夜が落ちる
昼が、薄くなっていく。
誰かが火を消したわけではなかった。雲が太陽を隠したわけでもない。ただ、戦場の色だけがゆっくり沈んでいく。白い結界の外に伸びていた影が、音もなく濃くなった。
「夜……?」
月村の声は小さかった。
新海が空を見上げたまま、口を開けている。
「いや、まだ昼だろ」
「でも、暗い」
「だから、何で」
言い合いにもならなかった。
陽菜は膝をついたまま、結界を保っていた。保っている、という感覚はない。離したら壊れるものに、必死にしがみついているだけだった。
佐伯が隣にしゃがむ。
「天野、まだいけるか」
「わからない」
「それ、一番怖い返事だぞ」
「ごめん」
「謝るな。影森がいたら、今の絶対いじってる」
陽菜は笑えなかった。
でも、その名前だけで少し息が戻った。
結界の外では、鎧の兵士たちが空を指して叫んでいた。言葉はわからない。何度聞いても、意味のある形にならない。ただ、声の硬さと、後ずさる足で、よくないことが起きているのはわかった。
榊原が生徒たちの前に立つ。
「全員、動くな。結界の外には出るな」
「先生、あれ何なんですか」
大河内が聞いた。
榊原は一瞬だけ黙った。
「わからん」
その答えに、誰も責める顔をしなかった。わからないものが多すぎた。
黒い群れが止まっていた。
さっきまで結界へ何度もぶつかっていた魔法生物たちが、一斉に動きを止めている。空を見ているものはいない。代わりに、足元の影を見ていた。
いや、見ているように見えた。
「なあ」
久我が低く言った。
「俺の、さっきより静かになってる」
佐伯が振り返る。
久我の足元にあった濃い影は、まだ消えていない。けれど、さっきのように暴れてはいなかった。夜に触れた途端、呼吸を合わせるように、地面へ薄く沈んでいる。
月村がそれを見て、息を呑んだ。
久我の肩がわずかに強張る。
「まだ怖いか?」
「……怖い」
月村は正直に言った。
それから、首を振った。
「でも、さっきと違う」
久我は何も返さなかった。けれど、顔を逸らしはしなかった。
兵士たちの声が一段高くなった。
結界の外、黒い群れの後ろで、地面の影が盛り上がる。そこから何かが出てきた。獣に似ている。けれど、魔王軍のものみたいに口を裂いていない。目もない。ただ、滑らかな影が四本の脚を持ち、静かに立っていた。
一体ではなかった。
二体、三体。数えようとした時には、もう増えていた。
「敵、増えたのか……?」
大河内が掠れた声で言う。
佐伯が陽菜の前に半歩出た。
「助けに来たのか、敵が増えたのか、どっちだよ」
誰も答えられなかった。
影の獣たちは、結界を見なかった。
陽菜たちを見なかった。
ただ、魔王軍の黒い魔法生物だけを見ていた。
次の瞬間、影が走った。
音がなかった。地面を蹴る音も、唸り声もない。黒い群れの一体が反応するより早く、影の獣がその首元に食らいついた。血は出ない。代わりに、黒い体がほどけるように崩れていく。
「……何だ、あれ」
新海が呟いた。
昨日までなら、何かのゲームに例えたかもしれない。今は、その余裕がなかった。
魔王軍の魔法生物たちが一斉に暴れ出す。だが、影の獣たちは崩れない。吠えない。散らばらない。まるで誰かの指示を受けているみたいに、結界の前から魔王軍だけを剥がしていく。
兵士たちも混乱していた。
一人が槍を構え、別の兵士に止められる。何かを叫んでいるが、陽菜にはわからない。けれど、彼らにも判断がついていないのは見えた。
魔王軍の仲間割れ。
そう見えてもおかしくない。
けれど陽菜は、そうは思えなかった。
「こっちを、見てない」
佐伯が陽菜を見る。
「何?」
「あれ、私たちを襲いに来てない」
「何でわかるんだよ」
「わからない」
陽菜は結界の向こうを見つめた。
怖い。
怖いのに、嫌な感じがしない。
暗いのに、飲み込まれる感じがしない。
律が部屋のカーテンを閉めて「まだ朝じゃない」と言っていたのを、なぜか思い出した。こんな時に思い出すことではない。自分でもそう思うのに、浮かんでしまった。
結界がまた揺れる。
陽菜の腕から力が抜けかけた。
「天野!」
佐伯が支える。
「大丈夫、まだ」
「それ、もう信用できないやつだろ」
「うん」
「認めるなよ」
その短いやり取りで、陽菜は少しだけ息を吐けた。
久我が結界の外を見ていた。自分の影と、外の影の獣を見比べるように。
「……あれ、魔王のやつとは違う」
月村が聞く。
「わかるの?」
「わからない。でも、違う」
久我は自分の胸元を押さえた。
「さっきの黒いやつは、見てるだけで気持ち悪かった。今のは……変だ。怖いのに、少し楽だ」
月村は何も言わなかった。
ただ、一歩下がった距離を、それ以上広げなかった。
黒い群れが押し返されていく。
兵士たちの一部が、結界へ向けて何かを叫んだ。陽菜には意味がわからない。けれど、さっきまでの警戒とは違う。驚きと、恐怖と、ほんの少しの期待が混ざっているように聞こえた。
その時、戦場の奥で音がした。
金属が空気を裂く音。
黒い群れの中央が、縦に割れた。
何が起きたのか、陽菜には見えなかった。ただ、さっきまで固まっていた魔法生物たちが、まとめて左右へ弾き飛ばされた。地面に、夜より濃い線が走っている。
遅れて、巨大な剣が見えた。
大剣だった。
人が持つには大きすぎる。けれど、それは誰かの手に握られているわけではなかった。夜の中に浮かび、刃だけが静かに向きを変える。
兵士たちの声が消えた。
クラスメイトたちも、誰も喋らなかった。
大剣がもう一度動く。
黒い群れが裂ける。悲鳴のような音が上がり、すぐに夜へ吸われた。
榊原が低く言った。
「全員、伏せる準備だけしておけ」
「先生、あれ味方なんですか」
大河内の問いに、榊原は答えられなかった。
陽菜は結界の向こうを見つめていた。
夜の奥から、誰かが歩いてくる。
黒いフードを深く被った人物だった。背は高くない。歩き方も急いでいない。けれど、その人影が近づくたび、魔王軍の黒いものが道を空けるように崩れていく。
佐伯が息を呑む。
「誰か、いる」
陽菜の指先が震えた。
その人物は、まだ顔を見せない。
何も言わない。
ただ、夜を連れて、こちらへ歩いてきた。




