何でもない教室
「影森、アウト」
教室に入った瞬間、佐伯蓮司がそう言った。
影森律は片足を教室に入れた姿勢のまま止まった。まだ朝のチャイムまでは少しある。遅刻ではない。寝癖も、たぶん昨日よりはましだ。
「待て。何に対するアウトだ」
「顔」
「顔は生まれつきだろ。人権侵害だぞ」
「違う。課題忘れた顔してる」
律は黙った。
蓮司は机に頬杖をついたまま、にやっと笑う。
「当たりか」
「人の顔で提出状況を読むな。怖いだろ」
「お前、忘れた時だけ鞄の持ち方が軽いんだよ」
律は自分の鞄を見下ろした。確かに軽い。原因はわかっている。家の机の上に置いてきた英語のワークだ。
「これはあれだ。身軽さを追求した結果」
「課題を捨てるな」
「置いてきただけだ」
「もっと悪いわ」
蓮司が笑う。その笑いにつられて、近くにいた新海奏太が顔を上げた。
「また課題?」
「またって言うな。人にはそれぞれ歴史がある」
「影森の歴史、提出物でだいたい負けてるじゃん」
「歴史の教科書に載らないだけで、勝ってる日もある」
「いつ?」
律が答える前に、前の席から桐生真琴が振り返った。手には回収用のクリアファイルを持っている。
「影森くん、英語ワーク」
「桐生さん。人は時に、過去と向き合う勇気が必要で」
「忘れたんだね」
「はい」
「昼休みに職員室。先生に言っておいた方がいいよ」
「委員長、処理が早い」
「早くしないと、影森くんが話をそらすから」
「俺への理解が深いな」
「浅くてもわかるよ」
蓮司が机を叩いて笑った。律は胸に手を当て、わざとらしくよろめく。そこへ、天野陽菜が教室に入ってきた。
「朝から何してるの」
「傷ついてる」
「何を忘れたの?」
「どうして忘れ物前提なんだ」
陽菜は律の顔を見た。
「英語?」
「怖い」
「当たり?」
「怖い」
陽菜は小さくため息をつき、自分の席に鞄を置いた。律の席はすぐ近くだ。昔からそうだったような顔で、陽菜は何も言わずに筆箱を出す。
新海がスマホをしまいながら、律を見た。
「でもさ、異世界だったら課題とかないんじゃね?」
「新海、朝から逃げ道のスケールが大きい」
「いや、もし召喚されたらって話」
「またそれ?」
蓮司が呆れた声を出す。新海は気にせず続けた。
「昨日の属性診断の続き。異世界行ったら、まずステータス確認だろ。で、職業見て、スキル見て」
「まず言葉通じるか確認じゃない?」
陽菜が言うと、新海は少し止まった。
「……たしかに」
「あと水と食べ物」
桐生が淡々と付け足す。
「委員長、異世界でも現実的すぎる」
「必要でしょ」
「夢がない」
「新海くんの想像、だいたいゲーム寄りだから」
「そうだけどさあ」
新海は不満そうにしながらも、楽しそうだった。律は席に鞄を置き、椅子に座る。
「俺なら最初に帰り方を探すな」
「え、つまんな」
「知らん土地で魔物と戦うより、コンビニと布団のある生活を選ぶ」
「影森、主人公向いてないな」
「主人公は佐伯に譲る。火属性だし」
「俺も嫌だよ」
「えー、じゃあ誰がやるんだよ」
新海が教室を見渡した。視線が月村沙耶で止まる。月村はちょうど席に着いたところで、急に見られて眉を上げた。
「何?」
「月村さん、光属性だったじゃん。勇者っぽくない?」
「勝手に勇者にしないで」
月村は少し笑って、それから真面目な顔をした。
「でも、もし本当にそういうのがあったら、誰かを守れる力の方がいいよね」
「おお、正統派」
新海が感心したように言う。蓮司も「確かに」と頷いた。
律は机に頬杖をついた。
「じゃあ俺は後方で応援する係で」
「律は逃げる係でしょ」
陽菜が言った。
「ひどい。応援も立派な仕事だぞ」
「本当に危ない時は?」
「……危なくない方向に全員で逃げる」
「それはちょっといい判断かも」
桐生が真顔で言ったせいで、律は逆に困った。
「そこは突っ込んでくれないと、俺がただ堅実な人になる」
「堅実ではないよ」
陽菜の返しが早かった。
その時、教室の端で椅子が小さく鳴った。久我玲央が席に座った音だった。誰かに遅れてきたわけでもない。ただ、輪の外から会話を聞いていたらしい。
新海が久我に気づいて、軽く手を上げた。
「久我は? 属性なら何がいい?」
久我は少しだけ間を置いた。
「……別に」
「えー、そこは乗ろうぜ」
「何でもいい」
そう言って、久我は机の中に教科書をしまった。会話はそこで切れそうになった。悪い空気というほどではない。けれど、誰も次の言葉を探す前に、律が口を開いた。
「何でもいいは強キャラの台詞だぞ」
久我が律を見る。
「何それ」
「属性にこだわらない。武器にもこだわらない。最終的に素手で勝つタイプ」
「勝たないけど」
「じゃあ勝たない強キャラだ」
「弱いだろ」
久我が小さく言った。笑ったわけではないが、声の端が少しだけ緩んだ。
新海が勢いを取り戻す。
「じゃあ久我は闇とか? なんか雰囲気あるし」
その言葉に、月村が少しだけ眉を寄せた。
「闇って、また?」
「いや、かっこいいじゃん。影から助ける感じで」
「でも、普通はあんまりいい印象ないよね」
月村の言い方は強くなかった。責めるつもりもない。ただ、そういうものだと思っている声だった。
久我は何も言わなかった。
律は机の上の消しゴムを転がした。ころん、と陽菜のノートに当たって止まる。
「闇は便利だぞ」
「また始まった」
蓮司が言う。
律は構わず続けた。
「夜道で隠れられる。映画館で雰囲気が出る。あと寝坊した時、部屋が暗いとまだ朝じゃない気がする」
「最後は現実逃避だよ」
陽菜が消しゴムを律へ返す。
「闇への偏見をなくそうとしてるんだ」
「律の生活習慣への偏見は増えたよ」
「犠牲はつきものだな」
月村は少し困った顔をした。
「私は別に、悪く言ったつもりじゃ」
「わかってる」
律は軽く言った。
「だからこそ、俺が代表して闇と和解しておいた」
「律が代表なの?」
「朝に弱いからな」
蓮司が吹き出した。新海も笑い、空気はすぐに戻った。月村も肩の力を抜く。久我は窓の方を向いたままだったが、さっきよりは少しだけ表情が柔らかく見えた。
陽菜は律を見ていた。
律は気づいていたが、気づかないふりをした。
ホームルームのチャイムが鳴り、榊原が教室に入ってきた。新海が慌てて席に戻る。律も姿勢だけはまっすぐにした。
榊原は教卓にプリントを置く。
「今日の放課後、文化祭準備の係決めをする。部活のある者も、少し残るように」
教室のあちこちで小さな声が上がった。
「えー、今日?」
「部活前に終わるかな」
「係って何あったっけ」
桐生がすぐに黒板へ向かった。榊原にチョークを渡され、係の候補を書き出していく。装飾、買い出し、会計、当日受付、展示準備。文字が増えるたびに、新海の顔がわかりやすく沈んだ。
「俺、買い出しがいい」
蓮司が言う。
「買い食いする気だ」
律が返す。
「しねえよ」
「目がしてる」
「お前に言われたくない」
陽菜は黒板を見ながら、律に聞いた。
「律は?」
「俺はそうだな。精神的支柱」
「係にないよ」
「新設しよう」
「仕事しない係でしょ」
「言い方」
桐生が黒板の前から振り返る。
「影森くんは展示準備ね」
「まだ希望出してない」
「人手が足りないから」
「民主主義は?」
「今は多数決の前段階」
「前段階で負けることある?」
蓮司が笑いながら手を挙げた。
「俺も展示でいいよ。こいつ一人だと絶対サボるし」
「佐伯、お前は俺の保護者か」
「監視員」
「言い直して悪化した」
陽菜も少し考えてから言った。
「私も展示でいいよ」
律は陽菜を見た。
「え、陽菜さんまで監視側?」
「律が逃げないように」
「信頼がない」
「あるよ」
陽菜はさらっと言った。
「逃げるっていう信頼」
「最悪の信頼だな」
教室がまた笑う。桐生は黒板に名前を書きながら、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ展示準備、影森くん、佐伯くん、天野さん。あと久我くんもお願いできる?」
急に名前を呼ばれて、久我が顔を上げた。
「俺?」
「うん。細かい作業、前に手伝ってくれたでしょ。助かったから」
久我はすぐには返事をしなかった。
新海が横から言う。
「いいじゃん。久我、手先器用そう」
「そういう決め方?」
久我の声は少し低い。でも、完全に嫌そうではなかった。
律は椅子の背にもたれたまま、片手を上げる。
「歓迎するぞ、勝たない強キャラ」
「それ、まだ続いてたのか」
「設定は大事だからな」
久我は小さく息を吐いた。
「……別に、いいけど」
桐生が黒板に久我の名前を書いた。
その日の授業は、いつも通りに進んだ。律は途中で一度寝かけ、陽菜にシャーペンの頭でつつかれた。蓮司は体育の移動で律の上履きを隠そうとして失敗し、逆に榊原に見つかった。新海は昼休みにまだ異世界の話をしていて、桐生に「午後の準備」と言われて渋々ノートを出した。
何でもないことばかりだった。
放課後前の短い時間、教室は係決めの続きで少しざわついていた。黒板には名前が並び、誰かが消し忘れた落書きの端に、チョークの粉がついている。
律は展示準備の欄に自分の名前があるのを見て、深いため息をついた。
「俺の自由が、黒板に固定されている」
「係くらいやろうね」
陽菜が言う。
「逃げたら?」
蓮司が聞く。
「逃げない」
律は即答した。
陽菜が目を細める。
「今、ちょっと迷ったでしょ」
「迷ってない。逃走経路を確認しただけ」
「それを迷ったって言うんだよ」
久我が近くでプリントを揃えていた。律たちの会話を聞いていたのか、ぼそっと言う。
「窓は無理だろ」
律は久我を見た。
「まさかの逃走経路アドバイス?」
「二階だし」
「現実的な止め方やめてくれ。ちょっと助かる」
久我は返事をせず、プリントを桐生に渡した。桐生は「ありがとう」と普通に受け取る。久我は小さく頷いただけだった。
その時、教室の照明が一瞬だけちらついた。
誰かが「あれ」と言った。けれど、それだけだった。すぐに明るさは戻り、黒板も机も、いつも通りそこにあった。
新海が天井を見上げる。
「学校も小テストに耐えられなかったか」
律が先に言おうとしていた言葉を取られ、悔しそうに顔をしかめた。
「新海、それ俺の台詞」
「早い者勝ち」
「くそ、成長したな」
蓮司が笑い、教室のざわめきも戻った。誰かが蛍光灯の寿命じゃないかと言い、誰かが事務室に言うかと話している。
陽菜だけが、窓の外を見ていた。
「陽菜?」
律が呼ぶ。
陽菜は少し遅れて振り返った。
「今、何か変じゃなかった?」
「照明?」
「うん……それだけかな」
律は天井を見上げた。何もない。いつもの白い照明が、何食わぬ顔で光っている。
「まあ、学校も疲れてるんだろ」
「学校が?」
「俺たちを毎日受け止めてるんだぞ。そりゃ疲れる」
陽菜は呆れたように笑った。
「律って、何でもそうやって流すよね」
「流せるものは流した方がいい。詰まると大変だし」
「排水口みたいに言わないで」
「生活に密着した例えだろ」
陽菜はもう一度、窓の外を見た。律もつられてそちらを見る。校庭では部活の準備をしている生徒が走っていて、遠くから笛の音が聞こえた。
何も変わっていない。
だから律は、いつものように笑った。
「ほら。今日も世界は平常運転」
陽菜は少しだけ間を置いてから頷いた。
「……うん」
黒板の前で、桐生が手を叩いた。
「係、これで決定でいい?」
教室からばらばらに返事が上がる。新海が「異議なし」とふざけて言い、蓮司が「お前、何の係だっけ」と突っ込む。久我は黙って自分の名前を見ていた。
律は机に頬杖をつき、黒板の文字を眺めた。
展示準備。影森律、天野陽菜、佐伯蓮司、久我玲央。
それが明日以降も続く予定みたいに、白いチョークで書かれていた。




