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婚約者を捨てた俺は、なぜか誰からも必要とされなくなった  作者: 大豆
本編

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1/15

俺は正しい

「セレナ。お前との婚約を破棄する」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった重苦しいものが消えた。


ようやく言えた。俺は、安堵していた。


目の前に立つ女――セレナ・アーデルハイトは、いつものように感情を表に出さない顔をしていた。


アーデルハイト公爵家の令嬢。

そして俺、レオン・ヴァルディス侯爵家嫡男の婚約者。


俺たちの婚約は、家同士が決めたものだった。

幼い頃から何度も顔を合わせてきた。

家格も釣り合っている。

両家の関係も悪くない。

財産にも問題はない。


周囲から見れば、何の問題もない婚約だっただろう。


だが、俺はずっと我慢していた。


「……婚約破棄、ですか」


セレナが静かに聞き返した。


「ああ」


「理由をお聞きしても?」


「分かっているだろう」


俺は少し苛立った。


こいつはいつもそうだ。

何を言っても感情を見せない。

怒らない。泣かない。笑わない。


まるで人形のような女だった。


婚約者になってから何年も経つというのに、俺は一度も彼女から愛情らしいものを感じたことがない。


それなのに、俺が他の女性と話すと、必ず何かを言ってくる。


舞踏会で別の令嬢と会話していれば、


「その方とは以前から親しいのですか」


と聞いてくる。


街で女性店員と話していれば、


「随分と楽しそうでしたね」


などと言う。


もちろん、セレナは怒鳴ったりしない。

そんなことをする女ではない。

ただ、冷たい目を向けてくる。


それが俺には耐えられなかった。


「俺は、お前のような女とは結婚できない」


周囲がざわめいた。


ここは王都の中央広場に面した大公家主催の夜会場。

王国でも有力な貴族が数多く集まっている。


婚約破棄を宣言する場所としては、これ以上ないほど人目につく場所だった。


もちろん、それも計算していた。


人前で宣言すれば、セレナも簡単には俺を責められない。


何より、俺には理由がある。


「お前は俺を束縛する」


「……束縛、ですか?」


「ああ」


「私は、レオン様にそのようなことをした覚えはありません」


「そういうところだ」


俺は鼻で笑った。


「自分が何をしているのか分かっていない」


セレナは黙った。


俺はさらに言葉を重ねた。


「お前は俺を監視している。俺が誰と話したのか、どこへ行ったのか、何を買ったのか。何でも知ろうとする」


「それは……」


「言い訳はいい」


「……」


「俺は自由になりたいんだ」


そのとき、隣に立っていた少女が不安そうに俺の袖をつまんだ。


「レオン様……」


その声を聞くだけで、俺の心は落ち着いた。


リリア・フェルネス。


最近、俺が親しくしている伯爵令嬢だ。


明るく、素直で、よく笑う。

セレナとは正反対だった。


俺が何を言っても笑ってくれる。

くだらない冗談でも笑う。

俺の話を楽しそうに聞いてくれる。

俺が疲れていれば心配してくれる。


それに比べてセレナはどうだ。


俺が何をしても、


「そうですか」


としか言わない。


そんな女と一生を過ごせと言われたら、人生が牢獄になる。


「俺はリリアと結婚する」


周囲がさらに騒がしくなった。


リリアが顔を赤くする。


「本当ですか?」


「ああ」


俺は迷わず答えた。


「俺は彼女を愛している」


その瞬間だった。


セレナが初めて、ほんの少しだけ目を伏せた。


泣くのかと思った。


だが、涙は落ちなかった。


俺は拍子抜けした。


「……それだけか?」


「はい」


「婚約を破棄されるんだぞ」


「承知しました」


「お前は、それでいいのか?」


セレナは俺を見た。


その瞳には怒りも悲しみもなかった。


ただ、妙に疲れたような色が浮かんでいた。


「レオン様がそうお望みなら、私は何も申し上げません」


「……」


「これまでありがとうございました」


セレナは深々と頭を下げた。

それだけだった。


俺は、勝ったような気分になった。


「こちらこそ」


俺はそう言って、リリアの手を取った。


その瞬間だった。

背後から低い声が響いた。


「レオン」


振り返る。


そこに立っていたのは、俺の父だった。


グレゴール・ヴァルディス。

ヴァルディス侯爵家当主。

普段から感情を表に出さない男だ。


だが、その顔を見た瞬間、俺は違和感を覚えた。


顔が青ざめている。


「父上?」


「お前……何をした」


「何って、婚約を破棄しただけです」


「アーデルハイト公爵家との婚約を?」


「はい」


「……お前は」


父が額を押さえた。


「何も知らないのか」


「何がです?」


「セレナ嬢が、今まで何をしていたのか」


俺は眉をひそめた。


「何をしていたも何も、俺を束縛していたでしょう」


「そういう話ではない!」


珍しく父が声を荒らげた。


会場の視線が一斉にこちらへ集まる。

俺は恥ずかしくなった。


「父上、落ち着いてください」


「お前が落ち着け!」


「なぜ怒っているんです?」


父は何かを言いかけた。


だが、途中で口を閉じた。


「……もういい」


「何がです?」


「帰るぞ」


「俺はリリアと――」


「リリア嬢を連れて帰るのか?」


「はい」


「……好きにしろ」


父はそれだけ言うと、背を向けた。


俺は首を傾げた。

何だったのだ。


だが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。


俺の隣にはリリアがいる。

これからは彼女と結婚できる。


それだけで十分だった。


その夜から、俺の人生は良い方向へ変わっていく。


俺は、そう信じていた。


――少なくとも、その時までは。


翌朝。

屋敷に戻った俺は、父の執務室に呼び出された。


「入れ」


「何ですか?」


「座れ」


俺はソファに腰を下ろした。


父は机の上に一枚の書類を置いた。


「これは何です?」


「昨日、お前が破棄した婚約についての書類だ」


「それが?」


「読め」


俺は書類を手に取った。


アーデルハイト公爵家との婚約。

そして、その婚約に付随するいくつかの契約。


俺は適当に目を通した。


「これが何だというんです?」


「お前、本当に読めているのか?」


「はい」


「では、第三項を読め」


「第三項……」


そこには、両家の婚姻によって成立する共同事業について書かれていた。


アーデルハイト家が所有する鉄鉱山。

ヴァルディス家が持つ流通網。

両家が協力することで、王国内の鉄鉱石を安定して供給する。


そんな内容だった。


「だから?」


「この事業が、我が家の収入の四割を占めている」


俺は黙った。


「……四割?」


「ああ」


「でも、別に婚約がなくても続ければいいでしょう」


「アーデルハイト家は婚姻を前提に契約している」


「なら、別の契約を結べばいい」


父は深いため息をついた。


「簡単に言うな」


「どうしてです?」


「アーデルハイト公爵は、お前との婚約を条件に、我が家に優先的な鉱石供給を認めていた」


「……」


「婚約が破棄された以上、その条件も消える」


俺は少し考えた。


だが、すぐに笑った。


「だったら他から買えばいい」


父の顔が険しくなる。


「どこから?」


「他の鉱山からです」


「王国内で、アーデルハイト家と同等の鉱石を安定して供給できる鉱山はない」


「国外から輸入すればいいでしょう」


「戦争になれば?」


「そんなもの、そう簡単には――」


そこで俺は口を閉じた。


父も黙っている。


部屋に重い沈黙が落ちた。


「……何です?」


「隣国との関係が悪化していることくらい知っているだろう」


「知っています」


「その隣国が、アーデルハイト家から鉱石を買う契約を結ぼうとしている」


俺は目を見開いた。


「まさか」


「今朝、正式な打診があった」


「……」


「アーデルハイト公爵は、お前との婚約が破棄されたことを理由に、我が家との優先契約を終了すると通告してきた」


俺は立ち上がった。


「待ってください」


「何だ」


「セレナが?」


「そうだ」


「彼女が決めたんですか?」


父は少し間を置いた。


「公爵家からの正式な書面には、セレナ嬢本人の署名もあった」


胸の奥がざわついた。


だが、すぐに考え直した。


セレナがそんなことをするはずがない。


あの女は、俺に逆らったことなど一度もない。


「脅しているだけでしょう」


「何?」


「婚約を破棄された腹いせです」


「お前はまだそんなことを言っているのか」


「だって、そうでしょう」


俺は自信を持って言った。


「セレナは俺を愛しているんです」


父は何も言わなかった。


その沈黙が妙に腹立たしかった。


「父上」


「何だ」


「俺が悪いみたいな顔をするのはやめてください」


「……」


「俺は、自分の人生を選んだだけです」


父は長い間、俺を見ていた。


やがて目を閉じる。


「そうだな」


「分かってくれましたか」


「お前は、自分の人生を選んだ」


父は静かに言った。


「だから、その結果も自分で背負え」


「当然です」


俺は胸を張った。


「俺なら大丈夫です」


父はそれ以上何も言わなかった。


俺は執務室を出た。


廊下に出ると、リリアが待っていた。


「レオン様」


「リリア」


「お父様と何を話していたんですか?」


「大したことじゃない」


俺は笑った。


「婚約破棄の後始末だ」


「そうですか」


「心配するな」


俺は彼女の手を握った。


「俺が全部何とかする」


リリアは嬉しそうに笑った。


「はい」


その笑顔を見て、俺も笑った。


何も問題はない。

父が少し怒っているだけだ。

アーデルハイト公爵家が意地を張っているだけだ。

いずれ全部収まる。


そう思っていた。


その日の午後。

俺は友人たちと酒を飲んでいた。


「いやあ、レオンも思い切ったな」


「セレナ嬢を捨てるとはな」


「もったいない気もするけどな」


「何が?」


「アーデルハイト家だよ」


「家格なら、リリアの実家だって悪くない」


「いや、そういう意味じゃない」


友人の一人が苦笑した。


「お前、本当に知らないのか?」


「何を?」


「セレナ嬢が王都で何て呼ばれていたか」


「知らない」


「『氷の帳簿』だよ」


「……何だ、それ」


「アーデルハイト家の領地経営を実質的に仕切っているって噂だ」


俺は笑った。


「まさか」


「本当らしいぞ」


「女にそんなことができるわけないだろ」


「でも、アーデルハイト領はここ数年ずっと税収が増えてる」


「公爵が優秀なんだろ」


「公爵は去年から病気がちだ」


「……」


「セレナ嬢が実務をやっていたって話だ」


俺は鼻で笑った。


「噂だろ」


「まあな」


「それに、仮にそうだったとしても、俺には関係ない」


そう言った。

本当に、そう思っていた。


セレナが何をしていたかなんて、どうでもいい。

俺は彼女と結婚したくなかった。

それだけだ。


俺は自分の人生を選んだ。

それが正しい。

そう信じていた。


その夜。

俺のもとに一通の手紙が届いた。


差出人は、アーデルハイト公爵家。


封を開ける。

中には短い文章だけが書かれていた。


――婚約破棄を正式に受理いたしました。これまでの両家間の契約につきましても、すべて見直させていただきます。今後、セレナ・アーデルハイトがヴァルディス家のために行っていた一切の業務を終了いたします。


最後に、セレナ本人の署名。


俺はその一文を見て、笑った。


「負け惜しみだ」


そう呟いた。


俺は知らなかった。


この手紙が、俺の人生から「セレナが支えていたもの」が一つずつ消えていく始まりだったことを。


そして。

俺が「捨てた」と思っていた女が、本当は俺たちの人生を支えていた唯一の人間だったことを。


この時の俺は、まだ何も知らなかった。

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