いなくなっても何も変わらない
セレナ・アーデルハイトがいなくなってから、一週間が経った。
俺の生活は、何も変わっていなかった。
朝は決まった時間に起きる。
使用人が用意した朝食を食べる。
父の仕事を少し手伝い、午後には友人たちと街へ出る。
そして夜は、リリアと過ごす。
以前と違うのは、俺の隣にいる女だけだった。
セレナはいない。
それだけだ。
「レオン様、お茶をどうぞ」
「ありがとう、リリア」
俺はソファに座りながら、彼女が淹れてくれた紅茶を受け取った。
「今日はどちらへ行きますか?」
「そうだな……」
俺は窓の外を見る。
王都は今日も賑わっている。
商人が荷車を引き、職人が店先で働き、貴族の馬車が大通りを行き交っている。
何も変わっていない。
父は少し神経質になっているが、それも時間が経てば収まるだろう。
「新しくできた劇場へ行こう」
「本当ですか?」
「ああ」
リリアが嬉しそうに笑った。
「楽しみです」
その笑顔を見ると、俺も満足する。
やはり、俺の選択は正しかった。
セレナと結婚していたら、こんな時間は持てなかっただろう。
彼女は何をしてもつまらなそうな顔をしていた。
それに比べてリリアは素直だ。
俺の望むものを理解してくれる。
俺は幸せだった。
――少なくとも、そう思っていた。
劇場へ向かう途中、馬車の中で御者が突然口を開いた。
「旦那様」
「何だ?」
「本日は、南門のほうを通らないほうがよろしいかと」
「なぜだ?」
「鉄鉱石を積んだ荷車が止まっております」
「それがどうした?」
「数が多く、道を塞いでいるようで」
俺は眉をひそめた。
「別の道を通ればいいだろう」
「承知しました」
馬車が方向を変える。
俺はそれ以上気にしなかった。
だが、その日の夕方。
劇場から帰ると、父から呼び出された。
「レオン。来い」
「何です?」
「座れ」
またか。
最近、父は俺を呼び出すことが増えていた。
俺は仕方なく椅子に座った。
「今日、南門で何があったか知っているか?」
「鉄鉱石の荷車が止まっていたそうですね」
「それだけか?」
「他に何か?」
父は机の上に書類を置いた。
「アーデルハイト家からの供給が止まった」
「……完全に?」
「ああ」
「でも、まだ一週間でしょう」
「だから何だ」
「在庫があるでしょう」
父は黙った。
「どうしたんです?」
「我が家の在庫は、あと三週間分だ」
「三週間もあるなら十分じゃないですか」
「三週間しかない」
「三週間あれば、他から買えるでしょう」
「だから、どこから買う?」
「……」
父は一枚の別の書類を差し出した。
「王国内の主要鉱山に問い合わせた」
俺は書類を見る。
供給可能量。価格。輸送費。
どれも数字が並んでいる。
「価格が高いですね」
「ああ」
「なら、別のところを探せばいい」
「全部調べた」
「……」
「アーデルハイト家の鉱山は、王国内でも特に品質が高い」
父は指で書類を叩いた。
「鉄鉱石はどれも同じだと思っているのか?」
「違うんですか?」
父が深く息を吐いた。
「お前は本当に何も知らないな」
その言葉が、妙に癇に障った。
「父上」
「何だ」
「俺を馬鹿にしているんですか?」
「そういう意味ではない」
「では、どういう意味です?」
父は答えなかった。
その沈黙が、さらに腹立たしい。
「セレナがいなくなったから問題が起きているように言いますが、たまたまでしょう」
「たまたま?」
「あの女が何か特別なことをしていたわけではない」
「……」
「父上も少し落ち着いてください」
俺は立ち上がった。
「三週間あるんでしょう?」
「ある」
「なら、三週間以内に解決すればいい」
「簡単に言うな」
「俺が何とかします」
そう言って、俺は部屋を出た。
廊下に出ると、胸の中に妙な苛立ちが残った。
なぜ父はあんな態度を取るのだ。
俺が悪いのか?
婚約を破棄したことが、そんなに悪いことなのか?
そもそも、俺はセレナに無理を言ったわけではない。
ただ、結婚したくないと言っただけだ。
それなのに、まるで俺が家を滅ぼしたかのような態度を取る。
「レオン様」
声をかけられて振り返る。
リリアだった。
「どうしました?」
「お父様と、何かあったのですか?」
「何でもない」
「でも……」
「本当に何でもない」
俺は笑った。
「少し仕事の話をしただけだ」
リリアは心配そうな顔をする。
「私にできることがあれば言ってください」
「ありがとう」
やはりリリアは優しい。
俺は彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だ」
俺は、自分に言い聞かせるように言った。
「全部、俺が何とかする」
翌日。
俺は商会へ向かった。
ヴァルディス家が所有する商会は、王都でも有数の規模を誇っている。
鉄鉱石を仕入れ、加工業者へ流す。
それだけでも大きな利益が出ていた。
俺は商会長の部屋に入った。
「レオン様」
商会長のマルセルが立ち上がった。
「どうした?」
「鉄鉱石の件についてですが」
「もう聞いた」
「今後の仕入れ先について、ご相談があります」
「アーデルハイト家以外から買えばいい」
「……それが難しいのです」
「なぜだ?」
「王国内の主要鉱山は、すでに他の商会と長期契約を結んでおります」
「なら、高く買えばいい」
マルセルの顔が曇った。
「それでは利益が出ません」
「利益が出なくても仕方ないだろう」
「しかし、それでは商会が――」
「商会を守るために、商会が仕入れを拒否するのか?」
「そういう意味では……」
「なら買え」
俺は机を叩いた。
「必要なだけ買え」
マルセルは黙った。
「何だ?」
「……承知しました」
「最初からそう言えばいい」
俺は立ち上がった。
これで問題は解決した。
そう思った。
だが、翌日。
商会から報告が届いた。
鉄鉱石の仕入れ価格が、以前の約二倍になった。
俺は驚いた。
「二倍?」
「はい」
「なぜだ?」
「買い手が増えています」
「他にも買っている商会が?」
「はい」
「どこだ?」
商会長は答えた。
「アーデルハイト公爵家です」
「……何?」
「公爵家が、王国内の鉱山と直接契約を結び始めています」
俺は言葉を失った。
「なぜ、あの家が?」
「恐らく、国外への輸出を見据えているものと思われます」
「……」
「このままでは、我々はさらに高い価格で買うことになります」
俺は椅子に座り直した。
「セレナがやっているのか?」
「そこまでは分かりません」
「調べろ」
「はい」
「彼女が何を企んでいるのか、全部調べろ」
商会長は頭を下げた。
その日の夜。
俺は一人で酒を飲んでいた。
セレナ。
あの女は一体何を考えている?
俺との婚約を破棄されたからといって、ここまでする必要があるのか。
俺の家に損害を与えるつもりなのか。
だが、それならおかしい。
セレナはそんな女ではなかった。
いつも冷静で、何を考えているのか分からない。
俺はグラスを握りしめた。
「……何なんだ」
そのとき、扉がノックされた。
「入れ」
使用人が入ってくる。
「レオン様、お客様がお見えです」
「誰だ?」
「ミレイア様です」
「通せ」
少しして、リリアが入ってきた。
「レオン様」
「どうした?」
「お父様から聞いたのですが……」
リリアは不安そうだった。
「ヴァルディス家、大丈夫なんですか?」
「何が?」
「商会のことです」
「問題ない」
俺は即答した。
「少し仕入れ価格が上がっただけだ」
「でも、お父様がかなり心配されていると……」
「父は心配性なんだ」
俺は笑った。
「俺が何とかする」
「本当に?」
「ああ」
リリアは安心したように笑った。
「よかった……」
俺は彼女の手を取った。
「心配するな」
「はい」
その夜、リリアが帰った後。
俺は一人で机に向かった。
目の前には商会から届いた資料が並んでいる。
数字を眺める。
仕入れ価格。輸送費。販売価格。利益。
どれも悪化していた。
だが、まだ致命的ではない。
俺はペンを置いた。
「こんなもの、大したことじゃない」
そう呟いた。
セレナがいなくなって、まだ一週間。
たった一週間だ。
この程度の問題で俺が折れるわけがない。
そう思っていた。
ところが、その翌週。
問題は鉄鉱石だけではなくなった。
まず、王都の鍛冶工房から注文の延期を求められた。
次に、武器商会から取引条件の変更を要求された。
さらに、ヴァルディス家が出資している建設事業からも、資材不足による工期遅延の報告が届いた。
どれも原因は同じだった。
鉄が足りない。
俺は父の執務室へ向かった。
「父上」
「何だ」
「鉄鉱石の件ですが」
「聞いている」
「なぜ、ここまで問題になっているんです?」
父は俺を見た。
「お前はまだ分からないのか?」
「何がです?」
父は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「これを見ろ」
俺は受け取った。
そこには、アーデルハイト家と隣国との契約について書かれていた。
「……輸出契約?」
「ああ」
「これだけの量を?」
「そうだ」
「いつの間に……」
父は俺を見た。
「お前が婚約を破棄した翌日に契約が成立した」
俺は言葉を失った。
「翌日?」
「そうだ」
「そんなに早く?」
「準備していたのだろう」
「……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中に嫌なものが広がった。
準備していた?
つまり。
セレナは俺が婚約を破棄することを予想していたのか?
いや。そんなはずはない。
「偶然でしょう」
俺はそう言った。
「何?」
「隣国との契約が進んでいたところに、たまたま俺との婚約破棄が重なっただけです」
父は何も言わなかった。
「そうですよね?」
俺が問いかける。
父はしばらく俺を見つめた後、静かに言った。
「そう思いたければ、そう思えばいい」
「……何ですか、その言い方は」
「別に」
父は書類を片付け始めた。
「ただ一つだけ言っておく」
「何です?」
「セレナ嬢は、お前が思っているような女ではない」
俺は笑った。
「父上まで、あの女を評価するんですか?」
「評価しているわけではない」
「では?」
父は手を止めた。
「恐れている」
「……」
その言葉だけを残して、父は口を閉じた。
俺はしばらく動けなかった。
恐れている?あのセレナを?
俺は笑いそうになった。
だが、なぜか笑えなかった。
その日の夜。
俺は一人で屋敷の庭を歩いていた。
セレナと婚約していた頃、何度もここを歩いた。
彼女はいつも俺の半歩後ろを歩いていた。
俺が何か話しても、静かに聞いていた。
俺は、それを「つまらない女」だと思っていた。
だが。今になって思えば。
あのとき彼女は、俺の話を聞きながら何か別のことを考えていたのではないか。
税収のこと。鉱山のこと。商会のこと。領地のこと。
俺には分からない何かを。
「……くだらない」
俺は頭を振った。
考えすぎだ。
セレナはただの令嬢だ。
俺が勝手に大きく考えているだけだ。
そのとき。
背後から声がした。
「レオン様」
振り返る。
リリアだった。
「どうした?」
「少しお話したくて」
「いいよ」
リリアは俺の隣に並んだ。
しばらく歩いた後、彼女が口を開く。
「レオン様は……本当に、セレナ様のことを何とも思っていないんですか?」
俺は足を止めた。
「どういう意味?」
「その……」
リリアは少し困ったように笑った。
「最近、セレナ様の話をよくされるので」
「俺が?」
「はい」
俺は黙った。
そんなつもりはなかった。
「気のせいだろう」
「そうですか?」
「ああ」
俺は笑った。
「もう終わったことだ」
「……そうですよね」
リリアも笑った。
だが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
俺は気づかなかった。
リリアがその夜、屋敷を出た後。
誰かに手紙を書いていたことを。
そしてその宛先が。
セレナ・アーデルハイトだったことを。
俺はまだ知らない。
自分の隣にいる女が、俺の知らない顔を持っていることも。
そして。
俺が「終わった」と思っていた婚約が、まだ何一つ終わっていなかったことも。
その三日後。
ヴァルディス侯爵家に、さらに一通の書状が届いた。
差出人は、王都の鍛冶組合。
内容は簡潔だった。
――ヴァルディス商会との鉄鉱石取引を、来月より停止する。
理由は、
「安定した供給を確保できないため」。
俺は書状を握りつぶした。
「ふざけるな……」
そのとき、父の声が聞こえた。
「レオン」
「何です?」
「お前に、見せなければならないものがある」
父の手には、一冊の分厚い帳簿があった。
古びた革表紙。
表紙には、俺が見たことのない文字が刻まれている。
「これは?」
「セレナ嬢が残していったものだ」
俺は眉をひそめた。
「何の帳簿です?」
父は答えなかった。
ただ、静かに言った。
「これを見れば、お前にも少しは分かるかもしれない」
「何がです?」
父は帳簿を机の上に置いた。
「お前が、誰を捨てたのかだ」
俺は、その言葉の意味を理解できなかった。
そのときの俺には。
まだ、自分が捨てたのは婚約者一人だけだと思っていた。




