結界の限界
白い光は、まだ消えていなかった。
陽菜は両手を土についたまま、息を吸った。吸ったはずなのに、胸の奥まで届かない。結界の外では黒いものが何度もぶつかり、そのたびに光の膜が震えた。
「天野、顔色悪いぞ」
佐伯の声が近くで聞こえた。
「平気」
言ってから、陽菜は首を振った。
「……平気じゃない。でも、止め方がわからない」
佐伯は何か言いかけて、やめた。陽菜の肩に触れようとして、結局その手を引っ込める。触れたら壊れそうだと思ったのかもしれない。
榊原は結界の内側で生徒たちを一か所に寄せていた。
「立てる者は白石のそばに。座っている者を囲むな、空気が通るようにしろ。桐生、人数は」
「影森くん以外、います」
桐生の声は震えていた。
一瞬、誰も何も言わなかった。
陽菜はその名前を聞いただけで、喉の奥が熱くなる。律がいない。わかっているのに、何度でもそこで引っかかる。
「……探しに」
「今は駄目だ」
榊原の声は低かった。
陽菜は顔を上げた。先生の服は土で汚れていて、片袖が破れている。それでも、目だけは逸らさなかった。
「必ず探す。だが、今ここから出たら、全員死ぬ」
陽菜は唇を噛んだ。
結界の外で、鎧の兵士たちがこちらへ近づいてきた。口々に何か叫んでいる。音は聞こえるのに、意味はまったく入ってこない。
一人が陽菜を指した。
別の兵士が膝をつき、胸の前で印を切る。祈っているのか、驚いているのか、それすら陽菜にはわからなかった。ただ、自分の足元から広がる白い光が、彼らにとって普通ではないらしいことだけは伝わってきた。
「何言ってるんだ……?」
大河内が呟く。
「わかるわけないだろ」
佐伯が返す。けれど、その声にも力はなかった。
新海は座り込んだままだった。顔を上げてはいるが、目の焦点が合っていない。
「ステータスとか、スキルとかさ」
誰に言うでもなく、掠れた声で言う。
「そういうの、出ないんだな」
蓮司が振り返った。
「新海」
「いや、わかってる。今そんな話じゃないの、わかってるけど」
新海は笑おうとして、失敗した。
「俺、何であんなこと言ってたんだろ」
誰も答えなかった。
白石が苦しそうに息をしている。短く吸って、短く吐く。桐生がその背中に手を当てていた。
「白石さん、私の声聞いて。吸うより、吐く方を長く」
「む、無理……」
「大丈夫。今はこっち見て。外は見なくていい」
桐生は自分も泣きそうな顔をしていた。それでも、白石から目を逸らさなかった。
結界がまた揺れた。
陽菜の視界が一瞬白くなる。膝が落ちそうになり、佐伯が慌てて支えた。
「天野!」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
「でも、離したら」
陽菜は結界の外を見た。
黒い群れは、減っていない。むしろ増えていた。白い光に集まってきている。光に弾かれるたび、怒っているようにも、喜んでいるようにも見えた。
その時、兵士たちの動きが変わった。
一人が久我を指した。
久我の足元では、黒い影が揺れていた。地面に落ちた影が濃くなり、息をしているみたいに伸び縮みしている。久我はそれを踏みつけるように足を動かしたが、影は消えなかった。
「俺だって知らない」
久我の声が低くなった。
「何なんだよ、これ」
月村が一歩下がった。
ほんの一歩だった。
けれど、久我は見た。
月村も、自分が下がったことに気づいた。顔が青くなる。
「ごめん。でも、それ……怖い」
久我は何も言わなかった。
その沈黙が、余計に痛かった。
兵士の一人が盾を構えた。短く鋭い声を出す。言葉はわからない。けれど、盾の向きだけで十分だった。
久我へ向いている。
佐伯が前に出た。
「おい」
兵士は佐伯の言葉を理解しない。盾は下がらない。
佐伯は久我の前に立った。
「怖いのはわかる。でも、久我を敵みたいに見るなよ」
「佐伯」
久我が呼ぶ。
「別に、俺は」
「黙ってろ。今のお前、黙ると余計怖く見える」
「ひどくないか」
「ひどい状況だからな」
久我は一瞬だけ目を伏せた。
兵士たちはまだ何か叫んでいる。その中に、陽菜には聞き取れない音が何度も混ざった。短く、硬く、警戒するような響き。
意味はわからない。
でも、その音が久我を刺していることだけはわかった。
陽菜は息を整えようとした。胸が痛い。結界が外から削られるたび、自分の中のどこかも一緒に削られている気がする。
それでも、陽菜は久我の方を見た。
「久我くんは敵じゃない」
声は大きく出なかった。
けれど、結界の内側では聞こえた。
「ここにいるなら、私が守る」
久我が陽菜を見た。
月村も、佐伯も、榊原も。
陽菜はすぐに視線を外した。そんなふうに見られると困る。自分だって、何をしているのかわからない。守るなんて言った。言ってしまった。
律なら、きっと茶化してくれた。
重すぎる空気に、変なことを言ってくれた。
律はいない。
だから、誰も茶化さなかった。
結界にヒビのような光が走った。
「天野さん!」
桐生が叫ぶ。
陽菜は歯を食いしばった。両手に力を入れる。白い光が一瞬だけ強くなる。けれど、すぐに薄くなった。
黒い群れが一斉に近づく。
兵士たちが叫ぶ。榊原が生徒たちを背に庇う。佐伯が久我の腕を掴んで下がらせる。白石の息がまた乱れ、桐生が何度も名前を呼んだ。
陽菜の膝が土についた。
「ごめん」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
結界の光が大きく揺れる。
その瞬間、黒い群れの動きが止まった。
最初に気づいたのは、兵士だった。空を見上げ、言葉にならない声を漏らす。次に新海が顔を上げた。佐伯も、榊原も、つられて上を見る。
昼だったはずの空が、暗くなっていた。
雲ではない。
光が消えたのでもない。
遠い場所から夜そのものが広がってくるみたいに、戦場の色が変わっていく。
月村が小さく呟いた。
「……空、暗くなってない?」
陽菜は答えられなかった。
結界の外で、黒い群れが一歩下がった。
兵士たちも、声を失っていた。
陽菜には、まだ彼らの言葉はわからない。けれど今だけは、同じものを見ている気がした。
誰かが、来る。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく震えた。




