影森律の日常
「律」
返事はなかった。
「律」
二度目で、机に伏せていた影森律の指がぴくりと動いた。起きている、と言いたいらしい。天野陽菜はその指を見下ろして、律の机に置かれていたプリントを一枚抜き取った。
「これ、今日だよ」
律は片目だけ開けた。
「……何が?」
「小テスト」
「人類はなぜ同じ過ちを繰り返すんだろうな」
「昨日、言ったよ」
「昨日の俺と今日の俺は別人なんだ」
「じゃあ昨日の律に謝って」
「ごめん、昨日の俺。お前の犠牲は無駄になった」
「まだ何も犠牲になってないよ」
陽菜はプリントを律の額に軽く乗せた。律はそのまま動かない。額の上でプリントが少しずれ、鼻にかかったところで、隣の席から佐伯蓮司が笑った。
「朝から死んでんな」
「違う。社会に擬態してる」
「失敗してるぞ」
「佐伯、お前はいつも現実側だな」
「現実にいるからな」
律は渋々体を起こした。髪は少し跳ねていて、目はまだ半分しか開いていない。陽菜は何も言わずに、自分のノートを開いて律の机へ寄せた。
律が一瞬だけ目を輝かせる。
「陽菜さん」
「写していいとは言ってない」
「人の希望を見せてから奪うタイプ?」
「まず自分で解いて。詰まったら見るのはいい」
「その条件、ほぼ絶望じゃん」
「じゃあ寝る?」
「起きます」
律はシャーペンを持った。数式を一行書いて、すぐに止まる。
陽菜が覗き込む。
「そこ、符号逆」
「俺の中の数学が反抗期」
「律はずっと反抗期だよね」
「そこまで言う?」
陽菜は笑わなかった。ただ、口元だけ少し緩んだ。律はそれを見て、わざとらしくため息をつく。
「いいよな、陽菜は。朝から人間として完成してる」
「寝癖ついてるけど」
「えっ」
陽菜が自分の横髪を押さえる。律は笑った。
「嘘」
「律」
「今の顔、ちょっとレアだった」
「ノート閉じるね」
「ごめんなさい」
律が即座に頭を下げたところで、教室の扉が開いた。担任の榊原が出席簿を片手に入ってくる。立ち歩いていた生徒が席へ戻り、少しだけ空気が整った。
榊原は黒板の前に立つと、教室を見渡した。
「六時間目、小テスト。忘れていた者はいないな」
律はそっと視線を窓へ逃がした。
「影森」
「はい」
「逃げるな」
「まだ視線だけです」
「体も逃げそうな顔をしている」
教室の何人かが笑った。榊原は怒鳴らない。けれど、律が調子に乗る前に出席簿を軽く叩いた。
「昼休み、少しは見直しておけ」
「先生、それは俺個人への愛ですか?」
「忠告だ」
「愛がない」
「点もないぞ」
「痛い」
陽菜が隣で小さく肩を揺らした。律はそれに気づいたが、何も言わなかった。代わりに、ノートの端に小さく「小テスト討伐作戦」と書いた。
陽菜がそれを見て、横に一言だけ足す。
――まず勉強。
律はその文字を見て、無言で机に額を落とした。
昼休み。
律の弁当箱には、米と肉が入っていた。以上、という感じだった。
陽菜はそれを見て、自分の弁当からブロッコリーを一つ移した。
「出たな」
「食べて」
「緑の刺客」
「食べて」
「俺は闇の住人だから、太陽を浴びて育った者とは相性が」
「食べて」
「はい」
律がブロッコリーを口に入れると、蓮司が横で笑った。
「弱いな」
「違う。戦略的撤退だ」
「口の中に撤退してるぞ」
「それはもう敗北では?」
陽菜が言うと、律は箸を止めた。
「陽菜、たまに容赦ないよな」
「律限定だよ」
「限定なら嬉しい……のか?」
「嬉しくはないと思う」
三人で机を寄せていると、新海奏太がスマホを持って近づいてきた。
「なあ、これやろうぜ。属性診断」
蓮司が顔を上げた。
「またそういうやつか」
「いいだろ。俺、木だった」
「新海っぽいじゃん」
「どこが?」
律は少し考えたふりをした。
「話題が枝分かれするところ」
「うまいようで雑!」
新海が笑い、近くにいた白石紬もつられて少し笑った。桐生真琴は弁当を片づけながら、「授業始まる前にはスマホしまってね」とだけ言う。
律はスマホを渡され、適当に質問を押していった。
「はい、出た」
「何?」
陽菜が覗き込む。
律は画面を見る前に、胸を張った。
「闇だな」
「見てから言って」
「見るまでもない。朝に弱い。課題に弱い。日差しに弱い。これはもう闇」
蓮司がスマホを取り上げる。
「結果、風だって」
「俺の闇、軽いな」
「ただの寝不足じゃん」
「佐伯、真実は時に人を傷つける」
その流れで、何人かが自分の結果を言い合った。月村沙耶は光だったらしく、少しだけ嬉しそうにしていた。
「光って、なんか正統派だよね」
新海が言う。
月村は照れたように笑って、それから何気なく続けた。
「闇って、ちょっと悪役っぽいし」
席の端で、久我玲央の箸が止まった。
本当に一瞬だった。誰かが気づくほどでもない。月村にも悪気はない。ただ、よくある言葉がそのまま落ちただけだった。
律は水筒に手を伸ばしながら言った。
「闇に謝れ、月村」
「え?」
「夜がなかったら寝られないだろ。映画館も困る。花火も困る。あと俺が休日の朝にカーテン閉めて現実を拒否できない」
「最後のは知らないけど」
陽菜が即座に返す。
蓮司も笑った。
「お前の闇、だいたい生活習慣だな」
「生活を支える闇。偉大だろ」
「偉大かなあ」
月村は少し戸惑ったあと、「まあ、たしかに夜は必要か」と笑った。話題はすぐ別の方へ流れていく。新海が今度は蓮司に診断をやらせ、蓮司が火属性だったと騒ぎ始めた。
律は何もなかったように唐揚げを食べた。
少し離れた席で、久我もまた箸を動かしていた。
陽菜だけが律を見ていた。
「何?」
「別に」
「俺の顔に米粒?」
「ついてない」
「じゃあ惚れた?」
「調子に乗らない」
「ですよね」
陽菜は箸で卵焼きを切りながら、小さく言った。
「また、笑って流した」
律は聞こえなかったふりをした。
「え、何? 卵焼きくれるって?」
「言ってない」
「聞き間違いか。残念」
「律」
名前を呼ばれて、律はようやく陽菜を見た。
陽菜は怒ってはいなかった。呆れてもいない。ただ、昔から知っているものを見つけたような目をしていた。
「そういうところ、変わらないね」
律は少しだけ黙った。
それから、いつもの顔に戻る。
「成長期、終わったからな」
「そういう意味じゃない」
「知ってる」
陽菜の箸が止まった。
律は唐揚げを一つ、陽菜の弁当箱へ置いた。
「ブロッコリーの礼」
「唐揚げ一個で?」
「俺の中では国宝級」
「大げさ」
「だから大事に食べて」
陽菜は少しだけ迷ってから、その唐揚げを食べた。
午後の授業は、律にとって長かった。
小テストはもっと長かった。
終わった瞬間、律は答案用紙を裏返して机に置いた。まるで封印でもしたような手つきだった。
陽菜が横から覗こうとする。
「見せて」
「だめだ」
「何点くらい?」
「今はまだ、数字にすると悲しみが具体化する」
「悪かったんだ」
「陽菜、察しがよすぎる人間は長生きしないぞ」
「律よりはすると思う」
「強い」
放課後、教室は少しずつばらけていった。部活に行く者、残って話す者、すぐ帰る者。律は鞄を肩にかけ、陽菜と一緒に廊下へ出た。
「コンビニ寄る?」
陽菜が聞いた。
「寄る。小テストで削られた精神を糖分で補修する」
「補修できる点数だった?」
「陽菜さん、傷口に塩どころかレモン絞ってる」
「自分で勉強しないから」
「正論は人を追い詰めるんだぞ」
「じゃあ勉強しようね」
「逃げ道がない」
階段を下りる途中、窓の外に夕方の色が差していた。律は一度だけ足を止める。何かを見たわけではない。ただ、教室の方が少し静かになった気がした。
「律?」
陽菜が数段下から振り返る。
律はすぐに歩き出した。
「いや。今日も世界は平和だなって」
「急に何?」
「たまには壮大なこと言いたい年頃なんだよ」
「そのあとコンビニ行くのに?」
「世界平和と新作スイーツは両立する」
「安い世界だね」
「三百円台で救えるなら優しいだろ」
陽菜は呆れたように笑った。
律も笑った。
廊下の向こうで、誰かが部活の集合を急かしている。教室からはまだ少し話し声が聞こえる。何も変わらない、いつもの放課後だった。
それが最後になるなんて、思う理由もなかった。




