第3話 デューデリジェンスは命懸け
3日。72時間。
前世で企業再生案件のピッチブックを徹夜3日で仕上げたとき、手元にはブルームバーグ端末と有能なアナリスト2人と、冷蔵庫いっぱいのレッドブルがあった。今あるのは銀貨67枚と、羊皮紙の束と、自分を殺したがっている鬼族の将軍だけだ。
——条件は最悪だ。だが案件の質は、前世のどれより上等だ。
翌朝。レイが城内の客間——と呼ぶには殺風景すぎる石壁の小部屋——で目を覚ますと、扉の前に赤い壁が立っていた。
壁ではない。ドラグ・バルトロスの背中だ。
「おい、人間。起きたか」
身長2メートル超の鬼族が振り返る。腕を組んだ姿勢が、そのまま威圧になる。
「おはようございます、ドラグ殿。本日から査定を——」
「黙れ。俺は陛下の命でお前を監視する。それだけだ。お前が何をしようと構わんが、怪しい真似をすれば首を折る。比喩ではない」
比喩ではないのは分かっている。この男の握力なら物理的に可能だろう。レイは内心で、自分の首の資産価値を金貨換算した。今のところ、折られるには惜しい程度の値はつく。
「承知しました。では査定に同行いただけますか。最初に財務記録の保管庫を拝見したい」
「好きにしろ」
フィーネが待っていたのは、城の地下にある記録庫だった。
記録庫、と呼ぶべきかどうか。石造りの部屋に木箱が積まれ、中には羊皮紙の束が雑然と詰め込まれている。分類の体系は見当たらない。年度別でもなく、部族別でもなく、ただ時系列順に——いや、時系列すら怪しい。
「これが魔王軍の全財務記録です」
フィーネが銀縁眼鏡の奥から、感情を殺した目でレイを見た。恥じているのだと、レイは直感した。この女性は自分が管理すべき記録がこの有様であることを、誰よりも恥じている。
「……率直に伺います。複式簿記は」
「概念が存在しません。収入と支出の記録はありますが、資産と負債を対照する発想がそもそもない。各部族が独自の慣習で記録しているので、統一された会計基準もありません」
レイは木箱の一つから羊皮紙を取り出した。鉱山からの魔石産出記録らしい。数字は書いてある。だが単位が統一されていない。ある行は重量で、次の行は個数で、その次は『荷車3台分』という記載だった。
——粉飾決算どころか、決算すら存在しない。
投資銀行時代、デューデリジェンスで最も厄介だったのは粉飾を見抜く作業だった。だがここには粉飾する知識すらない。嘘がないのは美点だが、真実を読み取る手段もない。ゼロからの再構築だ。
「フィーネ殿。この3日間、あなたの時間をすべていただけますか」
「構いません。ただし——」
彼女は背後のドラグをちらりと見た。ドラグは腕を組んだまま壁に寄りかかり、つまらなそうにしている。
「四天王筆頭殿の機嫌は、私の管轄外です」
「帳簿を見るだけだ。首を折る理由にはならないでしょう」
「この方の理由は、あまり論理的ではありません」
ドラグが鼻を鳴らした。聞こえている。
作業は想像以上に過酷だった。
レイとフィーネは記録庫に籠もり、木箱を片端から開けて羊皮紙を仕分けた。ドラグは部屋の隅に陣取り、時折苛立たしげに貧乏揺すりをした。この男にとって、数字の羅列ほど退屈なものはないらしい。その点だけは同情する。
初日の午前で判明したこと。魔王軍を構成する部族は大小合わせて14。うち帳簿らしきものを残しているのは6部族のみ。残り8部族は口頭伝承と族長の記憶に依存している。
「6部族の記録から全体を推計します。まず各部族の人口、保有資源、年間の産出量と消費量を——」
「人口すら正確な数字がありません」
「概算で構いません。誤差20%は許容します」
フィーネが眉を上げた。
「許容するのですか。数字の人が」
「完璧なデータで完璧な分析をする時間はない。不完全なデータから最善の推計を出すのが、デューデリジェンスです。前世では——」
言いかけて止めた。前世の話は、ここでは通じない。
「……経験上、完璧な帳簿を持つ企業は存在しません。重要なのは、どこが不正確かを知ることです」
フィーネは一瞬だけ、微かに口元を緩めた。同意の表情だった。
初日の夕刻までに、レイは魔王軍の資源ポートフォリオの概要を掴んだ。
羊皮紙に書き出した数字を見つめる。
魔石鉱山3カ所。ミスリル鉱脈1カ所。希少薬草の自生地が広大な森林帯に点在。魔獣素材は狩猟で恒常的に供給される。
産出量は——控えめに見積もっても、年間金貨8万枚相当。
だが実際に魔王軍の手元に残る現金は、年間金貨1万枚にも満たない。差額の84%以上がライゼン商会を通じた交易で中間搾取されている。フィーネの断片的な記録と、レイが辺境で集めた交易データが、同じ数字を指し示した。
「フィーネ殿。魔石1単位あたりの買取価格は」
「銀貨8枚です。ライゼン商会の提示価格で、ここ10年変わっていません」
「人間領での末端価格は」
「……正確には把握していませんが、銀貨60枚から80枚と聞いたことがあります」
レイは数字を書き留めた。買取価格と末端価格の差、約8倍から10倍。中間マージン率にして87%から90%。
——これはもう搾取という言葉では生ぬるい。構造的な収奪だ。
前世で見た新興国の資源企業を思い出す。現地では二束三文で買い叩かれる希少鉱物が、先進国の市場では数十倍の価格で取引される。同じ構造だ。違うのは、ここでは是正する市場メカニズムも規制当局も存在しないこと。
搾取が永続する理由は単純だった。交易路の独占。魔族領から人間領への物流ルートをライゼン商会が押さえている限り、魔族は提示された価格で売る以外の選択肢がない。
2日目。レイは記録庫を出て、実地調査に移った。
ドラグの部隊の駐屯地を訪れたのは、兵站コストの実態を確認するためだった。名目上は。
駐屯地は城壁の外、岩場を削って作られた野営地だった。天幕が規則正しく並んでいる。軍事組織としての規律は保たれている——少なくとも外見上は。
だがレイの目は数字を拾う。
天幕の補修状態。装備の劣化度。兵士たちの体格。顔色。
——栄養失調だ。全員ではないが、3割は明らかに。
炊事場を通りかかったとき、配給の現場を見た。大釜から椀に注がれる汁物は、薄い。具はほとんど入っていない。兵士たちは文句を言わずに受け取り、黙々と食べた。文句を言う気力もないのかもしれない。
レイはその光景を見ながら、羊皮紙に数字を書いた。一人当たりの推定カロリー摂取量。必要量との乖離。このペースで何カ月持つか。
「何を書いている」
ドラグの声が背後から降ってきた。
「兵站の記録です」
「俺の部隊の飯の量を数えて、何になる」
「全体の財務状況を正確に把握するために必要です」
ドラグは答えなかった。その沈黙に、怒りとは違う感情が混じっていることに、レイは気づいた。
午後、レイは駐屯地の外れで別の光景を見た。
天幕の裏手。布で覆われた区画。フィーネがレイの視線に気づき、小さく首を振った。見るなという意味だったのだろう。
だがレイは見た。
布の下に横たわっていたのは、動かなくなった兵士だった。2人。痩せ細った体。餓死だと、一目で分かった。
レイは足を止めた。
数字を書こうとして、ペンが止まった。
——記録しろ。感情ではなく、数字として。
3秒。呼吸を整えた。ペンを動かした。
『兵站不足による死亡:確認2名。推定では他部族含め月間10名前後』
書き終えて、顔を上げた。
ドラグが立っていた。レイの背後ではなく、布で覆われた区画の前に。
四天王筆頭は、死んだ部下たちを見下ろしていた。その巨体が、わずかに震えていた。
——この男は、自分の配給を減らしている。
炊事場での配給を思い出す。ドラグは列に並ばなかった。将軍だから別枠で食事が出るのだと思っていた。違う。食べていないのだ。自分の分を兵に回している。
武人の誇り。部下を守るという矜持。だがその矜持では、構造的な飢餓は止められない。個人の献身は美しいが、システムの欠陥を個人の犠牲で埋めるのは——持続不可能だ。
レイは何も言わなかった。今ここで同情を口にすれば、この男は激昂する。正論を述べても同じだ。ドラグに必要なのは言葉ではない。
——数字で証明する。この軍を立て直す方法があると。
レイは羊皮紙を閉じ、記録庫に戻った。
2日目の深夜。
記録庫の机に羊皮紙を広げ、レイは数字の海に沈んでいた。蝋燭の灯りが揺れる。フィーネが向かいの席で、部族別の資源データを整理している。ドラグはとうに寝落ちしている。椅子に座ったまま腕を組み、いびきをかいている。監視役としては失格だが、指摘する気にはなれなかった。
「フィーネ殿」
「はい」
「数字が揃いました」
フィーネがペンを置いた。
レイは羊皮紙を回して見せた。2日間で集めたデータを集約した、魔王軍の資産評価シート。前世ならExcelで30秒の作業だが、手書きで6時間かかった。
「魔王軍の保有資産を現在の市場価格——ライゼン商会の買取価格ではなく、人間領での実勢価格で再評価しました」
フィーネの目が数字を追う。銀縁眼鏡の奥で、瞳が微かに見開かれた。
「……金貨240万枚」
「控えめな見積もりです。魔石鉱山の埋蔵量推計を加味すれば、300万枚を超える可能性がある」
前回の提案書で示した推定企業価値は金貨120万枚。あれは公開情報からの推計だった。実地調査の結果、その数字は倍になった。
魔王軍は、自分たちがどれほどの富の上に座っているか知らない。知る手段がなかった。帳簿がなく、市場価格の情報がなく、自分たちの資産を正しく評価する方法がなかった。
「問題は換金手段です」
レイは羊皮紙の下部を指した。
「資産が金貨300万枚あっても、交易路をライゼン商会に握られている限り、この価値は実現できない。絵に描いた餅です」
「……ではどうするのですか」
「交易路を迂回する。あるいは新しい交易路を作る。あるいは——」
レイは新しい羊皮紙を取り出した。白紙だ。ここからが本番だった。
「——ライゼン商会を通さない販路を、こちらで構築する。そのための組織が、私が提案する商会です」
ペンを走らせる。買収スキームの骨格。魔王軍を軍事組織から経済共同体に再編する設計図。14部族それぞれの保有資源を出資とみなし、利益を保有比率に応じて分配する。誰も切り捨てない。誰もが、今より良くなる。
ヴァルナキアの言葉が頭の中で響いた。
『一人でも切り捨てる案なら、私はお前を食う側に回る。文字通りの意味でな』
——切り捨てない。全員を株主にする。損をする人間はゼロ。
それが可能だと信じているのかと問われれば。
可能だ。数字が証明している。搾取構造を解体するだけで、全部族の取り分が現状の5倍以上になる。パイを奪い合うのではなく、パイそのものを膨らませる。
前世のM&A案件では、よくある話だった。非効率な中間業者を排除するだけで企業価値が跳ね上がる。教科書通りの垂直統合だ。
ただし。
教科書に書いていないことがある。ライゼン商会は黙って排除されない。既得権益は、奪われるとき最も凶暴になる。それは前世でも、この世界でも同じだ。
レイはペンを止めた。
3日目の朝までに、提案書を完成させなければならない。残り10時間。
「フィーネ殿」
「はい」
「この数字を見て、どう思いますか」
フィーネは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「……魔王軍に15年仕えて、初めて知りました」
「何をです」
「私たちが、どれほど騙されていたか」
その声は、震えていなかった。怒りですらなかった。乾いた、硬質な認識だった。数字を扱う人間が、数字で現実を突きつけられたときの、あの表情。レイはそれを知っていた。
「騙されていたのではありません。知る手段がなかっただけです。ですが——」
レイは買収スキームの羊皮紙を掲げた。
「これからは、数字で武装できる」
フィーネは眼鏡をかけ直した。
「……私の15年分の帳簿が、ようやく意味を持つのですね」
「なくてはならないデータです。あなたの記録がなければ、この試算は不可能でした」
それは事実だった。お世辞ではない。不完全な記録であっても、記録が存在すること自体が価値だ。フィーネが孤軍奮闘で残した数字の断片が、今、金貨300万枚の裏付けになっている。
蝋燭が一本、燃え尽きた。
フィーネが新しい蝋燭に火を移した。ドラグのいびきが、規則正しく響いている。
レイはペンを取り直した。
残り10時間。金貨300万枚の再建計画。14部族の全員が得をする設計。そしてライゼン商会という巨大な敵。
——まとめてピッチブックに詰め込む。これが、異世界初の敵対的買収の設計図になる。
もっとも、買収対象が買収に同意すれば、敵対的ではなくなる。その場合の正式名称は、友好的買収だ。
レイは書き続けた。魔王城の地下で、蝋燭の灯りだけを頼りに。
3日目の朝が来るまで、ペンを止めるつもりはなかった。




