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第4話 敵対的買収《ホスタイル・テイクオーバー》成立

 ペンを置いたのは、3日目の朝日が地下の通気孔から差し込んだ瞬間だった。

 72時間。羊皮紙48枚。蝋燭14本。睡眠は合計で3時間もなかった。前世の投資銀行時代でも、ここまで追い込まれたピッチブックは記憶にない。

 ——だが、出来は上々だ。

 レイは羊皮紙の束を革紐で綴じ、表紙に一行だけ書き加えた。

 『魔王軍再編提案書——敵対的買収《ホスタイル・テイクオーバー》から友好的統合《フレンドリー・マージャー》へ』

 フィーネが差し入れてくれた黒パンを齧りながら、玉座の間へ向かう。ドラグが無言で横を歩いた。3日間の監視で、この鬼族の将軍がレイを殺す気がないことは確認済みだった。殺意があれば初日に実行している。3日も待つ忍耐力がある武人は、判断力もある。


 玉座の間。ヴァルナキアが紫の瞳でレイを見下ろした。

「3日だと言ったな、人間」

「はい。約束通り、提案書を持参しました」

 レイは羊皮紙の束を広げた。

「結論から申し上げます。魔王軍を軍事組織として解体し、人魔混合の商会として再編する。全14部族の資源と労働力をポートフォリオとして統合し、ライゼン商会が独占する交易路の外側に、新たな流通網を構築します」

 沈黙が落ちた。

 ヴァルナキアの指が、玉座の肘掛けを叩いた。一定のリズム。苛立ちではない。思考のリズムだ。

「——つまり貴様は、我が軍を会社にしろと言っている」

「端的に言えば、そうです」

「魔族の主権を、人間の商人に売り渡せと」

「いいえ。主権の移転ではなく、経済基盤の再構築です。軍事力では王国に勝てない。ですが経済力なら——」

「黙れ」

 ヴァルナキアが立ち上がった。白銀の髪が揺れ、玉座の間の空気が重くなった。魔力の圧。レイの肺が一瞬、呼吸を忘れた。

「魔族は、人間の下請けにはならん」

 ——予想通りの反応だ。

 レイは内心で頷いた。買収提案に対する拒否反応。だがこれは交渉の初手だ。相手が何を拒否し、何なら受け入れるかを炙り出すための。

「では、対案をお聞かせください」

 ヴァルナキアの目が僅かに細まった。

「買収ではなく、共同経営だ。貴様と余の対等な二頭体制。魔族の自治権は余が保持し、商業戦略は貴様が担う。——これなら聞いてやる」

 レイの脳内で、瞬時にストラクチャーが組み替わった。

 買収から合弁へ。支配権の獲得ではなく、経営権の分割。前世の用語で言えばジョイント・ベンチャー。リスクは増えるが、実行可能性は上がる。魔王の権威が商会の信用補完になるなら、むしろ——

「……条件次第で、受けます」


 ***


 問題は四天王会議だった。

 玉座の間に集められた四天王——その筆頭ドラグ・バルトロスが、提案書を読み上げるフィーネの声を遮った。

「ふざけるな」

 2メートルを超える巨躯が椅子を蹴倒した。赤い肌に怒気が昇り、部屋の温度が物理的に上がった。

「魔族の誇りを人間の紙切れで売るのか。ヴァルナキア様、この人間を今ここで——」

「ドラグ」ヴァルナキアの声が静かに割って入った。「余は聞くと言った。先に聞け」

 ドラグの拳が震えた。だが魔王の命には従う。それが忠誠だ。

 レイは立ち上がった。恐怖がないと言えば嘘になる。ドラグが本気で殴れば、レイの身体は壁の染みになる。だが——恐怖で交渉テーブルを降りた投資銀行員はいない。正確には、いたが、全員キャリアを失った。

「ドラグ将軍。一つ、事実を確認させてください」

「……なんだ」

「あなたの部隊の兵糧備蓄は、現時点で何日分ですか」

 ドラグの表情が固まった。

「……11日だ」

「先月は何日分でしたか」

「……18日」

「先々月は」

 沈黙。フィーネが静かに答えた。「25日分でした」

 レイは指を3本立てた。

「毎月7日分ずつ減っている。2ヶ月後にはゼロです。誇りでは兵は養えない。——ですが、紙切れでなら養えます」

 ドラグの目が燃えた。文字通り、鬼族の瞳に炎が揺れた。

「ならば証明してみせろ、人間。口先だけなら斬る」

「3日ください」

「……なに?」

「3日で、あなたの部隊に兵糧を届けます。戦わずに。取引だけで。——届かなければ、私の首を差し上げます」

 玉座の間が凍りついた。フィーネが息を呑む音が聞こえた。

 ドラグが低く笑った。

「面白い。乗ってやる」


 ***


 記録庫に戻ったレイは、フィーネの15年分の帳簿を片端から広げた。

「各部族の産出品目と消費品目の一覧を出してください。できるだけ詳細に」

 フィーネの手が素早く動いた。銀縁眼鏡の奥の目が、レイの意図を読み取ろうとしている。

「——三角貿易ですか」

 レイは目を見開いた。この世界に、その概念を理解する人間がいるとは。

「近いです。正確に言えば、多角的なバーター・ネットワークの最適化です」

 帳簿を突き合わせた結果が出た。

 北部の鬼族——ドラグの部族——は鉄鉱石が余剰で穀物が不足。東部のダークエルフ族は薬草が余剰で鉄器が不足。南部の蜥蜴人族は穀物が余剰で薬草が不足。

 三すくみだった。各部族が隣と直接取引しないまま、それぞれが欠乏に苦しんでいた。

「なぜ部族間で取引しないんですか」

「信用がないからです」フィーネが即答した。「口約束を守らなかった歴史が長すぎて、部族間の直接取引は事実上崩壊しています」

 ——信用の不在。これだ。

 前世の金融史で何度も見た構造だった。取引機会があるのに信用が足りない。ならば信用を創出すればいい。この世界には、そのための完璧なインフラがある。

「契約魔法《コントラクト》を使います」

 フィーネの目が光った。

「……契約魔法で、三者間の同時履行を担保する?」

「そうです。鬼族は鉄鉱石を蜥蜴人族に、蜥蜴人族は穀物を鬼族に、ダークエルフ族は薬草を蜥蜴人族に、蜥蜴人族は——いえ、もっとシンプルに」

 レイは羊皮紙に図を描いた。三角形。各頂点に部族名。辺に沿って矢印と品目。

「契約魔法で三角取引契約を締結する。一者でも履行しなければ全員にペナルティが発動するから、裏切りのインセンティブが消える。ゲーム理論で言う——いや、そんなことはどうでもいい。要は、魔力が信用保証の代わりになる」

 フィーネが契約書の草案を書き始めた。レイが条項を口述し、フィーネが魔法的に有効な文面に翻訳する。2時間で三通の契約書が完成した。

 翌日、各部族の長と個別に交渉。レイが提示したのは数字だった。現在の物々交換レートと、三角取引で実現するレートの差。どの部族も、取引するだけで手取りが3割増える。拒否する理由がない。

 3日目の朝。ドラグの陣営に、蜥蜴人族の荷駄隊が穀物を運び込んだ。

 ドラグは荷を検分し、袋を一つ開けて中身を確かめ、長い間黙っていた。

「……約束は守ったな」

「ええ。首は私についたままです」

 ドラグは鼻を鳴らした。認めたくないが、認めざるを得ない。その表情をレイは見逃さなかった。

 ——これは賛成ではない。反対を取り下げただけだ。だが交渉においては、沈黙は同意に等しい。


 ***


 商会設立の契約式は、玉座の間で行われた。

 四天王全員が列席する中、レイが羊皮紙を広げた。契約魔法《コントラクト》による正式な設立契約。前世の定款に相当するが、この世界では破約に魔力的拘束が伴う。株主間協定と定款が、物理法則で裏書きされているようなものだ。

「第一条。商会名称を『ノヴァ・ソシエタス』とする」

 レイが読み上げ、ヴァルナキアが条項ごとに精査した。

「第七条。魔族の自治権は商会の事業判断に優越する——これは残せ」

「残します。ただし『事業に直接関わる資源配分については、経営会議の合議による』と但し書きを加えさせてください。でなければ事業計画が機能しません」

 ヴァルナキアが考え込み、頷いた。

「第十二条。利益配分は各部族の拠出資源評価額に比例する——」

「待ってください」フィーネが割って入った。「拠出資源の評価基準が未定義です。誰がどの時点の相場で評価するのか、明記しないと後で必ず揉めます」

 レイは思わず笑みを漏らした。

「おっしゃる通りです。評価は四半期ごとに経営会議で査定、査定基準は直近取引の加重平均——」

「加重平均の算出期間は」

「直近90日」

「短すぎます。季節変動を吸収できない。180日を推奨します」

「……180日で」

 フィーネの指摘は正確だった。前世なら優秀なCFOだ。いや、前世でも滅多にいないレベルかもしれない。

 全34条の読み合わせに、4時間を要した。

 最後の条項を読み終えたとき、玉座の間に奇妙な静寂が降りた。

 レイが羊皮紙にペンを走らせた。署名。

 ヴァルナキアが玉座から降り、隣に並んで署名した。

 フィーネが会計監査人として、三番目に署名した。

 契約魔法が発動した。羊皮紙が淡い紫の光を放ち、三者の魔力——レイの場合はほぼ皆無に等しいが——が契約に刻み込まれた。光が収まると、羊皮紙の文字が銀色に変わっていた。

 ドラグが壁際で腕を組んでいた。署名はしていない。だが、止めもしなかった。

「ノヴァ・ソシエタス」ヴァルナキアが呟いた。「新しい共同体、か」

「ラテン語です。——いえ、こちらの言葉ではありませんが、意味はそうです」

「名前は気に入った。中身はこれから見せてもらう」

 レイは頷いた。

 玉座の間の窓から、魔族領の荒野が見えた。鉱山、森林、広大な土地。金貨300万枚の潜在価値が眠る大地。

 ——ここからが本番だ。

 設立は終わった。だが商会はまだ売上ゼロ、従業員ゼロ、信用ゼロの状態だ。そして最大の障壁——ライゼン商会という既存の独占企業が、交易路の向こう側で待っている。

 前世の言葉で言えば、シリーズAの資金調達すら終わっていない。事業計画書だけで会社を登記したに等しい。

 だが、3日前にはなかったものが一つある。

 契約だ。魔力で裏書きされた、破ることのできない契約。

 信用創造の第一歩は、常に一枚の契約から始まる。

 レイは銀色に光る羊皮紙を丁寧に巻き、革筒に収めた。前世で追放通知を保管したのと同じ革筒に。

 一方は終わりの証文。もう一方は始まりの証文。

 ——さて。次は、この商会に実体を持たせる番だ。

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