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第6話 女公爵の招待状

招待状は、金箔押しの封蝋で届いた。

 白鷲の紋章——ライゼン家の家紋だ。レイはヴェルデンの事務所で封を切り、流れるような筆記体の文面に目を通した。


『辺境に新しい風を起こしておいでの商人殿へ。ささやかな夜会にお招きしたく——』


 丁寧な社交辞令。だが行間に刻まれた意味は明快だった。

 ——査定面談のお誘い、か。

 前世の記憶が囁く。ゴールドマン・サックスのパートナーが新興ファンドのマネージャーをディナーに誘うときと同じ構図だ。表向きは歓迎、実態は値踏み。そして値踏みの結果次第では、ディナーの翌週に潰しにかかる。

 レイは招待状を机に置き、直近の取引台帳を開いた。

 ノヴァ・ソシエタスの設立から40日。トマスの薬草取引を皮切りに、契約魔法《コントラクト》で品質保証した魔族領産品の取引は12件に達していた。売上は累計で金貨340枚。利益率は従来の魔族領交易の3倍。取引先はまだ辺境の零細商人ばかりだが、数字は嘘をつかない。

 ——成長率だけ見れば、投資家なら食いつく水準だ。

 問題は、その成長がライゼン商会の独占網に穴を開けることで成立している点だった。穴が小さいうちは無視できる。だが成長率が維持されれば、半年後には無視できない規模になる。

 マルグリット・オーベル・フォン・ライゼンは、その計算ができる人物だ。だからこそ、穴が小さい今のうちに相手を見に来た。

「行きます」

 レイは即答した。相手の土俵だろうが関係ない。情報は現場にある。ライゼン商会の本拠地に足を踏み入れる機会など、こちらから求めても得られないものだ。


***


 王都は、辺境とは別世界だった。

 石畳の大通りに馬車が行き交い、両側には三階建ての石造りの商館が並ぶ。店先に並ぶ商品の質と量は、ヴェルデンの市場とは比較にならない。

 レイは馬車の窓から街並みを観察しながら、頭の中で数字を弾いていた。

 ——通行量から推定される一日の商取引額、金貨にして2万枚前後。年間で700万枚超。ノヴァ・ソシエタスの累計売上340枚が、いかに微小な数字かを思い知らされる。

 だが、微小だからこそ招待された。脅威になってからでは、社交パーティーではなく暗殺者が来る。

 ライゼン邸は、王都の中心街に位置する白大理石の邸宅だった。列柱が並ぶ正面玄関に灯された魔力灯が、夕闇の中で青白い光を放っている。

 レイは借り物の正装——シルヴィが手配した、辺境の中堅商人が背伸びして着る程度の品——に身を包み、大広間に足を踏み入れた。

 ——意図的に格を落とした服装。自分を過小評価させるための演出。

 シャンデリアの魔力灯が数百の光点を撒き散らす大広間には、百名を超える招待客がいた。絹と宝石。上等な酒の香り。そして、この場の全員が何らかの経済的利害関係で繋がっているという事実。

 レイは営業スマイルを貼りつけ、まず周辺の小貴族や中堅商人に挨拶を始めた。辺境で魔族領産品を扱う新興商人——その程度の自己紹介で、大半の反応は冷淡か好奇心混じりの見下しだった。

 それでいい。本命はまだ姿を見せていない。


 マルグリット・オーベル・フォン・ライゼンが大広間に現れたのは、夜会が始まって1時間後のことだった。

 三十代半ば。深紅のドレスに銀糸の刺繍。首元には一粒の魔石をあしらった首飾り——装飾品としては控えめだが、あの色と光沢は最高級の精製魔石だ。原価だけで金貨500枚は下らない。

 だが、レイの目を引いたのは装飾品ではなかった。

 彼女が大広間に足を踏み入れた瞬間、周囲の人間の姿勢が変わった。背筋が伸び、声が半音低くなり、自然と道が開く。権力が空間を歪める物理現象を、レイは前世でも見たことがある。リーマン・ブラザーズの最上階、CEOが廊下を歩くときと同じだ。

 ——ただし、あの会社は潰れたが。

 マルグリットの視線がレイを捉えた。一瞬。しかし確実に。百人の招待客の中からレイを識別し、値踏みの視線を送り、そして微笑んだ。

 その笑顔に、レイの背筋を冷たいものが走った。

 ——あの目は知っている。獲物を見る目じゃない。同業者を見る目だ。


「辺境からわざわざお越しいただいて光栄ですわ、レイ・クジョウ殿」

 マルグリットが歩み寄ってきたのは、レイが辺境の木材商と世間話をしている最中だった。木材商が蒼白になって一歩退いたのを、レイは視界の端で確認した。

「お招きに感謝します、女公爵閣下。辺境の零細商人がこのような場にお呼ばれするとは思いませんでした」

「ご謙遜を。魔族領産の希少薬草を契約魔法《コントラクト》つきで流通させている商人が零細ですって?」

 マルグリットの唇が弧を描く。

 ——取引内容を正確に把握している。品目だけでなく、契約魔法の使い方まで。情報収集が速い。

「小さな取引を、地道に積み重ねているだけです」

「40日で12件。累計売上は金貨300枚台後半。利益率は既存の魔族領交易の3倍前後——地道という言葉の定義が、わたくしとは違うようですわね」

 レイは笑顔を崩さなかったが、内心で舌を巻いた。

 数字が正確すぎる。売上は340枚。彼女の推定は「300枚台後半」。誤差5%以内。辺境の零細取引の数字を、王都からこの精度で把握しているということは、ノヴァ・ソシエタスの取引先のどこかに情報源がいる。

 ——あるいは、取引先そのものが報告している。ライゼン商会と取引のある商人なら、上納金代わりに情報を差し出すのは自然だ。

「女公爵閣下の情報網には敬服します。私どもの帳簿を見せるまでもなさそうだ」

「帳簿は見なくても、流れは読めますわ。辺境の交易路に新しい商流が生まれれば、水面の波紋のように広がるもの」

 マルグリットがワインを一口含み、レイの目を真っ直ぐに見た。

「ところで、レイ殿。あなたの手法——魔王軍の内部に入り込み、資源の流通経路を再構築し、契約魔法で信用を担保する。これはただの交易ではありませんわね」

「と、おっしゃいますと?」

「組織ごと買っていらっしゃるのでしょう? 対象企業の資産を再評価し、過小評価されている部分を切り出して市場に接続する。わたくしの知る限り、そのような手法に名前をつけた者はこの世界にはおりませんけれど」

 レイの心臓が一拍、強く打った。

 ——この女、M&Aの本質を言語化した。金融用語を知らないまま、概念だけを正確に抽出してみせた。

 マルグリットは穏やかに微笑んでいる。だがその目は、解剖台の上の検体を観察する外科医のそれだった。

「面白い玩具をお持ちね、レイ殿。辺境で遊ぶ分には見世物として楽しませていただきますわ」

 ——『辺境で遊ぶ分には』。つまり、辺境を超えた瞬間に排除する、という宣言だ。

「お褒めに預かり光栄です。ただ、玩具にしては利益率が高すぎるかもしれませんね」

「あら。自信がおありで」

「数字に基づく現実認識です」

 マルグリットの目が細まった。笑っている。だが、その笑みの質が変わった。

「——数字、ですか。わたくしも数字は好きですのよ。では一つ、数字の話をいたしましょう」

 彼女がレイの耳元に顔を寄せた。社交場の親密さを装った距離。

「明日の朝、貴族院で法案が一つ可決されますわ。魔族領との交易に関する関税の改定。従来の3倍」

 レイの笑顔が凍った。

 3倍。

 即座に計算が走る。現行の関税率は取引額の12%。3倍で36%。ノヴァ・ソシエタスの現在の利益率は約40%。関税が36%になれば、利益率は実質4%まで圧縮される。物流コストと契約魔法の維持費を差し引けば——赤字だ。

「法案の提出は3日前。根回しは先月から。明日は形式的な採決ですの」

 マルグリットが半歩退き、何事もなかったかのようにワイングラスを掲げた。

「楽しい夜会でしたわ、レイ殿。辺境にお戻りの際は、お気をつけて」

 レイは笑顔を維持した。維持するしかなかった。

 百人の招待客が見ている。ここで表情を崩せば、辺境の新興商人がライゼン女公爵に一蹴された、という情報が明日中に王都全域に広がる。

「ありがとうございます、女公爵閣下。素晴らしい夜会でした」

 完璧な営業スマイル。前世で3000時間残業しながら磨いた最強の武器。

 だが内心では、冷や汗が背中を伝っていた。

 ——やられた。完全に先手を取られた。招待状の時点で勝負はついていたんだ。

 このパーティーは値踏みですらなかった。マルグリットはとっくに対抗策を打ち終えていた。招待状は、自分の顔を見ながら結果を告げるためだけのものだった。

 投資銀行時代の上司の言葉が蘇る。

 『交渉のテーブルに着いた時点で条件が決まっているなら、それは交渉じゃない。通告だ』


***


 王都を発った馬車の中で、レイは伝書を書いた。

 宛先はフィーネ。文面は簡潔だった。


『関税3倍の法案が明日可決される。現行の交易ルートでは採算が合わなくなる。至急、代替案の検討を。——R.K.』


 返書が届いたのは、ヴェルデンに戻る馬車が辺境の街道に入った頃だった。フィーネらしい、無駄のない文面。


『関税引き上げの噂は魔族領側にも届いている。想定より早いが、対処の余地はある。一つ確認したい——人間領の関税が適用されるのは、人間領を経由する交易路に限られるか?——F.A.』


 レイは伝書を読み返し、目を閉じた。

 フィーネの問いの意味を、5秒で理解した。

 ——人間領を通らなければ、人間領の関税は適用されない。当たり前の話だ。だが、魔族領から外部市場へ至る交易路はすべてライゼン商会が掌握する人間領を経由する。迂回路は存在しない。少なくとも、既知のルートでは。

 レイは返書を書いた。


『その通り。人間領を経由しなければ関税は回避できる。だが、既存の交易路はすべて人間領を通る。迂回の可能性があるなら聞きたい。——R.K.』


 次の返書は、ヴェルデンに到着して事務所の椅子に座った直後に届いた。


『魔族領北東部の山岳地帯。人間領を経由せず、東部の自由都市群に抜けるルートの可能性がある。ただし未踏査。山岳地帯の魔獣が障害。通常の商隊では通行不能。ドラグの精鋭部隊なら護衛は可能だが、コストと安全性の検証が必要。詳細は対面で。——F.A.』


 レイは伝書を机に置き、天井を見上げた。

 山岳ルート。ライゼン商会の徴税網を完全に迂回する新しい交易路。成功すれば、関税3倍の法案は無効化される。いや、それだけではない。人間領の関税に依存しない独立した物流網が構築できれば、ライゼン商会の交易路独占そのものを揺るがす戦略的資産になる。

 ——ただし、リスクは高い。未踏査のルートに商隊を通すのは、スタートアップが検証もせずに新市場に突っ込むようなものだ。

 だが、選択肢がないわけではない。選択肢がないのは、何もしなかった場合だ。

 レイは新しい羊皮紙を広げた。


 マルグリットの顔が脳裏に浮かぶ。あの解剖するような目。M&Aの概念を、用語なしで正確に言い当てた知性。

 ——単なる守旧派の独占企業のトップじゃない。あれは、異世界に生まれていなければウォール街で戦えた人間だ。

 前世で、本当に怖い競合相手は二種類しかいなかった。こちらの手法を理解できない相手と、理解した上で上回ってくる相手。前者は予測不能だから怖い。後者は、予測できても止められないから怖い。

 マルグリットは後者だ。

 レイはペンを走らせた。山岳ルートの開拓コスト試算。必要な護衛戦力。輸送可能な物資量。自由都市群の市場規模。

 関税3倍。利益率の圧縮。赤字転落の危機。

 だが——危機は、同時に機会でもある。

 ライゼン商会が関税で締め上げるということは、既存の交易路に依存する限り勝ち目がないことを意味する。逆に言えば、既存の交易路に依存しない物流網を構築できれば、ライゼン商会の最大の武器を無力化できる。

 守りに回れば確実に潰される。ならば、攻めるしかない。

 レイは計算結果を羊皮紙に書き終え、フィーネ宛の伝書をもう一通したためた。


『山岳ルートの調査を進めてほしい。ドラグに護衛の可能性を打診してくれ。詳細は3日以内に対面で詰める。

 追伸——ライゼン商会の当主は、私が思っていたより遥かに手強い。帳簿の数字だけでなく、戦略の本質を読む目を持っている。これからの戦いは、辺境の小競り合いでは済まなくなる。覚悟しておいてほしい。——R.K.』


 ペンを置いたとき、窓の外はもう暗かった。

 ヴェルデンの夜空に星が散らばっている。この星の下のどこかで、マルグリット・オーベル・フォン・ライゼンも次の一手を考えているだろう。

 ——歓迎するよ。まともな競合がいない市場なんて、退屈なだけだ。

 口元が微かに歪む。

 それが強がりなのか本音なのか、レイ自身にもわからなかった。

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