第1話 客が二万人、競合ゼロ
右に一万。左に一万。
その中央に、俺のキッチンカーが一台。
客が二万人。
競合店はゼロだった。
運転席の窓から外を見回し、俺は一つ息を吐いた。
荒涼とした岩と土だけの平原。見渡す限り、鎧や革甲冑を着込んだ武装集団が対峙している。右側の集団は人間の騎士や歩兵たち。左側の集団は、頭に角が生えた者や異形の姿をした魔族たちだった。
俺が乗っているのは、今日が初稼働となるはずだった自分名義のキッチンカー《ノマド》だ。
出店予定地に向かって車を走らせていたはずが、濃霧に包まれたかと思うと、気づけばこの見知らぬ戦場のど真ん中に放り出されていた。
両軍は剣や槍を構え、痛いほどの殺気を放っている。
だが、どちらも動かない。いや、動けないのだ。
エンジンを切った静寂の中、かすかに風に乗って聞こえてくるのは、鎧の擦れる音ではなく、無数の腹の虫が鳴る音だった。
兵士たちの顔には泥と疲労がこびりつき、武器を持つ手は小刻みに震えている。怒りや恐怖よりも、極限の飢餓感が彼らの足を縫い留めていた。補給が途絶え、何日もまともな飯を食っていないのだろう。
俺は現代の飲食企業で、十三のキッチンカーブランドを立ち上げ、成功させてきた。会社の売却と同時に古い人材として現場を追われたが、移動販売のロジックは骨の髄まで染み込んでいる。
俺は客を三分観察し、彼らが今一番何に困っていて、いくらなら払えるか、最初の仮説を立てる。それを商品として試し、外れれば直すのが俺の仕事だ。
目の前の二万人は、殺し合いに来た兵士ではない。
何よりも食事を欲している、腹を空かせた客だ。
「客がいるなら、商売になる」
俺は運転席から立ち上がり、後部の厨房スペースへと移動した。
戦う力など俺にはない。包丁は食材を切るためのものであって、人を刺すためのものではない。俺の武器は、この車と仕込んでおいた食材だけだ。
販売口の跳ね上げ式ドアを勢いよく開ける。
ガチャン、という金属音が戦場に響き、何千という視線が一斉に俺の車に集まった。
構わず、俺は鉄板の下のバーナーに火を入れる。
冷蔵庫には、今日のために仕込んでおいた百二十食分の食材がある。
鉄板が熱を持ったのを確認し、俺は下処理済みの灰角兎の肉を乗せた。
ジューッという激しい音とともに、白い煙が立ち上がる。
強火で肉の表面を炙り、そこに飴色になるまで炒めておいた玉葱を合わせ、濃い特製の肉汁だれを絡める。香草を練り込んだ薄焼きのパン生地にそれを乗せ、手早く包み込んだ。
焦げた獣脂の暴力的な香りと、甘辛いソースの匂いが、風に乗って両軍の陣地へと流れていく。
たまらず喉が鳴る音が、あちこちから聞こえた。
殺気立っていた空気が、明確に食欲へと塗り替えられていく。
「開いてるぞ。ただし、うちの店には規則がある」
俺は両軍に向かって声を張り上げた。
「一つ、武器を収めてから並ぶこと。二つ、種族や身分で値段は変えない。三つ、全員に行き渡るまで一人一個だ」
言葉が通じたのか、両軍の兵士たちがざわめき始める。
だが、動こうとする者はいない。未知の鉄の箱に対する警戒と、軍隊という規律が彼らを縛っている。
その均衡を破ったのは、右側の人間軍から歩み出てきた一人の客だった。
豪奢な銀の装飾が施された鎧を纏い、腰には長剣を提げている。
風に揺れる銀髪と、氷のように冷たい灰青色の瞳。長身で凜とした顔立ちの女騎士だった。
ただ、その足取りはどこかおぼつかない。彼女の体からは、常人離れした魔力の残滓が感じられたが、それゆえに燃費が悪いのか、限界まで飢えていることがひと目でわかった。
女騎士は販売カウンターの前に立つと、震える手で懐から銀色の硬貨を数枚取り出し、ステンレスの台に置いた。
「……全部、買おう」
かすれた、しかし威圧感のある声だった。
「あるだけすべてよこせ。それで足りないなら、王国の名において後日支払う」
彼女の言葉に、周囲の人間兵たちが「剣聖様だ」「剣聖様が動かれたぞ」とざわめく。
なるほど、国を代表するような英雄というわけだ。
だが、俺はカウンターに置かれた銀貨を彼女の方へ押し返した。
「悪いが、買い占めはお断りだ。さっきも言ったはずだぞ、全員に行き渡るまで一人一個だと」
「なっ……」
女騎士――剣聖は、目を丸くして俺を見返した。
これまで、彼女の要求を拒絶する者などいなかったのだろう。微かに怒りの色が灰青色の瞳に浮かぶ。
「私が誰か、わかって言っているのか? 私はレガリア王国第一騎士団――」
「あんたが王国の剣だろうが、なんだろうが関係ない。列を守れないなら、王でも魔王でも売らない」
俺はトングで鉄板の上の肉を返し、香ばしい匂いをわざと彼女の顔に向けて扇いだ。
「食いたいなら、武器から手を離して後ろに並べ」
商売人としての俺の圧力と、目の前で焼ける肉の匂い。
剣聖はギリッと奥歯を噛み締めた後、ゆっくりと剣の柄から手を離し、不承不承といった様子で販売口の横――つまり列の最後尾へと移動した。
王国最強の剣聖が、見ず知らずの店で大人しく順番待ちの列に並んだ。
その事実は、二万人の兵士たちにかかっていた枷を外すのに十分だった。
「お、おい! 俺にも一つくれ!」
「こっちもだ! 金ならある!」
人間軍の兵士たちが、次々と武器を鞘に収め、剣聖の後ろへと並び始める。
それだけではない。
左側の魔王軍の陣地からも、頭に黒い角を生やした魔族の兵士たちが、たまらず列へと小走りで向かってきた。
「おい貴様ら、魔族の分際で人間と同じ列に並ぶ気か!」
「うるせえ! 飯の匂いを嗅がされて黙ってられるか!」
列の途中で人間兵と魔族兵が鉢合わせし、再び一触即発の空気になる。
俺はカウンターを強く叩いた。
「列を乱すな! 武器を抜いた奴には一生売らないぞ!」
その一喝で、両者は渋々ながらも睨み合いを止め、交互に列を形成し始めた。
右に一万、左に一万の軍勢の真ん中で、人間と魔族が同じメニューを求めて一つの列に並ぶ。料理が敵意を消したわけではない。それでも、この販売口の前だけは店の規則が武器より先に働いた。
「お待たせした。炙り角兎と飴色玉葱の肉汁包みだ」
俺は耐油紙に包んだ最初の商品を、列の先頭にいる剣聖に差し出した。
彼女は受け取った熱さにビクッと肩を震わせたが、もう我慢の限界だったのだろう。周囲の目も気にせず、両手で持った薄焼きの生地に大きく噛みついた。
パリッ。
表面の焼けた生地が割れる小気味いい音が響く。
その瞬間、閉じ込められていた極熱の肉汁と、飴色玉葱の甘みが彼女の口内へと溢れ出した。
「あ、ふっ……」
剣聖の口から、無防備な吐息が漏れる。
熱さを逃がすようにハフハフと息を吐きながら、彼女は肉を咀嚼した。
酸味のある香草が獣肉の臭みを見事に消し去り、炭水化物と強烈な脂の旨味が、飢えきった肉体の隅々にまで染み渡っていく。
氷のように冷たかった彼女の表情が、嘘のように緩み、とろけるような恍惚とした顔に変わった。
「なんだ、これは……熱くて、旨い……」
剣聖のその反応を見て、後ろに並んでいた兵士たちがゴクリと盛大に喉を鳴らす。
俺は次々に鉄板で肉を焼き、包み、銅貨や銀貨と引き換えに兵士たちへ渡し続けた。
誰もが片手で包みを持ち、火傷しそうになりながら肉を頬張っている。種族の違いは消えない。ただ、互いを睨むより先に、こぼさず食べることへ意識が向いていた。
だが、順調に六十食ほどを売り上げた時だ。
列の最後尾の向こう側から、空気を読まない怒声が響いた。
「そこを退け! 貴様ら、軍の規律を忘れたか!」
恰幅の良い、豪華な軍服を着た男が、数十人の武装した兵士を連れて列を強引に割り込み、販売口の真正面へとやってきた。補給将校の腕章をつけている。
男は俺のキッチンカーを値踏みするように見回すと、顎をしゃくった。
「その奇妙な馬車には、まだ大量の食料が積まれているな。徴発命令だ。車ごと置いていけ」




