勇者召喚、失敗
「影森、逃げるなよ」
朝の教室で、佐伯蓮司が言った。
影森律は鞄を机に置きながら、心外そうに振り返る。
「何もしてないのに疑われるの、そろそろ問題にした方がいいと思う」
「昨日、展示準備から逃げるルート確認してただろ」
「確認は大事だろ。災害時にも役立つ」
「係から逃げる災害って何?」
天野陽菜が隣で言う。律は一瞬だけ考えた。
「俺の精神が被災する」
「じゃあ復興しようね」
「陽菜さん、支援が厳しい」
黒板には、昨日決まった係の名前がまだ残っていた。展示準備の欄に、影森律、天野陽菜、佐伯蓮司、久我玲央。誰かが消し忘れたらしい。
律はそれを見て、ため息をついた。
「俺の自由、まだ固定されてる」
「消しても係は変わらないよ」
「黒板から消えたら、ワンチャン記憶も消えない?」
「消えない」
陽菜が即答したところで、久我玲央が教室に入ってきた。黒板の名前を見て、少しだけ足を止める。
律は手を上げた。
「おはよう、勝たない強キャラ」
「まだそれ言うのか」
「呼び名は定着が大事だからな」
「定着させるな」
久我はそう言って席に向かった。声は相変わらず低いが、昨日よりは返事が早い。
佐伯がにやにやしながら律を見る。
「お前、変なあだ名つけるの好きだよな」
「人聞きが悪い。これは交流だ」
「交流された側の顔見ろよ」
久我は席で教科書を出しながら、こちらを見ずに言った。
「聞こえてる」
「ほら、交流できてる」
「できてるかなあ」
陽菜が首を傾げた。
チャイムが鳴り、教室の声が少しずつ落ちていく。榊原修が入ってきて、いつものように出席簿を開いた。
「席につけ。今日の連絡は短い」
「先生の短いは信じていいやつですか?」
律が小声で言うと、榊原は出席簿から目を上げた。
「影森」
「はい」
「信じる前に黙れ」
教室に小さな笑いが起きた。榊原はそれ以上は拾わず、連絡を始める。
「放課後、展示準備の班は一度残れ。長くはかからん。必要なものを確認するだけだ」
律は静かに顔を伏せた。
陽菜が横から言う。
「逃げない」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「俺の顔、情報漏洩しすぎじゃない?」
その時、照明が一度だけちらついた。
昨日と同じだった。
教室の何人かが天井を見る。新海奏太が少し嬉しそうに声を上げた。
「また? 学校、限界近くない?」
「新海、それ昨日俺が言いたかったやつ」
律が悔しそうに言う。
「早い者勝ち」
「成長するな、俺の領域で」
笑いが戻る。榊原も天井を見上げたが、すぐに出席簿へ視線を戻した。
「あとで事務室に伝えておく。騒ぐな」
「はーい」
誰かが気の抜けた返事をした。
陽菜だけが、床を見ていた。
「陽菜?」
律が呼ぶと、陽菜は少し遅れて顔を上げた。
「今、下も光らなかった?」
「床?」
「うん。気のせいかも」
律は自分の足元を見た。何もない。机の脚、鞄、誰かが落とした消しゴムのかけら。それだけだった。
「小テスト前に見る幻覚じゃない?」
「今日は小テストないよ」
「じゃあ俺のせいじゃないな」
「何でも自分に寄せなくていいよ」
陽菜はそう言ったが、まだ少しだけ気にしている顔だった。
その頃、ヴェルセリアの召喚神殿では、床の光が消えなくなっていた。
「押さえて!」
ミリアの声が飛ぶ。
魔法陣の外周にいた神官が杖を突き立てる。だが、光の線は杖を避けるように揺れ、閉じたはずの円がまた歪んだ。
若い神官が叫ぶ。
「座標、固定できません!」
「候補世界は?」
「複数。いえ、違います、引っかかっているのは一つです。ただ、対象が広すぎる」
ロディスは魔法陣の縁に立ったまま、目を細めた。
「広すぎる?」
「一人ではありません。群れ……いえ、集団です」
「勇者候補の集団か」
「判定できません!」
触媒の一つが割れた。破片が床を滑り、神官の足元で止まる。
ミリアが唇を噛む。
「接続を切りなさい」
ロディスが振り返る。
「何?」
「この揺れ方は危険です。呼ぶのではなく、落とします」
「それでも来るなら同じだ」
「同じではありません!」
ミリアの声が、広間に鋭く響いた。
「召喚先を守れません。到着地点も選べない。最悪、戦場に落ちます」
ロディスは答えなかった。
外では鐘が鳴っている。王都の鐘ではない。もっと遠く、防壁から伝わってくる警鐘だった。
若い神官が震えた声を出す。
「接続、強まります!」
現代の教室で、床に薄い円が浮かんだ。
最初に気づいたのは新海だった。
「……え」
声があまりに小さくて、誰もすぐには反応しなかった。次に、桐生真琴が椅子を引いた。
「何、これ」
机の脚の下を、白い線が走っている。チョークの線に似ていた。けれど、それは床の上に描かれているのではなく、床そのものが光っているように見えた。
新海が半笑いで言う。
「魔法陣、みたいな」
誰も笑わなかった。
光が強くなる。机が揺れ、窓ガラスが細かく震えた。白石紬が短く悲鳴を上げる。月村沙耶が立ち上がりかけ、椅子にぶつかった。
榊原が教卓を離れた。
「全員、机から離れろ。走るな、押すな!」
その声で、生徒たちが動き出した。だが、どこへ逃げればいいのか誰にもわからない。円は教室全体を囲んでいる。扉の前にも、窓際にも、同じ光が伸びていた。
律は陽菜の手首を掴んだ。
「陽菜、こっち」
「律、これ」
「わからん。わからんけど、床がやる気出してるのはまずい」
「ふざけてる場合じゃない」
「ふざけてないと、ちょっと無理」
陽菜が律を見た。
律は笑っていた。けれど、声が少しだけ遅れていた。
佐伯が近くの机を蹴ってどかす。
「先生、扉!」
「開けるな!」
榊原が叫んだ。
扉の隙間からも光が漏れていた。向こう側が廊下なのか、もう誰にもわからない。
久我が窓へ走りかけて、止まった。
「外が……」
窓の向こうは、白かった。
空も校庭も見えない。昼間のはずなのに、教室の外だけが塗りつぶされたように消えている。
新海の顔から血の気が引いた。
「いや、待って。こういうの、冗談で言ってただけで」
「新海、下がって!」
桐生が腕を引く。次の瞬間、床の光が跳ねた。
陽菜の手に力が入った。
「律」
「大丈夫」
律はそう言った。
言った直後、自分の指先が透けていることに気づいた。
「……は?」
陽菜の目が大きく開く。
「律、手」
律は自分の手を見た。輪郭が崩れている。光に溶けるのとは違う。紙を水に落とした時みたいに、端からほどけていた。
陽菜が両手で律の腕を掴む。
「やだ、待って。律、何これ」
「俺に聞かれても」
軽口で返そうとして、息が詰まった。
痛みはない。けれど、何かが奥から引っ張っている。教室の光とは別の、もっと深い場所へ。落ちるのではなく、戻されるような感覚だった。
律は陽菜の手を握り返した。
「陽菜、手、離すなよ」
「離さない!」
律は頷こうとした。
その動きすら、途中でずれた。
「悪い」
「何で謝るの」
「これ、ちょっと」
律は笑おうとした。
うまくいかなかった。
「冗談にできない」
陽菜が律の名前を呼んだ。
声は聞こえた。ちゃんと聞こえているのに、遠かった。佐伯が何か叫んでいる。榊原がこちらへ手を伸ばしている。白石が泣いている。桐生が誰かの肩を押さえている。
全部が、白くにじんでいく。
「律!」
陽菜の手が離れた。
いや、離れたのは律の方だった。
ヴェルセリアの神殿で、魔法陣が砕けるように光った。
「接続、成立!」
「座標は!」
「駄目です、神殿に固定できません!」
ミリアが叫ぶ。
「落下先は!」
若い神官の顔が青ざめた。
「第三防壁、外縁……戦場です!」
ロディスが目を閉じた。
ほんの一瞬だけだった。
「回収班を出せ」
「今からでは」
「出せ!」
次の瞬間、光が神殿の天井まで伸びた。
現代の教室は、音ごと消えた。
陽菜は膝から落ちた。
床が硬くない。土だった。鼻の奥に、焦げた匂いが入ってくる。さっきまで教室にいたはずなのに、机も黒板も窓もなかった。
誰かが咳き込んでいる。
「全員、動くな!」
榊原の声がした。
その声に、陽菜は顔を上げた。周りにクラスメイトがいる。佐伯が起き上がり、桐生が白石の肩を支えている。新海は呆然と座り込んでいた。久我は少し離れた場所で、手についた土を見ている。
でも。
「律?」
返事はない。
陽菜は立ち上がろうとして、足が震えた。
「律!」
佐伯が周りを見回す。
「影森は?」
榊原の顔が変わった。
「人数確認! 桐生、手伝え!」
「はい!」
桐生の声も震えていた。それでも彼女は動いた。名前を呼ぶ声が、戦場の音に混ざっていく。
遠くで、何かが吠えた。
獣の声ではなかった。地面の底を擦るような音。クラスの何人かが身をすくめる。
陽菜はもう一度、名前を呼んだ。
「律!」
返事はなかった。
代わりに、陽菜の足元で白い光が一瞬だけ灯った。
本人は、それに気づかなかった。
戦場の向こうから、黒い群れが近づいていた。




