大規模侵攻
「右、抜かれます!」
「抜かれるな。そこが抜けたら、後ろは村だ」
「隊長、村はもう空です!」
「なら畑だ。井戸だ。墓だ。何でもいい、あいつらに渡すな!」
ヴェルセリア国境防衛線、第三防壁。
石を積んだだけの古い壁に、黒いものが群がっていた。獣に似ているが、獣ではない。人の形に近いものもいる。どれも目がなく、口だけが裂けていた。
兵士の一人が槍を突き出す。穂先が黒い体を貫いたはずなのに、手応えが薄い。
「くそ、また戻った!」
「火を使え!」
「油がもうない!」
怒鳴り声が重なった。どこかで鐘が鳴っている。撤退の鐘ではない。鳴らす者が間違えたのか、それとも鐘楼まで敵が迫っているのか、誰にもわからなかった。
防壁の上で、指揮官ヴァイスは剣を抜いたまま戦場を見ていた。
「第二隊は?」
副官が答えるより早く、遠くで土煙が上がった。
副官の喉が動く。
「……合流できません」
「死んだか」
「わかりません」
「わからない時は、生きている前提で動け」
「はい!」
ヴァイスは壁の下へ目を向けた。黒い魔法生物の群れの奥に、鎧を着た魔族が見える。こちらを急いで崩すつもりはない。押しつぶせると知っている顔だった。
「いやな余裕だな」
「隊長?」
「敵の話だ。褒めてはいない」
その時、壁の左端で叫び声が上がった。
「闇だ!」
誰かが言った。
「魔王の闇だ、触れるな!」
その一言で、兵士たちの足が鈍った。黒い獣が影のように伸び、盾の隙間へ潜る。兵士が後ろへ下がり、そこに穴ができた。
ヴァイスは防壁を蹴るように走った。
「見るな!」
剣が黒い獣の首を落とす。首は地面に落ちる前にほどけ、泥のように崩れた。
「闇だろうが水だろうが、噛まれれば死ぬ。怖がる順番を間違えるな!」
兵士たちが息を呑んだ。副官がすぐに声を張る。
「左、盾を詰めろ! 隊長に穴を塞がせるな!」
「はい!」
壁の上で、誰かが笑った。ほんの一瞬だけだったが、声は戻った。
だが、数は減らない。
魔王軍は、倒しても倒しても黒い波のように押し寄せてきた。ヴェルセリアの兵はよく粘っていた。粘っているだけだった。
伝令が泥まみれで駆け上がってくる。
「王都へ、急報は?」
副官が聞く。
伝令は息を切らしながら頷いた。
「出しました。ですが、途中で二騎が落ちました」
「残りは」
「一騎だけ」
ヴァイスは短く舌打ちした。
「届けばいい」
「隊長、持ちますか」
副官の声は低かった。兵たちには聞こえないようにしている。
ヴァイスは少しだけ黙った。
「夕刻までは持たせる」
「夕刻以降は?」
「その頃には、俺たちが考えなくていい話になっている」
副官は何も言わなかった。
壁の下から、また黒いものが這い上がってくる。ヴァイスは剣を構え直した。
「王都が間に合えば、だがな」
王都ヴェルセリア。
その日の鐘は、一度鳴り始めてから止まらなかった。
神殿へ駆け込んだ伝令は、扉の前で膝をついた。靴は片方なく、肩には矢が刺さったままだった。控えていた衛士が支えようとしたが、伝令はそれを振り払う。
「第三防壁、交戦中……第二防壁、連絡途絶。第一防壁は、すでに」
言葉が止まった。
神官長ミリアは、白い衣の裾を握った。
「すでに?」
「ありません」
神殿の中が静まり返った。
誰かが小さく息を吸う。誰かが祈りの言葉を口にしかけて、やめた。
宰相ロディスが伝令の前に膝をついた。
「よく戻った。医療班へ」
「まだ、言うことが」
「もう十分だ」
「魔王軍は、止まりません。あれは、軍というより」
伝令の目が揺れる。
「穴です。全部、飲まれます」
その言葉だけ残して、伝令は倒れた。
ロディスは目を閉じる。ほんの短い間だった。開いた時には、もう顔が戻っていた。
「召喚陣の準備は」
ミリアが答える。
「整っていません」
「何が足りない」
「座標固定。異界接続の安定。触媒も本来の三分の二です」
「成功率は」
「今、数字を聞きますか」
「聞いておきたい。失敗した時、誰の責任かを決めやすい」
ミリアはロディスを睨んだ。
「冗談を言う場面ではありません」
「冗談で済むならよかった」
ロディスは立ち上がった。神殿の奥にある広間では、床一面に魔法陣が刻まれている。光はまだ弱い。完成している、とはとても言えなかった。
若い神官が震える声で口を開いた。
「今つなげば、対象を選べません」
「勇者ではない者が来ると?」
「それ以前です。どこにつながるかも」
「この国ではないどこかだな」
「そういう話では」
「この国は、もう落ちかけている」
若い神官は黙った。
ミリアが一歩前へ出る。
「異界人を巻き込むのです。本人たちの意思もなく」
「ならばこのまま待つか」
ロディスの声は荒くなかった。だから余計に、神殿に響いた。
「第三防壁が落ちれば、王都まで半日です。避難民はまだ街道に残っている。兵は足りない。女神方へ祈っても、答えが届く前に門が破られる」
「中立国が、最後に異界へ縋るのですか」
「中立だからだ」
ロディスは魔法陣を見た。
「どの女神の名でも兵を集めなかった。どの国の庇護にも入りきらなかった。誇りだったよ。今日までは」
ミリアは唇を噛んだ。
外で鐘がまた鳴った。今度は一つではない。王都の東、南、中央。ばらばらに鳴って、重なっていく。
衛士が駆け込んできた。
「第三防壁より追加急報!」
「読め」
「防壁、半壊。指揮官ヴァイスより――夕刻までは持たせる。夕刻以降は、王都の仕事だ、と」
ロディスは一瞬だけ笑った。疲れたような、苦い笑いだった。
「昔から口の悪い男だ」
ミリアは目を伏せる。
「神官長」
若い神官が呼んだ。
「魔法陣、まだ揺れています。このままでは、召喚先に負荷が」
「わかっています」
「では」
「準備を続けなさい」
若い神官は言葉を失った。
ミリアはロディスを見た。
「私は、この儀式に反対です」
「記録に残そう」
「それでも、止められないことも理解しています」
「それも残してくれ」
「恨まれますよ」
「生きていれば、恨まれることもできる」
ロディスは魔法陣の中央へ歩いた。神官たちがそれぞれの位置につく。触媒の石が置かれ、古い銀杯に光が宿る。薄い線が床を走り、まだ閉じ切っていない円を無理やり結んでいく。
若い神官の声が震えた。
「座標、定まりません」
「探せ」
「広すぎます。世界の層がずれています」
「生きている世界を探せ」
「適性判定もできません」
「息をしていればいい」
ミリアが目を閉じた。
「それは、勇者召喚ではありません」
ロディスは答えなかった。
広間の外で、また足音が増える。負傷者のうめき声。避難民を誘導する兵の声。泣き出した子どもの声。神殿は祈りの場所だったはずなのに、今はどこも戦場の端のようだった。
魔法陣の光が強くなる。
神官の一人が叫んだ。
「接続、開きます!」
「座標は!」
「まだです!」
「固定しろ!」
「無理です、流されます!」
床の線が白く焼ける。触媒の一つが割れ、破片が跳ねた。若い神官が腕で顔を庇う。
「やめてください! このままでは、どこに繋がるか」
ロディスは魔法陣の光を見つめていた。
防壁で戦う兵の顔が浮かんだ。街道に残る馬車の列が浮かんだ。何も知らずに泣いている子どもの声が、まだ耳に残っていた。
「繋げ」
「宰相!」
「どこでもいい」
ミリアが振り返る。
ロディスは、祈るようには言わなかった。
「生きている世界へ」




