彼女のいない場所
婚約が正式に決まるまで、あと三週間。
その三週間が、私にはとても長く感じられた。
以前なら結婚式のことを考えていた。
どんなドレスを着よう。
どんな屋敷に住もう。
食事はどうしよう。
子供ができたら。
そんな未来を想像していた。
でも今は違う。
朝起きるたびに私は考えてしまう。
本当にこの人と結婚していいのだろうか。
「リリア」
朝食の席で、レオンが声をかけた。
「はい」
「今日、王宮に行く」
「王宮へ?」
「ああ。婚約の再審査について話がある」
私は頷いた。
「私も行ったほうがいいですか?」
「いや」
レオンは即答した。
「俺一人で行く」
「分かりました」
以前ならそこで終わっていた。
でも今の私は違った。
「レオン様」
「何だ?」
「一つだけ」
「?」
「セレナさんについて、もう悪く言わないでください」
レオンの顔が固まった。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味です」
「君まで彼女の肩を持つのか?」
「そうではありません」
「じゃあ何だ?」
私は静かに答えた。
「私は、事実を知りたいだけです」
レオンは黙った。
「帳簿を見ました」
「……」
「商会の方にも話を聞きました」
「……」
「セレナさんが何をしていたのかも知りました」
「だから?」
「だから」
私は彼を見つめた。
「少なくとも、私が聞いていた話とは違いました」
レオンは椅子から立ち上がった。
「リリア」
「はい」
「君は、俺を疑っているのか?」
私は答えなかった。
その沈黙が答えだったのかもしれない。
レオンは顔を歪めた。
「……分かった」
「レオン様」
「もういい」
そのまま部屋を出ていった。
私は一人、朝食の席に残った。
冷めた紅茶を見つめる。
私は。いつからこの人を疑うようになったのだろう。
いや、違う。いつから私は。
この人を信じるために、無理をするようになったのだろう。
その日の午後。
父から手紙が届いた。
『一度、家に戻ってきなさい』
短い内容だった。
私は実家へ向かった。
父は書斎で待っていた。
「座りなさい」
「はい」
私は椅子に座った。
父は一枚の書類を机に置いた。
「これは?」
「ヴァルディス家の財務資料だ」
「……」
「王宮から回ってきた」
私はそれを手に取った。
そこには、ヴァルディス家の借入金。未払い金。取引先。今後の支払い予定。
すべてが記載されていた。
「かなり……」
言葉が続かなかった。
「危ない状態だ」
父が言った。
「はい」
「ただし」
父は続けた。
「これが今の状態になったのは、ここ半年だ」
「半年……」
私は帳簿を思い出した。
セレナさんが作った計画。
五年以内に経営を安定させる。
その計画があった頃、ヴァルディス家はまだここまで悪化していなかった。
「では」
私は顔を上げた。
「セレナさんがいなくなってから……」
「そういうことだ」
父は頷いた。
私は黙った。
「リリア」
「はい」
「婚約について、お前はどう考えている?」
その質問に。
私はすぐには答えられなかった。
「分かりません」
「そうか」
「私は、レオン様が好きでした」
「過去形か?」
私は少し考えた。
「……分かりません」
父は何も言わなかった。
「でも」
私は続けた。
「今のレオン様を見ていると」
「うん」
「私が好きだった人とは、少し違うように感じます」
「そうか」
「私は、彼を幸せにできると思っていました」
父は静かに言った。
「お前がそう思ったのなら、その気持ちは否定する必要はない」
「……」
「だが」
父は書類を指で叩いた。
「結婚は、相手を救うためにするものではない」
私は顔を上げた。
「一緒に生きるものだ」
その言葉が、胸に残った。
私はレオンを救いたかった。
セレナよりも自分のほうが彼を理解できる。
そう思っていた。
でも、私はいつの間にか。
「レオンを救うこと」が目的になっていた。
彼自身が自分の問題と向き合うことを考えていなかった。
実家から戻ると、レオンが屋敷で待っていた。
「リリア」
「はい」
「婚約を延期したい」
私は驚いた。
「どうしてですか?」
「王宮の再審査がある」
「それだけですか?」
「……」
私は彼を見た。
「違いますよね?」
「何がだ?」
「あなたは」
私はゆっくり言った。
「ヴァルディス家の状況を、私に知られたくないのではありませんか?」
レオンは黙った。
「商会が危ない」
「……」
「借金もある」
「……」
「支払いも遅れている」
「誰から聞いた?」
「父からです」
レオンは舌打ちした。
「余計なことを」
私はその言葉を聞いて、胸の中で何かが切れた。
「余計なこと?」
「……」
「私との結婚を考えているのに」
「……」
「どうして、何も教えてくれなかったのですか?」
「君を心配させたくなかった」
「違います」
私は首を振った。
「あなた自身が、知られたくなかっただけです」
レオンは怒った。
「何が言いたい?」
「私は」
私は自分でも驚くほど冷静だった。
「あなたと結婚したいと思っていました」
「……」
「あなたを支えたいと思っていました」
「……」
「でも」
私は続けた。
「今のあなたは、私に支えてほしいだけなのではありませんか?」
レオンの顔が強張る。
「セレナさんにも、同じことをしたのではないですか?」
「違う!」
初めて。レオンが声を荒らげた。
「彼女は俺を愛していなかった!」
「では」
私は尋ねた。
「あなたは、彼女を愛していたのですか?」
沈黙。
長い沈黙だった。
レオンは答えなかった。
その沈黙を見て、私は理解した。
彼は、セレナさんを愛していたのかもしれない。
でも、それ以上に。彼女が自分を支えてくれることを当然だと思っていた。
それを失って初めて。その価値に気づいた。
「……分かりました」
私は立ち上がった。
「どこへ行く?」
「部屋に戻ります」
「話は終わっていない」
「私の中では終わりました」
「リリア!」
私は振り返った。
「私は」
ゆっくりと言う。
「あなたの人生を背負うために、結婚するつもりはありません」
レオンは何も言えなかった。
翌日。
王宮から新たな知らせが届いた。
ヴァルディス家への調査が正式に始まった。
理由は、財務状況だけではなかった。
商人たちから、
「アーデルハイト家との関係がある」と説明されて取引を続けた。
という証言が複数出てきたからだった。
つまりレオンがセレナさんの名前を使っていたことが、公になり始めていた。
私は王宮へ呼ばれた。
謁見室には、国王陛下、宰相、財務長官。
そして。レオンがいた。
「リリア嬢」
国王陛下が私を見る。
「お前にも確認したいことがある」
「はい」
「レオンから、アーデルハイト家との関係について何か聞いていたか?」
私は少し考えた。
「以前、セレナさんとの関係がいずれ修復されると思っている、と」
レオンが顔を上げた。
「リリア!」
「私は嘘をついていません」
「それは――」
「レオン様」
私は彼を見る。
「ここでは、もう私を守る必要はありません」
「……」
「事実だけを話します」
私は知っていることをすべて話した。
レオンが。
「セレナさんとの関係は悪くない」と言っていたこと。
商人たちにも。
「アーデルハイト家と再び取引することになる」と話していたこと。
私はそのとき初めて、自分がその嘘を信じていたことに気づいた。
私はレオンの婚約者になると思っていた。
だからその話を疑わなかった。
でも結果的に、私も、その嘘の中にいた。
「以上です」
私は頭を下げた。
レオンは何も言わなかった。
謁見が終わる。
王宮の廊下を歩いていると、後ろから声がした。
「リリア」
振り返る。
レオンだった。
「何ですか?」
「……君まで俺を裏切るのか?」
私はその言葉を聞いて、不思議なほど冷静だった。
「私は」
一歩、彼から離れる。
「あなたを裏切っていません」
「だったら!」
「あなたの嘘に付き合うことをやめただけです」
レオンの顔が歪んだ。
「俺は君を愛している」
「……」
「だから婚約したんだ」
私はしばらく彼を見た。
「私も」
「……」
「以前は、そう思っていました」
「今は?」
私は答えた。
「分かりません」
その言葉を残して。
私は歩き出した。
そしてその夜、私は決めた。
婚約を続けない。
レオンを嫌いになったからではない。
彼を罰したいからでもない。
ただ、これ以上。彼の人生を背負いたくなかった。
私は、彼を幸せにできると思っていた。
でも、人は、他人の力だけでは幸せになれない。
自分の選択から逃げ続ける人を、誰かが救い続けることはできない。
私はようやくそれを理解した。
そして翌朝。
私はヴァルディス家へ向かった。
レオンに婚約解消を伝えるために。
だが、私が屋敷へ着いたとき、門の前には、すでに王宮からの使者が立っていた。
そしてその手には一通の書状。
そこに書かれていた内容を聞いた瞬間。
私は息を呑んだ。
――ヴァルディス侯爵家、財産及び商会の一部について、王家による保全命令。
いよいよ。すべてが。レオン自身のところへ戻ってきた。




