何度も考えた。


セレナは俺を見ると、どんな顔をするだろう。

泣くだろうか。怒るだろうか。それとも、以前のように無表情だろうか。


どんな顔でもいい。

俺は彼女に言う。


「そろそろ意地を張るのはやめろ」

「家同士の関係を考えろ」

「俺たちは婚約を破棄したが、商売まで壊す必要はない」


そう言えば、彼女も理解するはずだ。


俺はそう思っていた。


だが。

アーデルハイト公爵邸に到着した俺を待っていたのは、予想とはまったく違うものだった。


門番は俺を見るなり、深々と頭を下げた。


そして言った。


「申し訳ありません」


「何がだ?」


「セレナ様から、伝言を預かっております」


「伝言?」


「はい」


門番は一枚の封筒を差し出した。


封蝋には、アーデルハイト公爵家の紋章。


俺は封を切った。

中には、たった一枚の紙。


そこには、セレナの字でこう書かれていた。


――レオン様。お話しすることは何もございません。


俺は眉をひそめた。


さらに、その下を読む。


――あなたが選んだ人生です。どうか最後まで、ご自身のお力でお進みください。


俺は紙を握りしめた。


「……ふざけるな」


思わず声が出た。


だが、その直後。

門番が静かに続けた。


「なお、セレナ様からもう一つ伝言がございます」


「何だ?」


「『これまで私がヴァルディス家のために行っていた業務は、すべて終了しております』とのことです」


「……」


「『今後、私の判断でヴァルディス家に便宜を図ることはありません』とも」


俺は何も言えなかった。


門番が頭を下げる。


「お帰りください」


門が閉まる。


俺は馬車の中で拳を握った。

怒りで身体が震えていた。


あの女は。本気で俺を拒絶した。


俺は侯爵家の嫡男だ。いずれ爵位を継ぐ。そんな俺を。


セレナは切り捨てた。


「……後悔するぞ」


俺は窓の外を睨んだ。


「セレナ」


だが、その日の夕方。


王都に戻った俺を待っていたのは、さらに一通の書状だった。


今度は王宮からだった。


俺は封を開ける。


そこに書かれていたのは、王家からの正式な通知。


――ヴァルディス侯爵家との新規契約について、当面の間、すべて保留とする。


理由。


「王国の資源供給における不確実性が高まっているため」。


俺は紙を握りしめた。


王宮まで。

セレナの影響が届いている。


そんなわけがない。


そう思いたかった。


だが。


書状の最後に記された名前を見た瞬間。


俺の血の気が引いた。


王国宰相。


その署名の横に、小さく添えられた一文。


――本件については、アーデルハイト公爵家との協議を経て決定された。


俺は立ち尽くした。


そして初めて。


ほんの少しだけ。


俺は、自分が何か取り返しのつかないことをしたのではないかと考えた。


だが。

その考えを認めることはできなかった。


だから俺は、別の答えを選んだ。


「セレナが……俺を陥れようとしている」


そう呟いた。


それなら、すべて説明がつく。


俺は悪くない。

俺は何も間違っていない。

悪いのは、俺を捨てようとしているセレナだ。


そう考えれば。胸の痛みは少しだけ軽くなった。


そして俺は決めた。


セレナが俺を潰そうとしているなら。俺も、黙ってやられるつもりはない。


俺はまだ知らなかった。


セレナが俺を潰そうとしているのではない。


俺が自分で、自分の逃げ道を一つずつ塞いでいるだけだということを。

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