私はあなたを選んだ
ヴァルディス侯爵家の門前に、王宮の紋章が掲げられていた。
私は馬車から降りることができず、しばらくその光景を見つめていた。
「リリア様」
同行していた侍女が心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
そう答えたものの、本当は、何が大丈夫なのか自分でも分からなかった。
王家による財産及び商会の一部保全。それが何を意味するのか。
貴族社会に詳しくない私でも分かる。
ヴァルディス家は。
もう自分たちだけでは、財産を自由に動かせない。
つまりレオンが今まで当たり前だと思っていた生活は、もう戻ってこない。
「中へ入ります」
私は馬車を降りた。
門番は何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
屋敷の中は以前とは別の場所のようだった。
使用人たちは静かで、廊下を歩く足音さえ、どこか遠慮がちだった。
私はレオンの部屋へ向かった。
扉の前で立ち止まる。
「レオン様」
返事はない。
もう一度。
「レオン様」
「……入れ」
声が聞こえた。
私は扉を開けた。
部屋は暗かった。カーテンも閉められている。机の上にはいくつもの書類が散らばっていた。
レオンは椅子に座っていた。
以前より痩せている。
「リリアか」
「はい」
「王宮の使者を見たか?」
「はい」
「……そうか」
レオンは笑った。乾いた笑いだった。
「これで終わりだ」
「……」
「父も何も言わない」
「……」
「商会も取られる」
「まだ決まったわけではありません」
「同じことだ」
レオンは頭を抱えた。
「俺は何をしても上手くいかない」
私は黙った。
以前なら。
「そんなことありません」
と言っていたと思う。
「私がいます」
そう言っていたかもしれない。
でも。もう。その言葉は口から出てこなかった。
「リリア」
「はい」
「君だけは俺の味方だよな?」
私は答えなかった。
「リリア」
「……」
「頼む」
私はゆっくり椅子に座った。
「レオン様」
「何だ?」
「婚約を解消してください」
レオンの顔が。
固まった。
「……何?」
「私は、あなたとの婚約を解消したいです」
「どうしてだ?」
「これ以上、あなたの人生に関わりたくないからです」
「俺がこんな状態だからか?」
「違います」
「じゃあ何だ!」
「あなたが」
私は一度、言葉を選んだ。
「自分の人生を、自分で選ぼうとしていないからです」
レオンは黙った。
「セレナさんがいたときは、セレナさんのせいにした」
「……」
「商会が悪くなれば、セレナさんが支えてくれなくなったからだと言った」
「……」
「取引が減れば、セレナさんが妨害したと言った」
「……」
「王宮に疑われれば、セレナさんが何かしたと言った」
レオンは俯いた。
「そして」
私は続けた。
「今度は、私があなたを救うと思っている」
「違う」
「何が違うのですか?」
「俺は君を愛している」
「……」
「だから君にいてほしい」
私は首を振った。
「それは、私を必要としているだけです」
「違う!」
「では」
私は尋ねた。
「私がいなくても、あなたはどうしますか?」
レオンは黙った。
「商会を立て直しますか?」
「……」
「自分で商人たちに頭を下げますか?」
「……」
「今までの契約を一つずつ確認しますか?」
「……」
「自分が何を間違えたのか、考えますか?」
レオンは答えなかった。
私は静かに立ち上がった。
「それができるなら」
「……」
「私は、あなたを嫌いにはなりません」
「……リリア」
「でも」
私は彼を見つめた。
「私があなたの代わりに、それをすることはありません」
レオンは俯いたままだった。
私は部屋を出た。
廊下を歩いていると。
「リリア様」
声をかけられた。
振り返る。そこには、ヴァルディス侯爵が立っていた。
「お父上……」
「レオンは?」
「部屋にいます」
「そうか」
侯爵は深く息を吐いた。
「婚約を解消するのだな」
「はい」
「……すまない」
私は首を振った。
「謝らないでください」
「だが」
「私は自分で選びました」
侯爵が私を見る。
「レオンを選んだことも」
「……」
「セレナさんより、自分のほうが彼を幸せにできると思ったことも」
「……」
「全部、私自身の選択です」
侯爵は何も言わなかった。
私は続けた。
「だから。その結果も、私が受け入れます」
それは、自分自身への言葉でもあった。
私はレオンを選んだ。
セレナさんよりも自分のほうが彼を理解していると思った。
彼を救えると思った。
それは間違いだった。
でも、その間違いを。
誰かのせいにはしたくなかった。
屋敷を出た。
馬車に乗る。
窓の外を見ながら、私は初めて胸の奥にあった重いものが、少しずつ消えていくのを感じていた。
翌日。
婚約解消の手続きが始まった。
思ったよりあっさりしていた。
王家への届け出。両家の確認。婚約解消の公示。
それだけ。
私はもっと苦しむと思っていた。
泣くと思っていた。
でも、涙は出なかった。
代わりに。一つのことを考えていた。
セレナさんに会いたい。謝りたい。
そう思った。
でも、会う資格があるのかは分からない。
数日後。
私はアーデルハイト家を訪ねた。
応接室で待っていると扉が開いた。
「お待たせしました」
セレナさんだった。
私は立ち上がった。
以前会ったときと何も変わっていない。
落ち着いた表情。穏やかな声。
「……お久しぶりです」
「お久しぶりです」
セレナさんは向かいに座った。
「今日は何のご用件でしょうか?」
私は、すぐには話せなかった。
「謝りに来ました」
「……」
「私は」
声が震えそうになる。
「あなたのことを誤解していました」
セレナさんは何も言わない。
「レオン様の言葉を信じて」
「……」
「あなたが冷たい人だと思っていました」
「……」
「仕事ばかりで、レオン様を大切にしていないと思っていました」
セレナさんは黙っている。
「でも」
私は顔を上げた。
「違いました」
「……」
「あなたは、レオン様のために商会を支えていた」
「仕事ですから」
「それだけではありません」
私は首を振った。
「五年先の計画まで立てていました」
セレナさんは少し驚いたようだった。
「帳簿を見ました」
「そうですか」
「あなたがいなくなってから、商会がどうなったのかも知りました」
「……」
「私は」
私は深く頭を下げた。
「あなたに謝りたいです」
しばらく。何も聞こえなかった。
やがてセレナさんが言った。
「顔を上げてください」
私は顔を上げた。
「私は、あなたを恨んでいません」
「でも……」
「リリアさん」
初めて。名前を呼ばれた。
「レオン様を選んだことを、後悔していますか?」
私は考えた。
「はい」
正直に答えた。
「でも」
私は続けた。
「選んだこと自体を、なかったことにはしたくありません」
セレナさんは黙っている。
「私は、自分で彼を選びました」
「……」
「だから、失敗した責任も自分で背負います」
セレナさんは、少しだけ笑った。
「それでいいと思います」
「……」
「私も、昔はレオン様を支えることが自分の役割だと思っていました」
「はい」
「でも、違いました」
セレナさんは窓の外を見た。
「自分の人生は、自分で生きるものです」
その言葉を聞いて、私は少しだけ泣いた。
今度は。涙を止められなかった。
セレナさんは何も言わなかった。
ただ。黙って待っていてくれた。
しばらくして私は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「何がですか?」
「あなたが、自分で考えて決めてくれたことです」
私は頭を下げた。
アーデルハイト家を出る。
空は晴れていた。
私は、もうレオンの婚約者ではない。
セレナさんの代わりでもない。
誰かを救うための人間でもない。
ただ。リリアという一人の人間。
それだけだった。
その後、ヴァルディス家は大きく変わった。
商会は縮小された。一部の財産は売却された。レオンは正式に次期当主の座を失った。
そして。それから一年後。
私は街で偶然。
レオンを見かけた。
以前のような立派な服ではなかった。
小さな商会の前で。
一人の商人に頭を下げている。
「もう一度、お願いします」
「今回は必ず期限までに支払います」
「前にも聞いた」
「……はい」
「なら、結果を出してくれ」
「分かりました」
レオンは頭を下げた。
私はその姿を、少し離れた場所から見ていた。
昔の私なら、駆け寄っていたかもしれない。
「私が助けます」
そう言っていたかもしれない。
でも、今は違う。
私はその場を離れた。
レオンが、これからどんな人生を生きるのか。
私は知らない。
成功するかもしれない。
失敗するかもしれない。
それはもう私の問題ではない。
私は自分の人生を歩く。
そして。たぶん。彼もようやく。
自分の人生を歩き始めたのだと思う。
数日後。
私は小さな商会で働き始めた。
父の商会ではない。
自分で見つけた仕事だった。
給料は、それほど高くない。
けれど、自分で選んだ。
失敗すれば自分の責任。
成功すれば自分の成果。
そんな当たり前の生活が、今は心地よかった。
仕事を終えて夕暮れの街を歩く。
ふと、以前、セレナさんに言われた言葉を思い出す。
「自分の人生は、自分で生きるものです」
私は空を見上げた。
そして。小さく笑った。
私は。レオンを選んだ。
その選択は間違っていた。
でも。だからといって。
私の人生まで間違いになるわけではない。
私はこれから、自分で選ぶ。
誰かと比べるためではなく。誰かに勝つためでもなく。誰かを救うためでもない。
私自身が。幸せになるために。
そう思えるようになったことだけは。
あの日、レオンを選んだ私が最後に手に入れたものだった。




