彼女が残していったもの
婚約の再審査が決まってから、レオンは変わった。
以前よりも苛立つことが増えた。
食事の席でも、何か気に入らないことがあるとすぐに黙り込む。
私が話しかけても、返事が短い。
「レオン様」
「何だ?」
「最近、お疲れではありませんか?」
「疲れている」
「少しお休みになったほうが……」
「休んでどうなる?」
「え?」
「俺が何もしなくても、状況が勝手に良くなるわけじゃない」
私は黙った。
以前なら、こんな言い方はしなかった。
けれど今の私は、彼のことを責められなかった。
きっと苦しいのだ。
家の商会が傾き。王家からも疑われ。婚約の再審査まで始まった。
私まで彼を責めたら、彼の味方がいなくなってしまう。
そう思った。
「私にできることがあれば言ってください」
「……リリア」
「はい」
「君は何もしなくていい」
「でも」
「これは俺の問題だ」
そう言って、レオンは席を立った。
私はその背中を見送った。
以前なら彼の言葉をそのまま信じていたと思う。
でも今は少し違った。
何もしなくていい。
その言葉が妙に寂しく聞こえた。
翌日。
私は一人で街へ出た。
ヴァルディス家の商会を見に行くためだった。
もちろんレオンには言っていない。
商会の前まで来ると以前より人が少なくなっていた。
店の中に入る。
「いらっしゃいませ」
店員が声をかけてきた。
「少し聞きたいことがあるのですが」
「はい」
「最近、何か変わったことはありますか?」
店員は困ったような顔をした。
「……いろいろあります」
「例えば?」
「取引先が減りました」
「どうしてですか?」
「信用の問題だと思います」
「信用?」
「支払いが遅れることが増えましたから」
私は息を呑んだ。
「それは……最近からですか?」
「いえ」
店員は少し考えた。
「セレナ様が来なくなった頃から、少しずつです」
「セレナさんが?」
「はい」
「彼女は、ここで何をしていたのですか?」
店員は私を見た。
「ご存じないのですか?」
「……はい」
店員は少し迷ってから言った。
「セレナ様は、ヴァルディス家の商会を実質的に支えていました」
私は何も言えなかった。
「仕入れ先との交渉も」
「……」
「輸送経路の変更も」
「……」
「価格交渉も」
「……」
「資金繰りの管理まで」
「そんな……」
「レオン様が商会を継ぐことになった後も、セレナ様がかなり支えていたんです」
私は唇を噛んだ。
知らなかった。何も。
レオンは。
「彼女は仕事ばかりしていた」と言った。
「俺を大切にしていなかった」と。
私はそれを信じた。
でももしかすると。
彼女が仕事をしていた理由はレオンの家を支えるためだったのではないか。
「セレナさんは……」
私は尋ねた。
「どうして来なくなったのですか?」
店員は静かに答えた。
「婚約破棄されたからです」
当たり前のことだった。
けれどその言葉が、胸に刺さった。
私は店を出た。
街を歩く。
人の声が聞こえる。
馬車が通る。
店先では商人たちが商品を並べている。
いつもと変わらない王都。
なのに私の中だけが、大きく変わってしまった。
私は、セレナから何を奪ったのだろう。
そう思った。
でもすぐに首を振る。
違う。私は彼女から何かを奪ったわけではない。
レオンが婚約を破棄したのだ。
私はその後、彼と結婚することを受け入れただけ。
そう自分に言い聞かせた。
屋敷へ戻ると、レオンがいた。
「どこへ行っていた?」
「街へ」
「一人で?」
「はい」
「何をしに?」
「商会を見てきました」
レオンの表情が変わった。
「商会?」
「はい」
「誰の許可を取って?」
「……」
私は驚いた。
「許可が必要なのですか?」
「そういう意味じゃない」
レオンは苛立ったように言った。
「何を聞いた?」
「いろいろです」
「何を?」
「セレナさんのことです」
沈黙。
レオンの顔から笑みが消えた。
「……彼女が何だ?」
「商会の方から聞きました」
「何を言われた?」
「セレナさんが、商会を支えていたと」
レオンは目を逸らした。
「そんなもの、大げさだ」
「本当に?」
「そうだ」
「でも」
私は一歩近づいた。
「輸送経路も、仕入れも、資金繰りも?」
「……」
「全部、セレナさんがやっていたと聞きました」
「だから何だ?」
その声に、私は驚いた。
「彼女が何をしていようと、俺との関係は別だ」
「……」
「俺を支えるのが婚約者の役目だろう」
私は何も言えなかった。
その言葉はどこかおかしかった。
「でも」
私は言った。
「レオン様は、セレナさんとの婚約を破棄したのですよね」
「そうだ」
「なら」
私は少し迷った。
「どうして、今も彼女に支えてもらうことを期待しているのですか?」
レオンが私を見る。
「……君まで彼女の味方をするのか?」
「そういう話ではありません」
「じゃあ何だ?」
「私は、ただ……」
言葉が続かなかった。
レオンはため息をついた。
「リリア」
「はい」
「君は何も知らない」
「……」
「商会のことも、貴族社会のことも」
「……」
「セレナはそういうところだけは上手かった」
「上手かった?」
「ああ」
レオンは苦笑した。
「だから皆、彼女を有能だと思っている」
「……」
「でも、人の気持ちが分からない」
私は黙った。
また同じ話だ。
セレナは仕事しかできない。人の気持ちが分からない。冷たい。
レオンは何度もそう言っていた。
けれど私は少しずつ、その言葉に違和感を覚えるようになっていた。
だって本当に人の気持ちが分からない人なら。
婚約を破棄されたあと、ヴァルディス家の商会との取引を続ける必要なんてない。
それでもセレナは取引を続けたらしい。
少なくとも最初の頃は。
「レオン様」
「何だ?」
「セレナさんは、婚約破棄のあとも商会との取引を続けていたのですか?」
「……」
「どうなんですか?」
「そうらしいな」
「なぜですか?」
「商売だからだろう」
レオンはそう言った。
私は黙った。
それだけだろうか。
商売だから。本当に、それだけなのだろうか。
その日の夜。
私は眠れなかった。
ベッドに入っても、頭の中に昼間の店員の言葉が浮かぶ。
『セレナ様は、ヴァルディス家の商会を実質的に支えていました』
そして、レオンの言葉。
『彼女は仕事ばかりしていた』
二つを並べると。
意味が変わって見えた。
私はセレナさんを誤解していたのではないか。
そんな考えが頭から離れなかった。
翌朝。
私は父に呼ばれた。
「リリア」
「はい」
「少し聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「ヴァルディス家との婚約についてだ」
私は緊張した。
「王家から、正式な報告が来た」
「……はい」
「かなり厳しい内容だった」
「どういうことでしょう?」
父は一枚の書類を差し出した。
「ヴァルディス家は、複数の商会に対して支払いを遅延させている」
「……」
「そして」
父は続けた。
「その原因の一つが、アーデルハイト家との取引減少だと説明している」
私は書類を見る。
そこには確かに。
アーデルハイト家との取引が減ったことが、資金繰り悪化の一因として記されていた。
「でも」
私は言った。
「セレナさんが取引を止めたわけではないですよね?」
父が私を見る。
「なぜそう思う?」
「……」
私は答えられなかった。
父はしばらく黙っていた。
「リリア」
「はい」
「一つだけ覚えておきなさい」
「何でしょう?」
「商売で最も大切なのは、誰かの言葉を信じることではない」
「……」
「数字を見ることだ」
私はその言葉を聞いて、背筋が冷たくなった。
数字。帳簿。契約書。支払い。
私は今まで、全部見ようとしていなかった。
レオンさんの言葉だけを信じていた。
その日の午後。
私はもう一度、ヴァルディス家の商会を訪れた。
今度は、店員ではなく古参の経理担当者に話を聞いた。
「セレナさんについて知りたいのです」
「……」
「お願いします」
経理担当者はしばらく黙っていた。
そして一冊の古い帳簿を取り出した。
「これを」
「これは?」
「セレナ様が管理されていた帳簿です」
私はページを開いた。
細かい文字が並んでいる。
輸送費。仕入れ価格。鉱山の採掘量。小麦の価格変動。
すべて綿密に記録されている。
そして、何ページか進んだところで私は手を止めた。
『レオン様が将来、商会を継ぐことを考え、今のうちに財務基盤を安定させておく必要がある』
そう書かれていた。
私は息を呑んだ。
「……これ」
「はい」
「セレナさんが?」
「そうです」
その下には、いくつもの計画が書かれていた。
借入金を減らす。輸送経路を変更する。鉱山との長期契約を結ぶ。無駄な支出を削減する。
そして最後に。
『五年以内に、ヴァルディス家単独で安定した経営ができる状態にする』
私は帳簿を閉じた。
手が震えていた。
私は。何も知らなかった。
セレナさんはレオンを支えるために。
五年先のことまで考えていた。
その仕事を。レオンは。
「仕事ばかりしていた」
そう言っていた。
私は帳簿を抱えたまま商会を出た。
外は雨だった。
傘も持っていない。
それでも。私はそのまま歩いた。
頭の中で、何かが崩れていく。
私が選んだ人は本当に私が思っていた人なのだろうか。
そして、私が奪ったと思っていたものは。
本当は。最初から私のものではなかったのではないか。
屋敷に戻るとレオンが待っていた。
「リリア」
「……」
「どこへ行っていた?」
私は彼を見た。
今までなら。
その顔を見るだけで安心した。
でも今日は違った。
「レオン様」
「何だ?」
「一つだけ聞かせてください」
「何を?」
「あなたは」
私は言った。
「セレナさんに、商会を任せていたのですか?」
レオンの顔が。
初めて。明確に曇った。
「……何の話だ?」
「帳簿を見ました」
「……」
「あなたのために、セレナさんが作った計画です」
レオンは黙った。
「五年先まで」
「……」
「あなたが商会を継いでも困らないように」
「……」
「どうして私に教えてくれなかったのですか?」
レオンはしばらく黙っていた。
そして低い声で言った。
「……そんなもの、もう関係ない」
私は彼を見つめた。
「そうですか」
その瞬間私は初めて思った。
もしかするとこの人は、セレナを失ったことを後悔しているのではない。
セレナがいなくなったことで自分が困っていることを、後悔しているだけなのではないか。
その考えが頭に浮かんだ瞬間。
胸の奥が冷たくなった。
私は何を選んだのだろう。
そしてこの婚約が正式に決まるまで。
あと三週間だった。




