戦場の勇者候補
土の匂いがした。
天野陽菜は、最初それが何なのかわからなかった。頬に触れているものが床ではない。手をついた指先に、細かい砂が入り込む。
「……律?」
返事はない。
陽菜は顔を上げた。黒板も机もない。窓も、蛍光灯も、昨日の係決めの文字も消えていた。
代わりに、知らない空があった。
「全員、動くな!」
榊原修の声が響いた。
陽菜はその声で、ようやく周りを見た。佐伯蓮司が咳き込みながら起き上がっている。桐生真琴は白石紬の肩に手を回し、何か声をかけていた。新海奏太は座り込んだまま、口を半開きにしている。
「何、ここ」
誰かが言った。
「学校じゃない」
別の誰かが答えた。
そんなことは見ればわかるのに、言わずにはいられなかった。
榊原は土の上に膝をついた生徒の腕を取り、立てる者を一か所に集めていく。
「怪我をしている者は手を上げろ。動けない者は声を出せ。桐生、人数を数えられるか」
「……はい」
桐生の声は震えていた。それでも返事をした。
「白石さん、立てる?」
「ごめ、足が」
「そのままでいい。無理しないで」
陽菜は立ち上がった。
足がふらつく。けれど、それどころではなかった。
「律は?」
佐伯が顔を上げた。
「影森?」
「律がいない」
陽菜の声は、自分でも驚くほど細かった。
佐伯が周囲を見回す。すぐに立ち上がり、近くの岩陰を覗き込んだ。
「影森! おい、どこだ!」
返事はない。
「ふざけんなよ、こんな時に隠れてんじゃねえぞ!」
それでも返事はなかった。
陽菜はもう一度名前を呼ぼうとして、喉が詰まった。さっきまで手を握っていた。たしかに握っていたのに、最後の感触だけが抜け落ちている。
「天野さん」
桐生が近づいてきた。
「今、数えてる。まだ、まだ決めつけない方が」
「でも、いない」
「……うん」
桐生はそれ以上言えなかった。
遠くで、金属がぶつかる音がした。
全員がそちらを向いた。
丘の向こう、少し低くなった場所で、人が戦っていた。鎧を着た兵士たちが、黒い群れを押し返そうとしている。叫び声が聞こえる。言葉はわからないのに、必死なのはわかった。
新海が小さく呟いた。
「異世界……?」
誰も反応しなかった。
新海はすぐに口を閉じた。昨日までなら、その言葉は冗談になった。ゲームの話にも、診断の続きにもできた。
今は違った。
「こんなの、知らない」
新海の声が掠れる。
「俺、こんなのがいいなんて言ってない」
黒い群れの一部が、こちらへ向きを変えた。
獣のように低く走るもの。人に似た形で、腕だけが長いもの。どれも土を蹴る音が軽すぎた。
「下がれ!」
榊原が生徒たちの前に出た。
佐伯も一歩前に出る。大河内隼人が隣に並んだ。二人とも何か武器を持っているわけではない。ただ、後ろに下がることができなかっただけだ。
「佐伯くん、大河内くん、戻って!」
桐生が叫ぶ。
大河内は歯を食いしばった。
「でも、何かしないと」
「何をするの!」
その言葉に、大河内の足が止まった。
誰も答えられなかった。
白石が小さく泣き出した。座ったまま、立ち上がろうとして、できない。
「ごめんなさい、足が、動かなくて」
「白石、いい。動くな」
榊原が振り返らずに言う。
「立てる者は、動けない者のそばにいろ。走るな。ばらけるな」
陽菜は白石の方へ行こうとして、足元に黒いものが揺れたのを見た。
久我玲央の周りだった。
本人も気づいたらしい。久我は自分の手を見た。指の影が、地面に落ちた影より濃くなっている。
「……何だよ、これ」
月村沙耶が息を呑んだ。
「それ、触って大丈夫なの?」
久我の顔が強張った。
「俺が知るわけないだろ」
「ごめん、そういう意味じゃ」
月村の声も震えていた。悪意ではなかった。けれど、その一言は確かに落ちた。
陽菜は二人の間に入るように一歩動いた。
「今は、それどころじゃない」
自分で言って、自分に言い聞かせる。
律を探したい。探さなきゃいけない。なのに、黒い群れはもう近い。兵士たちの怒鳴り声も近づいている。誰かがこちらを指して叫んでいるが、意味がわからない。
「来るぞ!」
佐伯が叫んだ。
最初の一体が跳んだ。
榊原が近くに落ちていた木片を拾い、振り上げる。間に合わない。
陽菜は息を吸った。
何を考えたのか、自分でもわからなかった。
ただ、もう誰にも近づいてほしくなかった。
「来ないで!」
声が出た瞬間、白い光が広がった。
陽菜の足元から、円を描くように光が走る。土の上に線が浮かび、クラスメイトたちを包んだ。跳びかかってきた黒いものが、その光にぶつかって弾かれる。
音がした。
硝子を叩いたような、硬い音だった。
「え」
陽菜は自分の手を見た。
何も持っていない。何もしていない。けれど、白い光はそこにあった。
黒いものがもう一度ぶつかってくる。光が揺れる。陽菜の膝から力が抜けた。
「天野!」
佐伯が振り返る。
陽菜は倒れなかった。倒れたら終わる気がした。
「私、何を」
声が続かなかった。
結界の外で、鎧の兵士がこちらを見ていた。血と泥で顔は汚れている。けれど、その目だけが大きく見開かれていた。
「聖魔法……」
その言葉は、陽菜にはわからなかった。
でも、周りの兵士たちがざわめいたことだけはわかった。
黒い群れが動きを止める。
一体、二体ではない。もっと奥にいたものまで、白い光に気づいたように向きを変える。
桐生が息を呑んだ。
「天野さん、これ、どれくらい」
「わからない」
陽菜は歯を食いしばる。
光はまだある。けれど、内側から何かが削られていく。胸の奥を掴まれているようで、息が浅くなる。
白石が泣きながら陽菜の袖を掴んだ。
「ごめん、ごめんね」
「謝らないで」
陽菜はそう言って、結界の向こうを見た。
黒い群れが、増えていた。
遠くで、また何かが吠える。
佐伯が小さく言った。
「影森……早く来いよ」
陽菜は答えなかった。
答えたら、立っていられなくなりそうだった。




