漆黒の騎士と聖女
他に手が無いとはいえ、約束通りに故郷で彼の帰りを待てないのは悲しかった。
――王都になんて行きたくない。何もかも投げ出して、レイの元へ逃げ出して、どこか辺境の山奥で二人でひっそり暮らしたい――
…だが、そんな事をすればどうなるか、結果は容易に想像できた。
士官学校卒業の時点でレイは故郷にまでその噂が轟くほどの、超人的な実力の持ち主となっていたがそれでも無敵のスーパーマンではない。自分が彼の元に逃げ出せば彼は自分を匿い、守ってくれるだろう。 …しかし最終的には国家権力の途方もない力によって引き離されてしまうのは目に見えている。 自分は二度と逃げられないよう幽閉され、彼は聖女を誘拐した重罪人とされる。
例え自分の意向であろうと、聖女を誘拐したとなればその罪が軽い訳がない。 …そんな事をさせる訳に行かない。
朝になり、侍女たちに手伝われながら例の冗談のような聖衣を身に纏い、王城を…自分を訪れてくる人々を迎える。…男性達からの視線は痛々しいくらい尋常ではなかったが…それ以上に慣れとは怖いもので、諦めもあって気にならなくなってきた。
それに、自分なりに行動を起こし始めていた。 レイヴンに手紙を送り、近々王都に行く用事ができたから、故郷に行かず、王都で直接会いたい…という、当たり障りのない主旨の手紙。 …まずはこれで行き違いを防ぐ。
自分は権威こそあれど、非力な一人の人間に過ぎない。 どうしても非力な自分を補い、護ってくれる騎士が必要になってくる。 それはレイ以外にあり得ないし…あり得てはならない。
その為の第一の行動が手紙であった。更にこちらへ着いてから自分が聖女として覚醒してしまった事、折を見て王城に会いに来て欲しいという旨の手紙を送った。
…もうとっくに届いて、すぐにでも彼が会いに来てくれても良さそうなものなのに、返事も無ければ拝礼者の中にもその姿は無かった。 王城で最も信頼している侍女にも手紙を託したが、未だ音沙汰は無い。
おかしい…何かがおかしい。
故意に無視でもしない限り、この時代の手紙の返事がこうも遅れる事など有り得まい。
或いは、第三者の介入によるものか…
エレザは認めた手紙を持ち、夕方になると僧侶のローブに似せて作った布切れを被り、密かに城を出ようとした。
こうなったら、他者の手を介さず直接郵便に…
そう決心しながら、城付き僧侶たちに紛れて城下へ出ようとしたエレザの細腕が掴み上げられた。
「ひゃっ…!」
「おやおや、聖女殿、こんな時間にどちらへ?」
柱の陰に潜んでいた第三王子・パリエルに捕まってしまった。縫い付けが甘かったローブもどきが解れてはらりと床に落ち、聖衣が露わになった。
切れ長の目に鮮やかなブルーの瞳。しなやかな金髪。 …冷笑的な口元。
全体的に整い過ぎているほどの美しい青年。 歳は自分より3つ上。 非力で、決して学歴や知識豊富とは言えないエレザを小馬鹿にするような優越感が日々、物腰の節々から感じられて苦手な相手だった。挨拶も最初の一度きりで、それ以来敬遠してこちらからは会っていなかった。
…老人特有のセクハラ発言こそあれ、曾祖父や祖父を思わせるダリウス王への抵抗感は無かったが、他の王子達はどうにも苦手だった。 …パリエル王子はその筆頭格だ。
これが、顔だけなら今まで見てきた誰よりも良い。 …だが、自身に微かに眠る生物本能…それが危険信号を最も鳴らす相手でもあり、気を許せなかった。
そして、それを裏付けるように自分を聖女として見ていない節があった。例え自分を憎んでいる王子婚約者候補たちでさえ、エレザには一定の敬意を持って接してくれた。
だが、この王子にはそれが感じられなかった。 あくまで形式的にそう呼んでいるだけで、どちらかと言うと…自分を思い通りにできる無力な女として見ている気がしてならなかった。
…たちの悪い事に、王子達の中でも最も女癖が悪い事で有名で、エレザ自身も彼の端正な顔…その眼から向けられる視線に言い知れぬ怖気を感じていた。 …聖女という立場上、妙な事はされないとは思うが…第三者が存在しないこの人気の無い場で、絶対の保証など誰がしてくれるというのか?
「…私を尾行していたのですか? 感心しませんね、パリエル様?」
焦燥を押し殺し、虚勢を交えた平静な声でパリエルを咎めた。
「できるだけ城から離れないで欲しい」
…とは、あらゆる人から懇願されているが、外出を禁じられている訳では無い。聖女である以上、酒場や歓楽街等への無許可・単独での遊興は厳しく制限されていたが、目的は郵便局だ。 自分には何ら後ろめたい事など無い。
…ただ、どこから敵対者が見ているか分からないから変装をしていただけだ。
その敵対者に捕まってしまった。
「心外ですなぁ、人聞きの悪い…私はただこうして貴女をお守りしたい一心で…」
「触らないで下さいっ…」
みだりに伸びてきた手に本能的な嫌悪感を抑えきれず、反射的に振り払ってしまった。
…同時に、しまった、と思った時には遅かった。
薄暗い宮殿内に肌を張られる甲高い音が響いた。
普段は蚊一匹さえ落とせない癖に、こんな時に限って見事なビンタをかましてしまった…
手を鋭く払われたパリエルの表情から笑みが徐々に消えていく。
…代わりにプライドを傷つけられた男の… いや、男全てがそうではないとは思うが…女を目下に見る男にとっての、許しがたい憎悪とソレへの嗜虐心の光が宿っていくように見えた。
…狂気さえ感じるほどに。
…パリエル王子のもう一つの顔は、自尊心が極めて強く、非常に凶暴で残忍な性格だった。 …あくまで噂レベルだが、身辺に良からぬ黒い噂も聞く。 不審…不幸な死を遂げた婚約者や侍女の噂…
…今更ながらに、武道の一つも覚えない非力な身で本能的に相手の手を払ってしまった事が悔やまれる。
「…放っておいて下さい…」
そう言いながら後退る。
…王城内の人気はすっかり無くなっていた。
何となれば、節電に熱心な施設のように…いや、それ以上に燃料事情の寂しい世界だ。松明すら要所にしか焚かれず、お城の中だというのに、自分の育った田舎町と同等かそれ以下の光源しかない。
…暗闇は殆どの犯罪に味方し、その被害を隠すのに最も優れた存在だ…
パリエルが先ほどまでとは明らかに別の笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄ってくる。
その表情を目の当たりにして、町で暴漢に襲われかけた記憶が鮮明にフラッシュバックしてきた。
足を縺れさせかけながら、エレザは身を翻し、頼りない足取りで必死に走った。
そうでなくとも決して運動神経は良い方では無い。 更にこの衣服と、ヒールの高いエンシェントブーツが致命的な足枷となった。 腰まで浸かったプールに入った時のような移動の融通の利かなさ…それに対してパリエル王子の、陸地を悠々と歩くような男ならではの圧倒的な身体能力の優遇。
パリエルはその気になれば捕まえられるであろう余裕ぶりでエレザを追いかけながら、時折駆けては彼女を追い越してその進路に立ち塞がり、エレザの進路を変えさせる。
それに従って逃げる事が相手の狙い通りだと分かっていても、まさかその脇を強引に進む訳にも行かず、他にパリエルから逃れる術は無かった。
「誰かッ…!」
助けを求める擦れた声に応じる者はいない。
気付けば警備兵や城の者が居ない方へ、人気の無い方へと追い込まれ…時計塔を登らされていた。
既に息が上がっていた。背後からエレザの腰や大腿を軽く触れて余裕を見せつけるパリエルにせっつかれ、逃げ場がある訳も無い最上階…時計盤管理室へと追い込まれていく。
…無情にも階段は終わり、狭い管理室へと追い混まれてしまった。管理室の中心に立つ、学校の教卓程の大きさしかない調整台一つを挟んでパリエルと向かい合う。 後は管理人が修理作業の泊まり込みに使う、薄汚れた寝床があるだけだった。
「どうしてこんな事を…!?」
エレザは完全に逃げ場を失って、壁を背にしてパリエルを質した。狂気じみた欲望を帯びた笑いを浮かべて戸口に立つパリエルを、涙を堪えて精一杯睨みつけた。
悪ふざけで済む範疇をとっくに越えている。 …この男が絶対に自分を無事で済ませない事は分かり切っていた。 ただ、その悍ましい結末を一秒でも先延ばしにしたかった。
「ふん…聖女の力とやらが無くなっても俺には関係ない。どうせ王位継承順とお前の所有権で言えば、兄貴たちには敵わないしな。 あの未来の妃を夢見ている夢見心地女にもウンザリしたから、先に送ってやったよ。…そして平民出の頭がお花畑の聖女様も、夜の時計塔へ遊びに来て足を滑らせ不幸な転落事故。 …盛大な国葬になるだろうが、葬式ではしっかり泣くと約束するよ。 …決まりだな」
「…悪魔…人殺しッ…!」
声を封じるようにパリエルが部屋の中に入って来た。調整台を盾にして距離を取ろうとするが難なく回り込まれて肩を乱暴に掴まれ、薄汚れた寝床へと突き飛ばされた。
その弾みにクローバーのバレッタが外れて転がった。 それを跨ぎ越えて男が迫ってくる。手を伸ばしても届かない。 …せめて…せめてあの髪留めだけは抱いて死にたい…!
「肌を傷つけられたくなければ、大人しくしていた方がいいぞ、聖女殿?」
パリエルが剣を抜く音。
…嫌だ…ここまできてこんな終わり方だけは…
レイヴン…!
「殿下ッ!」
木造の螺旋階段を駆け上がってくる音。戸口に立った黒衣の騎士が叫ぶ。パリエルがこの上なく忌々しげに部屋の外を振り返った。
同時にエレザは安堵から四肢の力が抜け、薄汚い毛布にも構わず倒れ込んでしまった。
「…その軍服…何故騎士学校を出たばかりの青二才がここに居る? …身の程を弁えろ。 下がれッ!」
レイヴン…黒髪に、引き締まった体躯に馴染んだ黒い制服。塔に吹き込む風に黒いコートを靡かせたその出で立ちと生粋の軍人独特の厳しい雰囲気は、正に悠々と空を駆けるワタリガラスのようだった。
「いいえ、下がりません。 聖女様からの主命により馳せ参じました。…聖女様からの主命は教会の神託と同等かそれ以上の優先度となるのは御存知の筈です。 …殿下こそ、この状況を一体どう釈明されるおつもりか?」
何をしようとしていたかは誰が見ても明らかである。レイは左手を腰の鞘に掛け、右手は極限まで脱力して…王子の動き方次第でいつでも剣を抜く構えの臨戦態勢だ。 …限りなく殺気に近い怒気を放っている。
「…チッ…手紙は全て握り潰してきたつもりだったが、見逃していたか。 だが一興だ。…聖女の前でその青臭いナイトから始末してやる。 …聖女殿はどんな絶望の顔を見せてくれるかな?」
パリエルはサーベルを抜き、レイと向き合った。
レイも銀剣を抜き払い、同時にパリエルの一太刀を受け止めると二度、三度と剣を切り結んだ。
流石に王家育ちだけあってパリエルも手強く見えたが、レイは明らかに手加減していた。 パリエルは腐っても王子だ。隙を見て格闘で怯ませ、取り押さえようと目論んでいるようだった。
そして、パリエルの剣を切り返した所で、業を煮やしたパリエルがサーベルを振り回し、レイが避け、その近くにあった張り詰めたロープを断ってしまった。
…そのロープは時計盤メンテナンスの為に高所に結わえ留められていた即席の足場に繋がっていた。 足場である連ねた丸太が支えを失い、振り子のように凄まじいスピードで向かってくるが、レイは宙に身を翻して避けた。 しかしパリエルは反応できず、木製の足場に胴を直撃されて吹き飛ばされ…螺旋階段の続く時計塔から悲鳴を上げながら落下していった。…悲鳴はすぐに聞こえなくなった。
「なっ……で、殿下ッ!?」
レイが愕然として手すりに駆けつけて身を乗り出し、落下していったパリエルを見ていたが…やがて諦めたようにかぶりを振って、憂鬱な溜息を吐いた。
そして、エレザを振り返って駆け戻った。
「エレザ、大丈夫かッ!?」
エレザはレイに抱きついた。三年を経て更に逞しく、大きくなったレイの体がエレザを抱き留めた。
…大変な再会になってしまった。 だが、今はただレイに抱きついてすすり泣く事しかできなかった。




