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第5話 初取引——信用はゼロから積む

「取引? 魔族と? ——冗談はよしてくれ」

 ヴェルデンの穀物商は、レイの顔を見るなり手を振った。店の奥に引っ込もうとする背中に、レイは営業スマイルを貼りつけたまま声をかける。

「利率は年8%、契約魔法《コントラクト》で品質と納期を保証します。リスクはほぼゼロです」

「魔族の品物を扱ってるとバレたら、ライゼン商会に取引停止を食らう。利率がどうとかの話じゃねえんだよ」

 扉が閉まった。

 これで7軒目だった。


 ノヴァ・ソシエタス設立から3日。レイは単身で人間領に戻り、取引先の開拓に走り回っていた。結果は惨憺たるものだった。

 ——予想はしていた。だが、ここまでとは。

 問題は二つある。

 一つは、ライゼン商会の支配力。魔族領との交易路を独占する彼らに逆らえば、人間側の商人は流通網から締め出される。経済的な死刑宣告だ。合理的な判断として、誰もリスクを取らない。

 もう一つは、もっと根深い。

 ——種族間の不信。

 魔族領でも事情は同じだった。フィーネから届いた伝書によれば、ダークエルフ族の長老は「人間の商人など信用できん」と面会すら拒否し、蜥蜴人族の族長は「まず魔王が保証しろ」と突き返したという。ヴァルナキアの名前を出しても、部族間の自治意識が壁になる。

 信用がない。実績がない。だから取引できない。取引できないから実績が積めない。

 ——デッドロック。前世でも見た光景だ。

 新人アナリスト時代、最初のディールを取るまでの半年間を思い出す。実績がないから案件を任せてもらえない。案件がないから実績が作れない。あのとき九条嶺一がやったことは単純だった。

 大きな案件を狙わない。誰も見向きしない小さな案件で、確実に結果を出す。

 ——同じだ。

 レイはヴェルデンの安宿に戻り、羊皮紙を広げた。


 ***


 翌朝、レイが訪ねたのは商店街の外れにある小さな薬草店だった。

 店主の名はトマス。白髪交じりの痩せた男で、棚に並ぶ薬草の種類は多いが、どれも品質は二級品ばかりだ。ライゼン商会の流通網から半ば締め出された零細商人——レイが昨夜、宿場町の酒場で情報を集めて見つけた標的だった。

「希少薬草を、ライゼン商会の半値で卸せます」

 トマスの目が動いた。警戒と欲が同時に灯る。

「……半値? そんなことが可能なのか」

「可能です。ライゼン商会が中間搾取で84%を抜いているからこそ、直接取引なら半値でも十分な利益が出る。あなたにとっても、我々にとっても」

 レイは計算書を見せた。魔族領での採取コスト、輸送コスト、そして契約魔法による品質保証の仕組み。トマスは数字を追う目つきで、商人としての勘が残っていることを示した。

「品質は保証できるのか。魔族領の薬草は、ものによっては魔力汚染があると聞く」

「契約魔法で品質基準を明記します。基準を下回れば、こちらが違約金を支払う。魔力的な拘束がかかるので、嘘はつけません」

 トマスの指が、カウンターの上で止まった。

「……ライゼン商会にバレたら」

「最初は小口です。薬草10束。あなたの通常仕入れに紛れる量にする。実績ができてから規模を広げましょう」

 ——小さく始めて、実績で信用を積む。スタートアップの鉄則だ。

 トマスは長い沈黙の後、頷いた。

「10束だけだ。それ以上は、結果を見てからにする」

「十分です」

 契約魔法で締結された小さな契約書。金額にして金貨15枚。前世の感覚なら、昼食代にもならない案件だ。

 だが、これが最初の一歩になる。

 レイは魔族領に伝書を送った。フィーネ宛に、必要な薬草の種類と数量、品質基準、納期を記した発注書を添えて。


 ***


 7日後、最初の納品が完了した。

 ダークエルフ族の薬草採取班が用意した希少薬草は、トマスの基準を大きく上回る品質だった。当然だ。ライゼン商会が安く買い叩いていただけで、魔族領の薬草は元々一級品なのだから。

 トマスは無言で薬草を検品し、それから小さく息を吐いた。

「……本物だな。こんな品質の薬草、ライゼン経由では手に入らなかった」

「次は20束でいかがですか」

「……30にしてくれ」

 レイは表情を変えなかった。だが内心では、小さな歯車が噛み合った音を聞いていた。

 ——信用創造の第一段階。実績という担保が、次の信用を生む。

 この取引の噂は広がるだろう。小さな町だ。トマスの棚に一級品の薬草が並べば、同業者は気づく。そして気づいた者の中から、次の取引先が現れる。

 問題は、この脆い仕組みが軌道に乗るまでの時間を、敵が与えてくれるかどうかだった。


 ***


 答えは、3日後に届いた。

 フィーネからの緊急伝書は短かった。


『第二便の輸送隊が襲撃された。薬草は全量奪取。護衛の兵士2名が負傷。犯人は不明。人間の武装集団との報告あり』


 レイは宿の部屋で伝書を読み、静かに紙を置いた。

 ——早い。

 予想より早かった。最初の取引が成立してからわずか10日。まだ金貨50枚にも満たない取引規模で、もう妨害が入った。

 ライゼン商会か。あるいは、その息がかかった誰かか。

 いずれにせよ、ここで引けば終わりだ。最初の妨害に屈した商会など、二度と信用されない。

 ——情報が要る。

 レイはヴェルデンの裏通りに足を向けた。酒場で断片的に聞いていた名前がある。辺境の情報を扱う商人。表の市場には出てこない存在。


 その店は、路地裏の地下にあった。看板はない。階段を降りると、香辛料と獣脂の混じった独特の匂いが鼻を突く。

 薄暗い空間の奥に、一人の女が座っていた。

 獣人だった。狐に似た耳が、フードの隙間から覗いている。琥珀色の瞳がレイを値踏みするように見据えた。

「ノヴァ・ソシエタスのレイ・クジョウ。噂は聞いてるよ」

 レイは足を止めた。こちらの名前と所属を、すでに知っている。

「シルヴィ・ノクターン、ですね」

「情報商人。フリーランス。どこにも属さない。——で、何が知りたい?」

 値段交渉すら省いた直截さ。レイは気に入った。前世の投資銀行でも、優秀なブローカーほど前置きが短い。

「3日前、魔族領からの輸送隊が襲撃されました。犯人の特定と、背後関係」

「金貨5枚」

「高い」

「安いよ。自分で調べたら何日かかる? 時間もコストだろ、元バンカーさん」

 レイは一瞬だけ目を細めた。前世の経歴まで掴んでいるわけではないだろう。だが、金融の知識を武器にする人間という情報は、すでに掴まれている。

 金貨5枚を置いた。

 シルヴィは硬貨を一枚ずつ確認し、それからフードの下で笑った。

「答え。襲撃したのはグレンデル子爵の私兵。辺境領の小領主で、ライゼン商会から交易路の通行管理を委託されてる。独自判断か指示かは不明だけど、まあ、ライゼンの利益と一致してるのは確かだね」

「グレンデル子爵……」

 レイは名前を記憶した。小領主。ライゼン商会の末端。交易路の通行管理権を持つ。

「ついでに。グレンデルは金遣いが荒いことで有名だよ。領地経営は赤字続きで、あちこちに借金がある。ライゼンの犬をやってるのも、その上納金で食ってるから」

 シルヴィは付加価値まで乗せてきた。優秀な情報商人だ。

「借金の証文は、誰が持っていますか」

「ヴェルデンの両替商が3件、隣領の地主が1件。合計で金貨800枚ほど。返済期限はとっくに過ぎてるけど、ライゼンの後ろ盾があるから誰も取り立てられない」

 レイの頭の中で、前世のM&A部門で何度も見たスキームが組み上がった。

 ——ディストレスト・デット。不良債権の買い取り。

 返済見込みの薄い債権は、額面より大幅に安く市場に出回る。それを買い集めれば、債権者としての交渉力を手に入れられる。

「もう一つ聞きます。その証文、売りたがっている債権者はいますか」

 シルヴィの狐耳がぴくりと動いた。

「……いるね。両替商のうち2件は、回収を諦めてる。額面の3割で手放すと思うよ」

「紹介料は」

「金貨2枚。——気前がいい客は好きだよ、レイ・クジョウ」


 ***


 2日後、レイはグレンデル子爵の借金の証文を3件、合計額面金貨600枚分を、金貨180枚で取得した。

 ノヴァ・ソシエタスの手持ち資金からすれば痛い出費だ。だが、これは投資だ。

 レイはグレンデル子爵の館に、丁寧な書状を送った。


『拝啓 グレンデル子爵閣下

 突然のご連絡をお許しください。このたび、閣下が両替商より借り入れられた金貨600枚分の債権を、正式な手続きにより取得いたしました。つきましては、返済計画についてご相談の機会を賜りたく存じます。

 なお、弊商会の輸送隊が貴領内で襲撃を受けた件についても、併せてお話しできればと考えております。

 ノヴァ・ソシエタス共同代表 レイ・クジョウ』


 返事は翌日届いた。震える筆跡で、面会の日時が記されていた。

 ——剣を抜くまでもない。

 金貨600枚の証文。返済期限をとうに過ぎた不良債権。法的には、レイはいつでも領地の差し押さえを請求できる立場にある。グレンデル子爵がそれを理解できない愚か者でないことを、レイは祈った。

 面会は短かった。

 グレンデル子爵は、肥満体の中年男だった。額に汗を浮かべ、レイの差し出した証文の束を見つめている。

「これは……どういうつもりだ」

「簡単な取引です」レイは穏やかに言った。「弊商会の輸送隊への妨害を停止していただければ、返済条件を見直します。年利を下げ、期限を延長する。悪い話ではないはずです」

「わ、私は何も命じていない——」

「子爵。私は犯人を追及しに来たのではありません。今後の取引環境について、建設的なお話をしに来ました」

 レイは証文を一枚、テーブルの上に置いた。

「もちろん、お話がまとまらなければ、この証文は法に基づいて処理するしかありません。辺境裁判所への申し立ては——」

「わかった」

 子爵の声は掠れていた。

「わかった。輸送隊には手を出さない。だから——」

「ありがとうございます。では、新しい返済計画書をお送りしますね」

 レイは立ち上がり、一礼して館を後にした。


 外に出ると、初夏の風が吹いていた。

 ——帳簿で殴る。

 前世では比喩だった言葉が、この世界では文字通りの武器になる。剣を抜かず、血を流さず、数字と契約だけで敵の動きを封じる。

 これが自分の戦い方だ。

 だが、レイは同時に理解していた。グレンデル子爵は末端に過ぎない。ライゼン商会という巨大な独占企業は、末端を一つ潰されたところで痛くも痒くもない。

 宿に戻ると、シルヴィからの伝書が届いていた。


『おめでとう、初勝利。ところで、ライゼン商会のマルグリット・オーベル・フォン・ライゼン女公爵が、辺境の新興商会に興味を持ち始めたという噂があるよ。まだ噂の段階。金貨1枚で続報を優先的に流す。——S.N.』


 レイは伝書を畳み、窓の外を見た。

 ライゼン商会。交易路の独占者。魔族領搾取の元凶。そのトップが、こちらを認識し始めた。

 ——早すぎる。もう少し実績を積んでからぶつかりたかった。

 だが、相手が動くなら、こちらも備えなければならない。

 レイは金貨1枚を封筒に入れ、シルヴィ宛の返書を書いた。


『続報を頼みます。——R.K.』


 ノヴァ・ソシエタスの最初の売上は、金貨15枚。

 最初の勝利は、一滴の血も流さずに終わった。

 だが、本当の戦いはまだ始まってすらいない。

 レイは革筒から銀色の契約書を取り出し、その文面を確認した。ノヴァ・ソシエタス設立契約。全34条。ヴァルナキアとの対等な共同経営。

 この薄い羊皮紙一枚が、今のところ自分が持つ最大の資産だ。

 ——次は、もっと大きな取引を仕掛ける。そしてその前に、商会の信用を裏付ける財務基盤を作らなければならない。

 キャッシュフローが回り始めれば、信用が信用を呼ぶ。逆に、ここで止まれば、すべてが瓦解する。

 スタートアップの生存率は、最初の1年で決まる。

 レイは新しい羊皮紙を広げ、事業計画の修正に取りかかった。窓の外では、ヴェルデンの夕日が交易路の彼方に沈んでいく。

 その交易路の先に、ライゼン商会が待っている。

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